第二百三十七章 バンクス 1.「樫の木亭」久闊篇
理不尽な気苦労をさせられたせいで斜めに傾いでいたクロウの機嫌も、バンクスの町で行き会う顔見知りに挨拶を交わしているうちに、どうやら元に戻ったようだ。しかしそうすると、代わって別の懸念が胸裏に兆すようになった。
――果たして例年の宿にしている「樫の木亭」は、今年も部屋を空けていてくれるだろうか。
何しろバンクスと言えば、今や天手古舞いにごった返しているシャルドに一番近い都会である。シャルドが必要とする人材資材のほぼ全てが、ここバンクスによって差配されていると言ってもいい。いや、それだけでなく、来年の王女来訪の際には、ここバンクスも間違い無く訪問先に選ばれる筈で、そのための準備でも町は大童になっている筈。
それら一切の準備となると、シャルドに元からある商店商会だけでは対応できないであろうから、外から訪れる商人も少なくない筈。言い換えると、それらの商人たちが必要とする宿も少なくない。ゆえに、「樫の木亭」の部屋が空いているかどうかは、甚だ心許無い状況であったのだが……
「おっ! クロウさんいらっしゃい。部屋なら取ってあるぜ」
笑みを浮かべてクロウを出迎えてくれた「樫の木亭」の主人・ジェハンの歓迎の言葉に、クロウの懸念は払拭されたのであった。
・・・・・・・・
「いやクロウさん、確かに大変っちゃ大変だが、そこまで大事にゃなってねぇんだよ」
九ヵ月ぶりの久闊を叙した後で、クロウの疑問に答える形でジェハンが説明してくれたところによると、
「ははぁ……ちゃんとした迎賓館が元からあるんですか」
「ま、そういうこった。これでこの町もそれなりに、今までお偉方をお迎えしてきたからな」
改めて考えてみれば、ここバンクスは王都イラストリアの出入口を押さえる大都市であり、マナステラやマーカスといった周辺国からの街道が集まる要衝である。当然、近隣各国からお偉方を迎える機会も多かった訳で、そのためのノウハウや経験値も、相応以上に蓄積されていたのである。
そのノウハウの一つが、バンクスの町外れに建てられた、迎賓館という名の隔離施設である。これは自由都市バンクスの運営を任されている自治組織――商人組合が中心――が保有している、郊外にある賓客向けの宿泊施設であった。そこに通じる道はシャルドに入る手前で分岐しており、迎賓館には町の中心を通らずに行けるため、〝下々の喧噪に心を乱される事無くお休み戴ける〟親切設計となっている。
その実態は、浮世離れした物知らずセレブに町の住民とイザコザを起こさせないための隔離場所なのであるが、招かれる方だってそれくらいは承知の上である。バンクス側の思惑はどうあれ、手厚い持て成しが受けられるのなら、文句を言う筋合いは無いではないか。
「ま、そんな訳で、王女様方をお迎えする場所にゃ問題は無ぇんだわ。あっこは元々小綺麗にしてあるって話だしな」
「成る程」
「シャルドの件で商人組合が大車輪なのは間違い無ぇが、これくれぇの騒ぎなら前にも何度か経験してるしな。ここよりシャルドに泊まるやつも多いし、そこまで切羽詰まっちゃいねぇのよ」
イラストリア屈指の商都にして自由都市・バンクス。その実力は中々頼もしいもののようであった。




