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ペニスと共に去りぬ

作者: 凍原匙子

 私のちょうど、女性器のあった辺りに、男性器が、所謂ペニスが生えてきたのはつい数日前の事だった。恐らく多くの女性がそうであるように、そんなものを生やしたことのない私は当然驚きも不安も感じたが、数日も経てば試しに自慰などしてみようという考えに至っていた。それが今日の事であり、私のペニスが失われたのも同じく今日のことだ。

 友人達は今頃四限の講義を終えて別の教室に向かうか、あるいは岐路につく頃だろう。私は彼女達とは別の講義を取っていて、それが急遽休講になったのでそのまま何をするでもなく家に戻ってきてしまった。夕方と呼ぶにもまだ少々早いくらいの、中途半端な時間に暇を持て余した私は、自室でノートパソコンを開いてぼうっと画面を眺めていた。いかにも低俗なブログを流し読んで失笑していると、表示された広告の肌色が不意に目に留まった。卑猥な画像と煽り文句が躍るそれをクリックすると、新しい画面が開いて、下着姿の女の肢体が大写しになった。広告の先にもいくつもの広告があって、そこかしこで肌色が犇めいている。クリックとスクロールを繰り返し深部へと進む。辿り着いた奥地で、モザイクの他には何も纏わずに痴態を晒す女を見出すと、自然と私は私のペニスに手を伸ばした。普段とは異なる感触から、私の性的興奮に応じてきちんと勃起しようとしているのが判る。私のペニスたる確固たる証だと、私はほくそ笑んだ。

 女の私にだって、こういうものに関心を持つことはあるのだ。そう思ってから、私は今や女ではないのだと気が付く。視覚と右手から与えられる刺激によって血流が集中し膨れ上がるペニスが私を勝ち誇らせた。私には他でもない私のペニスがあって、勃起させることが出来、それを使って女と交接を行うことが出来、射精することだって出来る。すなわち男になることが出来るのだ。一緒になって昼食を囲む女友達の誰にも出来ない事が、私に限っては出来るのだ。

 そういう驕りが油断を招いたのかもしれない。右手の甲の違和感によって、そこを這う何者かの存在に気付き、私はつぶらな黒いまなこを捉えてぎょっとして飛び上がった。

 それは一匹の、蛇であった。てらてらと黒光りする鱗で覆われた、がっちりと逞しい鎌首を擡げて、厳かに私を睨み据えていた。他の女達のように、本来であれば驚いて甲高い悲鳴を上げるところを、今日の私はあろうことか雄叫びめいた声など上げながら、威風堂々たる黒蛇をむんずと掴み上げては床へと叩き付けようと試みた。

 試みはしたが、蛇は思いのほか執念深く、私の右腕にしつこくしがみ付いて離れなかった。すると私は余計に闘争心と、負けてはならぬという義務感とでいっぱいになって、右腕を机やら壁やらへと乱暴に打ち付けた。その時の私は、膝丈のスカートの下で下着を半分下ろしていて、つまりスカート一枚捲ればそこには勃起したペニスがあるといった状況であったから、思えば随分間抜けである。

 間抜けな格好で一心不乱に蛇と格闘していた私は、机の上のペン立ての鋏の存在に気付くのに少なからぬ時間を要した。ようやくそれを掴んで、首の辺りでもひと思いに切断してやろうと蛇に突き付けたその時であった。私はあまりにも興奮して、冷静な判断というものが出来なかったので、一連の格闘の折に自室を酷く散らかしてしまったことに考えが至らなかった。何に躓いたかは知らないが、結果私の身体は呆気なくバランスを失って、頭と背中を強かに床に打ち付ける羽目になった。

 蛇は要領が良いものとみえて、私が倒れるよりも早くに右腕から離れて行ったようだ。私もそれで、一件落着とすれば良かったものを、どうしても許し難く、窓から逃走を図る蛇を追って右手に握りしめた物体を振り下ろした。

 けれども蛇はすばしっこく、鈍重そうな身体を艶かしくしならせながら、窓の外へと、うつくしいアーチを描きながら飛んで行った。ほとんど同時に、私の右手に握られていた物が勢い余って、まるで蛇を追うようにして窓から飛び出した。

 それは私の、ペニスであった。


 しばし呆然と窓の外を眺めていた私は、恐る恐るスカートの中を覗き込んだ。そこにはもう、あの雄々しく見事なペニスは無く、代わりに女性器のおぞましい渓谷が広がっていた。悲しみは浸るよりも早く、怒りへと変わって私を突き動かした。きちんと下着を穿くと、どたどたと煩く階段を駆け下りて、その勢いのままに素足をスニーカーに突っ込みながら玄関の鍵を開けると戸締まりもせずに向かいの空き地にずかずかと踏み込んだ。確かに、あの蛇と私のペニスは、この空き地の生い茂る草の中へと飛び込んで行ったのだ。夜になっては探すことは出来ないし、何者かが持ち去ってしまうかもしれないし、何より私のペニスが私から離れて在るということがとても恐ろしく、蛇との格闘の折と同じくらいに形振り構わず私はペニスを探した。未だ潜んでいるかもしれない蛇に手を噛まれる可能性など、当然考えてもみない。

