京町家の軒下より
「ふー……」
吸っていたセブンスター・ボックスの煙を空に浮かべる。
空は曇っていて、タバコの煙と区別が付かないだろうと思ったが、意外と見分けがつく。
「……いつもの奴なのに、あまり美味しくないな」
そうぼやいて、煙が消えて行く先の曇り空を眺める。
「……いや、いつもの奴だから、飽きてきたのかもしれないな」
短くなったセブンスター・ボックスから残りの煙を浮かべて、懐から携帯灰皿を取り出す。
携帯灰皿の上で、巻紙の先を数回突き、そのまま中へ入れる。
再び曇り空へ向き、ぼんやりと眺める。
「……一雨来ちまう前に、行きますか」
何処からか、錫杖の遊環の音を鳴らしながら、停まっていた場所を後にする。
※ ※ ※
「はぁ……」
土砂降りの雨の中、男は、通り沿いにある京町家の軒下で雨宿りをしていた。
「今日の天気、雨降ると分かっていたのになぁ……。……どうして、折畳み傘、忘れちゃったんだろう」
男は抱えていた鞄からスマホを取り出す。
ホーム画面の時間は、十時一五分と数字で表示されていた。
溜め息を漏らすと、男の左側から、背の高い人影が軒下に入って来た。
「ふぃー……。すまん、雨が上がるまで、此処に居させて貰っても良いか?」
笠を被っていて顔は見えなかったが、黒い着物を羽織り、肩に畳袈裟を掛けている姿から、恐らく僧侶だろう。
僧侶は被っていた笠を外すと、短髪の中年男性の顔を覗かせた。
男の内心では、やっぱりおっさんかよ、と思って肩を落としたそうな。
それでも微笑で返す。
「……えぇ、良いですよ。僕も此処で雨宿りさせて貰っているので」
「すまんな。こんなおじさんと雨の中、一緒で」
濡れ鼠の僧侶は苦笑を浮かべていた。
いえいえ、と男はまた微笑で返した。
※ ※ ※
男はスマホを突き続ける。
僧侶は、降り続ける雨の中の景色を眺めていた。
「……雨、中々止まないですね」
「全くだ。寒くて風邪引いちまう。……タバコ、吸ってもいいか?」
「あ、はい……」
僧侶は袖下からごそごそと手探りで、カッティングメンソールの真新しい箱とライターを取り出す。
「セブンスター……」
「ん?」
「あ、いや……。俺……じゃなくて、僕の父も同じ様な奴、吸ってたなーと」
「……ふーん」
箱から一本取り出して銜え、ライターをカチカチと数回鳴らす。
ふー……と、吸い込んだ煙を雨の景色に向けて吐き出す。
「……健康に良くないと分かってても吸うんですよね」
「まぁ、おじさんは吸ってないと体調を崩しちゃうからな。……にしても、同じセブンスターでも口に合わねーな、これは」
僧侶は懐から携帯灰皿を取り出し、未だ残っている巻紙を突き折って、開封されているセブンスター・ボックスを取り出した。
「……お前さん、長い事雨宿りしてるが、仕事の方、大丈夫なのか?」
「え? あ……、フフ。俺……じゃなくて、僕はフリーターですよ」
男は憂いに満ちた遠い目を、雨の景色の方へ向ける。
「今日も面接を受けに行って来て……、また落ちちゃって……、家へ帰ろうかなと思っているところです」
「……そっか」
僧侶は適当な相槌を打ちながら、セブンスター・ボックスを銜える。
「……ん?」
僧侶は男の足元へふと見やり、それに気付いた。
「如何しました?」
「お前さんの足元……、影が濃いな?」
「え……?」
男は、自身の足元の影を見る。
男の影は凄く黒かった。
「僕の影が可笑しいんですか……?」
「……今、雷が光っている訳でも無いし、おじさんの足元の影も……、ほら。そんなに黒くも無い。……ちょっと動いてみ?」
男は立っている位置から右へ動いてみる。
影もそれに合わせて、少し遅れて右へ動く。
元の位置へ戻って、先程より小走りで軒下の右端へ――
「あ」
僧侶はその動作を見て、声を漏らす。
――男は思わず、軒下の右端を出てしまう。
「うわっ、冷たっ」
男は土砂降りの雨に当たると、慌てて軒下に入る。
「そんなに動かなくても良いのにー」
「いや、つい……って、笑わないで下さい」
僧侶は男に見せない様に、左側を向いていた。
笑いを堪えているのは間違いないだろう。
「いやいや、申し訳ない。……それよりも、お前さんの影に何かが潜んでいるのは間違いなさそうだ」
「そうですか……」
「暗い影を背負うものは、色々なものを惹きつけ易い。どれ……」
僧侶は着物の袖下から、錫杖と数珠をジャラジャラと音を立てて取り出す。
男はその動きに、えっ!?と驚きの声を漏らす。
「すまないが、お前さん、暫くジッとしててくれ。そいつを追い払う為にな」
「は、はい……」
「……では、行くぞ」
僧侶は合掌した右手に数珠をかけ、左手に持った錫杖を男の影に突き立てる。
「開っ!!」
そう叫ぶと、錫杖の頭部の輪形が光り、輪形の中心に叫んだ漢字が浮かんだ。
すると、男の影から黒くて得体の知れないモノが浮き出る。
「なっ……」
黒いモノは、背景へ襲い掛かる様に拡散し、薄暗くなった。
「これは……わっ!」
男の足元から、黒い手が沢山伸びていた。
黒い手は、男を足元の闇へ引き摺る。
「くっ……」
男は脱出しようと足掻く。
僧侶の居る方へ向くと、其処には誰も居なかった。
必死に抵抗するも、男は黒い手に寄って、足元の闇に掬われていた。
……
闇へ。
深い闇へ。
光が届かないくらい、闇の海に溺れる。
男の意識が遠のいていく……。
男の耳に、僧侶の声が入って来た。
「……お前さん、今、何に悩んでんだ?」
……
「そこで諦めるのか?」
……お話を書くのが難しくて。
「難しく考え過ぎなんだよ。理屈とか色々気にしてるから、書けないんだわ。もっと気楽に行こうや」
……そうだな。
「……帰ったら、頑張ってみるよ」
「よし」
僧侶はニッと笑う。
闇の奥に光が見え、拡がって来ると、男は眩しくて目を伏せた――。
※ ※ ※
男は目を開くと、京町家の軒下に戻っていた。
左隣へ振り向くと、僧侶は何事も無かったかの様に、セブンスター・ボックスを吸っていた。
「あんた……」
「……なぁに、ほんのちょっとだけ手助けしただけよ。お前さんが自力で脱出して来たんだ」
「いいや、あんたのお蔭だよ。あそこで手を差し伸べてくれなかったら、闇に呑まれてた」
「……まぁ、感謝されとくわ」
僧侶は頭を掻き、軒下の外を窺い見る。
「と、雨も上がったし、おじさんはそろそろ行くよ」
そう言って、先に京町家の軒下から去って行った。
雨上がりの軒下に一人残された男は、少し遅れて軒下から出た。
空は所々白く、青色が拡がりを見せようとしていた。
「……さて。帰ったら、頑張らないとなっ」
男は地平線の向こうへ走って行った。