閑話 少年のその後~迷信? 経験則?
その後、少年がどうなったかと言うと。
母親が再婚し、新しく父親と弟が出来た。今度こそ家に居場所の無くなった少年は、長期休暇になると祖父の家に入り浸った。しかし、あの時の少女には二度と出会えなかった。
冬休みに思い出の場所へ行くと、あの家が無くなっていたのだ。
祖父に、あの家の少女がどこに引っ越したが尋ねたが、もう何年も前から人は住んでいないと返事が返ってきた。そんな筈はない。確かに自分は、あの家の少女と遊んだのだ。そう祖父に告げると、
「ともすれば、その女の子は守り神だったのかもしれんなぁ」
「まもり、がみ?」
「住む家や見た者に幸運をもたらすと言われている神様じゃなぁ」
「へー」
少女に会えないのは残念だった。あの寂しそうな顔が頭から離れずにいたのだ。
少年はあれ以来、幼い子が悲しんでいると、何とかしてあげたくなるようになってしまったのである。ちなみに男の子はダメだ。義弟を思い出して殴りたくなる。だから、女の子限定だ。
とは言え、少年はいつまでも悲しみに暮れると言う事は無かった。なぜなら、祖父の家での新しい楽しみを見つけたからだ。
――ジャラジャラジャラ
じゃらじゃら音を立てながら老人四人が机に座って手を動かしている。祖父と祖父の友人達だ。この家に来ると良く会うので少年も知っていた。
「それなに?」
「麻雀じゃ」
「まーじゃん?」
「中国発祥の遊びじゃよ」
「ま、見とれ」
こうして、少年は麻雀を覚えた。
麻雀とは確率のゲームである。
数牌が萬子、筒子、索子の三種類。
それぞれ一から九まであり、合計で二十七種。
字牌が東、南、西、北、白、發、中の七種。
それらを合わせた三十四種がそれぞれ四枚ずつあり、計百三十六枚の麻雀牌を使って役を作り、点を競うゲームなのだ。
極論(暴論)を言ってしまえばトランプでいうところのポーカーと同じカテゴリーの遊びである。
これは嵌まると病み付きになるらしい。例に漏れず少年も嵌まった。
――――――――
時は過ぎ、少年は高校生になった。家を出て一人暮らしである。いや、正確に言えば家を追い出されて一人暮らしせざるを得なくなったのだ。
義理の父と弟とは初めから仲が悪かった。しかし中学三年のある日、ずっと庇い続けてくれた母親にまで見限られてしまった。
義弟の誕生日に、母親が有名な店で誕生日用のケーキを予約した。母親は、それを取りに行く役目を少年に与えたが、少年はそのケーキを家に持って帰らなかった。ただ、買うためのお金だけが無くなった。その結果、とうとう母親は少年に愛想を尽かしたのだ。
何か理由はあったと思う。ケーキを持って帰れなかった理由が。だが、実の母親にまで愛想を尽かされたショックに、そんなものは忘れてしまった。覚えているのは自分を見る母親の目が、物を見るような目に変わったという事実だけ。
一人暮らしとなり、自由な時間が増えた少年は、ますます麻雀に嵌まっていった。
――――――――
麻雀は、昭和の時代までプロの世界でも“運”に左右されると言われてきた。所謂“ツイてる”“流れがある”などの言葉で表現された、今では迷信と言われる現象だ。驚く事にプロの雀士ですらも、その頃まではそう言っていたのだ。
しかし平成になり、ある世代が台頭してくるとそうではなくなった。彼らは総じて言うのだ。
「ツキや運なんてありません。そんな物は迷信であり、全ては確率です」
事実、満貫を振った次局に跳満を上がるなど、彼らは“流れ”に左右されなかった。そこにあるのは純然たる確率の結果である。デジタルの時代の幕開けであった。
ところが、少年に麻雀を教えたのは昭和生まれの年寄りだ。その結果、少年は確率とは違い、経験則を武器とした。
「リーチ」
「追っかけかよ!?」
少年の上家に座る青年が文句を言った。つい一手前にリーチをかけていたからだ。
「しかも無スジとか、お前俺を舐めてんな!?」
「違うよ、そうじゃない。すでに関係は出来上がっているんだ。俺の相手はあんたじゃないし、あんたの相手も俺じゃない」
「お前が何言ってるのか分からん!」
「あんたは俺に振らないし、俺もあんたには振らない。つまり気にするなって事だよ」
「ますます分からんわ!」
そんな会話の間も手は進み、少年の対門が牌を捨てた。
「ロン。リーチ1発タンピンドラドラ、跳ねたな」
「あ~あ、リー棒持ってけ、ちきしょう!」
自分が振らなくてもリーチが不発に終われば不満を覚えるのは仕方が無い事だろう。結局麻雀は、この跳満が効いて少年の勝利に終わった。
雀荘は風営法に則るため、まだ高校生の少年は夜九時過ぎには店を出るようにしている。そんな少年に合わせるように、先ほどの青年も一緒に雀荘を出た。彼も学生なのかもしれない。
「お前、必ず裏ドラ乗るよなぁ」
「そんな事ないよ。確かに乗る事は多いけどね」
「それにしたって多すぎだろ」
「手を広く取るから乗りやすいんだよ。だから乗ってもひとつかふたつだし」
確かに手を広げればドラが乗る確率は上がる。だからと言って必ず乗るとは言えないのが現実だ。
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手を広く取って聴牌の確率を上げる。受けを広く持って自摸の確率を上げる。
その結果、アガる確率も上がる。それは確率の考え方である。
祖父達は昭和生まれではあったが、頭の硬い初期の生まれでは無かった。故に確率の有効性を理解していたのだ。その上でデジタルの限界にも気付いていた。
確率を追う以上、どうしてもアガリ点は低くなる。アガれる確率が低い役だからこそ点が高くなるのがこの手のゲームだからだ。
上がりやすさで点数が決まるので、当然と言えば当然である。故に、デジタルの戦略は先手を取り、勝ち続けて終わるのが理想。
もし、大物手をアガられて差を付けられたとしたら、親で連荘するしか逆転する方法は無い。(一局で)高得点を狙うと言う事はリスクを取るという事でもあるからだ。だからこそ、デジタルの逆転での勝ち筋は親で連荘する事。これに尽きる。
(一部大会などでトータル点数が物を言う場合などもこれにあたる)
しかし、相手だってそれは分かっているのだ。もし自分の親をあっさりと流されたら? 諦めるのか?
祖父達はその答えに経験則を求めた。そして、彼らに薫陶を受けた少年もまた同じ道を歩む。
デジタルをベースに経験則で勝負をかける。少年は、そんな雀士に成長していた。
デジタルについての考察はあくまで祖父及び真也の考え方です。
(飽くまでも設定という事です)
本文にも書きましたが、デジタルでも満貫や跳満アガりますから。
必要な点数を割り出し、それを得るための手役を配牌(と自摸)から
高確率のものを割り出すのがデジタルでしょう。