 家一軒分と言えど人一人で捜索を行うには空き地は広く、ろくに手入れもされていない雑草達を私は恨んだ。私は茂みの中に両腕を突っ込んでは、何故こんな場所に落ちているのか分からない、付け爪、口紅、片足だけのハイヒール、破れたストッキング、マカロンの空き箱、魔法のステッキ、不思議な鏡、きらきらしたプラスチックのペンダント、赤いランドセル、等といった物達をあれでもないこれでもないと放り捨てた。文字通り隅から隅まで探し回り、それでも飽き足らずもう一たび隅から隅へと、そうしている間に視界が怪しくなり始め、来た時と同じ手ぶらで短い家路につく頃にはすっかり夜と呼んで差し支えない時間になっていた。

 失意の底で食べる夕食は非常に不味く私は母親を詰った。それは母親からしてみれば理不尽極まりない行為だし憤慨して何か言い返してきたがそれはそれで私の遣る瀬の無い怒りの前には些事であったから、私は怒鳴り散らしながら私の分の食器をすべて盛りつけられた料理ごと床にぶちまけた。しまいに母親は呆然となっていたが、別に当然の報いじゃあないか、と思った。元はと言えば、お前という女が、私の善き母親であることがいけないのだ。涙ぐむ母親の顔の心境は如何に惨めなものだろうと想像し、私は笑った。

 僅かばかりの愉快な気持ちと共に部屋に戻り、通学用に使っている鞄から財布を取り出した。十分な額の現金が入っていることを確認すると、それを鞄に戻し、今日の講義で使ったテキストとプリントを明日のものに入れ替えていく。そうして準備が万端になったので、鞄を肩にかけると颯爽と階段を駆け下りて、ピンクのパンプスを突っかけて意気揚々と夜の町へと繰り出した。


 電車を二度乗り換えて行った先にある町に住む彼女は、大いに呆れながら、けれども私の訪問を歓迎した。

 数日前、女でありながら男性の性器を持つこととなった私は真っ先に、何よりも先にまず彼女に交際を申し込んだ。小学校を卒業すると同時に引っ越して行った幼馴染の彼女とはそれ以降も交友を続ける最早親友と呼べる間柄で、私は彼女を心から愛していた。彼女を恋人にしたいとも思っていたが、この上なくうつくしい女である彼女がまさかそのようなことを思うはずが無いので、それは本来叶わぬ夢であった。そんな折に私に降りかかった出来事は、まさに奇跡と呼ぶ他無い。私は彼女に、私たちが交接を行うことが出来るということ、子供を、家族を、子孫を造ることが出来ることを説いた。初めこそ驚いていた彼女も、やがて感激し涙さえ浮かべ、ついに私は彼女という恋人を得ることとなった。

 あのペニスは、私と彼女の愛の結晶そのものだったのだ。ならば彼女は必ず私に救いの手を差し伸べてくれるであろうと考えた。思えば道中、連絡の一つくらい入れることも出来ただろうに、余程焦っていたのか私は何も伝えぬまま彼女を訪ねることとなった。それでも彼女は怒るどころか、私のピンクのパンプスを、可愛い靴ねと褒め讃えたのだ。

 可愛らしい物の数々をぎっしりと詰め込んだ彼女の部屋で、私たちはローテーブルの緩やかな曲線を挟んで向かい合った。パステルカラーのルームウェアに身を包んだ彼女が、甘くて温かいココアを注いだマグカップで指先を暖めながらニコニコと笑っている。その、愛おしい光景を守るべく、私は己の憐れな身の上を告白するのであった。

 あの罪深い蛇によって私のペニスが奪われたと知った彼女は、深い悲しみと慈しみとを交えた表情を浮かべていた。そして失われた愛の証を、私が必死の思いで見つけ出そうとしたことを知り、祈りと慈愛に満ちた笑みを私に惜しげも無く与えてくれた。

 それで、どうやって見つけたの、と彼女が訊くので、私は縋るような思いで、私達を結ぶあの絆が、永遠に失われてしまったかもしれないことを彼女に懺悔した。

 それは、私たちがもう、愛し合うことが出来ないということかしらと、彼女は困ったように眉をひそめて言った。あれだけ探して見つからなかったのだから、きっとそうなのだろうと私は答えた。けれどあんな物が無くても、きっと愛し合うことが出来るだろう、とも。

 すると彼女の、その愛らしいかんばせが、みるみる歪んで歪んでいくのに驚く間もなく、まだ熱いココアを頭から浴びせられ、私は悲鳴を上げた。

 私にそれ以上の言葉は許さないとでも言うように、彼女の言葉と彼女の部屋に在るたからもの達が雨あられと私に降り注いだ。あのマグカップは私と揃いの物だったし、彼女のお気に入りのバッグと同じブランドのそれを私も持っているし、まだ恋人同士になる前に行ったテーマパークのお土産のカチューシャだって、私はずっと大切に持っているというのに。それらと一緒に私を打ち据える彼女の呪詛達によって、どうしてだろうか、さながらあの蛇のような、恐ろしい凶器へと変えられてしまっていた。

 ほうほうの体で彼女の部屋から逃げ出した私は裸足だった。初めて知ったかもしれない、コンクリートの硬さと冷たさを踏み締めながら、私は一歩でも早く彼女から逃れようとみっともなくもがいた。彼女が褒めてくれたパンプスはというと、彼女の哀しげな声と共に、私のずっと後ろで置き去りにされてしまっていた。

「ねえ、どうして、そんな馬鹿みたいな身体で、私と愛し合えると思ったの」


 彼女の最寄りの駅はそれなりに大きく、急行だって止まるので、夜でも割合賑わっている。電車はまだ当分動いているから、各駅停車でのんびりと感傷に耽りながら帰ろうと、私はぼんやりと駅に向かう人の波に乗って揺られていた。

 私は彼女の恋人ではない。彼女にももう恋人はいないし、彼女はとても愛らしい女性だから、そのうちまた恋人を持つのだろう。これから先、私は永遠に彼女の元恋人ということになる。元カレ、などという言葉もあるが、私は男性では無くなったのだから、相応しい言葉ではないはずだ。数日の間だけ男性であったということももうほとんど嘘のようなものだから、元恋人という言葉でさえ、自身に対して使って良いものか自信が持てずにいる。残ったのは彼女を愛する気持ちだけで、そんなものを今更何に使えば良いのか、私は知る由も無い。

 薄汚れた裸足の足の甲を睨みながら歩いていると、不意に誰かの悲鳴を聞いた。その方向で人の波がざわざわと引いて、やがて大きな空洞が出来た。ノイズのようなざわめきと共に擦れ違う人々の中から、蛇、蛇、という言葉を聞いて、私は弾かれたように空洞目掛けて駈け出していた。

 私はあの、つぶらな黒いまなこと、再び相まみえることとなった運命の奇跡を、神に感謝せずにはいられなかった。蛇はその醜く裂けた大きな口に、奇妙な形をした肉片を咥えていた。あれが、あれこそがまさしく、失われた私のペニス、私と彼女の愛の証であった。

 蛇は私を嘲笑うことも無く悠然と空洞に佇んでは裁きの時を待っていた。私は蛇と戦う武器を何一つ持ってはいなかったが、それでもなお果敢に挑みかかろうとした。群衆の中で肩がぶつかり合い、肘で打たれ、足には小石が食い込んだが、それもまた試練なのだと信じた。何としてでも、あの黒々と逞しくうつくしい肉体に、私自身が打ち勝たねばならないと思った。打ち勝てる、という思いもあった。そうしてやっとのことで空洞へと踏み込んで、今まさに、私の華奢で愛らしい素足が、黒い蛇を踏み潰さんと振り上げられていた。

 けれども、とある勇敢な青年の足――私のそれよりも一回りも二回りも大きく、力強い――が、残酷にも、一匹の蛇の身体を踏み躙った。それを合図に、勇敢さを取り戻した男達がこぞって蛇へと断罪を下すのを、私はぽかんと口を開けたまま眺めていた。蛇はまた人の群れの中に見えなくなった。それなのに私は、私のペニスが、蛇と一緒になって踏み潰されて、今度こそ本当に失われていく様を、はっきりとこの目に焼き付けていた。

 やがて一匹の蛇が、無残な死骸へと変わったことが分かると、人々の中からまばらな拍手が起こった。女達が、男達の勇敢さを讃えているのだ。拍手が人から人へ、瞬く間に感染していくと、それは町中を揺るがす祝福の嵐となった。自然と、私もまた、両の掌を合わせていた。小さくささやかな拍手は、大きな波と一体となり、更に壮大なうねりを造り出さんとしていた。


 その時、見知らぬ人々の中の一人が、私の足元へと跪いた、その手の中には一対の小さな靴があって、私の足はするりとその中に飲み込まれていった。爪先の辺りが少々きついけれど、それはさっき褒めてもらったピンクのパンプスよりも、ずっと可愛くて、綺麗な色をしていたから、私はその足で、恭しくコンクリートの大地を踏み締めたのだった。

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