私にとって「読む」ということ ―電子書籍と紙の本―
いつも批判的なものが多いので、好きなものについてもっと書きたくなりました。
どの本を読むのか?だけでなく、どう読むのか?にも、個性って出てくると思います。
私が本を読んでいる時、不意にインターホンが鳴った。その音で私の意識は現実に引き戻され、あわてて玄関へ向かう。届いた荷物を受け取って再び机に戻ってくると、自分がとっさに本を伏せていたことに気づいた。
栞を動かさないのは私の習慣であり、あまりそのことを深く考えてもいなかった。一時的に席を離れるときには、手元にあるケータイや筆記用具や財布……とにかく目に付いたものをページに挟み込んだりすることが多い。一度本を開いたら、仕舞うまでは栞を動かさない。それはちょっとした自分ルールだ。
でもふと思い返せば、私は幼少期に「本を伏せておく」と言う行為が大嫌いだったはずだ。ページの端を折る、と同じくらいには大嫌いだった。栞を挟むという手間を惜しんで本を傷つける、本を自分の怠惰の犠牲にする……そういう行為だと思っていた。面倒くさがらず、栞を動かせばいいじゃないか、と。
気付けば私にとって、栞の位置を保存すると言う行為は、「なんとなく」よりも大きな、いや「本を伏せる」という行為への不快感以上の意味を、私の中で持ち始めていた。
一度読み始めたら常に栞は、私の読み始めた位置に留まったままだ。そして本を仕舞う前や、そうではないときにもなんとなく、その栞を確認してみる。その栞と今のページの間が、どれくらいになっているのか、確認してみる。そういう瞬間がたまらなく好きだ。
ときには「こんなに読んだのか」と意外なこともある。またときには、「え、これだけしか進んでないのか」とちょっと複雑な気持ちになることもある。「うわ、一気にこんなに読んじゃった」と、少しもったいない気持ちになることもある。
これを始めたのは読む速度を確認するのが目的だった。今でもたまに計算してみることはある。このペースだとどのくらいで読み終わるな~という具合だ。それは元々、自分の読書に対する分析行為だった。
しかし今の私にとって、この行為はもはや「読書に対する分析」などではない。それ自体が「読書」の一部になっている。おそらく多くの人が表紙のデザインや、手触りを楽しんでみたり、挿絵を楽しんでみたり、残りのページ数を見ながらハラハラしてみたりするのと同じだ。中には紙の匂いを楽しむ人もいるし、ずっりと手にかかるその重さがたまらない、と言う人もいるだろう。それらの行為と同じくらい、私にとっては「栞の位置を確認すること」それ自体が、読書の一環になっている。
読書は旅に似ている。一つの道程を少しずつ、少しずつ進んでいく。
私が小説を読むとき、そこには三種類の異なる時間が流れている。一つ目はもちろん、現実世界の時間。話が進もうと進むまいと、問答無用に流れていく。二つ目は物語世界の時間。話が進むと流れ、時には巻き戻り、時には駆け足になり、また時には大きく未来へと飛び去る事もある。
そして三つ目が、一冊の本を旅する間の「旅路の時間」だ。
旅路の時間は他の二つのどちらとも独立している。現実世界の時間と近いと感じるかもしれない。だけどそれは違う。私達が読むスピードはその時によって変わる。のめりこんで思わぬ速さで読み進めることもあれば、なかなか集中できずに先に進めないこともある。内容が理解できずに立ち止まったり、ときには巻き戻ったりもする。じっくりと時間をかけて、味わうように読み進めることもある。会話文が多かったり挿絵が入ったりすると、思わぬ速さで時が流れることもある。そんなこんなで、旅路の時間は絶え間なく速度を変える。
旅路の時間が存在するのは小説に限らない。それが物語のない本だとしても、そこには旅路の時間が存在している。私はその旅路を、何だか著者と一緒に旅しているような気分になるのだ。物語だろうと、そうでなかろうと、本を手にとってからそれを読み終わるまでは、一つの旅行の気分である。
この旅行気分がたまらなく好きだ。だからその中で、自分の旅行の一里塚になるような場所に栞を残しておくことが、そして時折その日の(旅路の時間としてのその日の)出発点を確認することが、何となく私の気分を高揚させる。
本を読み始めたときに手元に栞がないと、私は慌てて栞を探す。それが出先だと、レシートやノートの切れ端で栞を作ってみたりする。そのくらい私の読書には、栞は欠かせない物になっている。
このような楽しみ方をするのが身体に染み付いているから、私は電子書籍がどうも苦手だ。もちろん「電子書籍なんてダメだ!紙の本を読め!」と言うつもりはない。人それぞれ読書のスタイルがあって良いと思うし、そのこだわりもあって良いと思う。だけど私には、やっぱり馴染まない。何冊か読んでみたが、やっぱり何だか落ちつかないのだ。手持ち無沙汰でむずむずするようなもどかしさ。いつもの旅がしたくなる。
電子書籍が便利だなと感じることも割とある。むしろ、かなり頻繁にあると言っていい。自室の机の前で、ゆっくりと腰を落ち着けて読むときには紙の本でも何も問題はないのだ。しかし、私も外出先で本を読むという機会が非常に多い。通学や通勤の電車内で本を読む、と言う人も多いと思う。私も例に漏れずその一人だ。そんな時、電子書籍は本当に強い。
つり革を片手で掴みながら、反対の手で器用に本を開いておくと言うのは結構神経を使う。文庫本ならまだ良いが、ハードカバーだと尚の事難しい。ページをめくろうとつり革から手を離したときに限って、電車は大きく揺れたりする。混雑した車内なら、そもそも鞄から本を取り出して開く、ということすら許されないこともある。そんなときに、スマホに本が入っていれば本当に便利だろう。それに液晶画面なら、薄暗い環境でも問題なく読書が出来る。
持ち運びの問題もある。本一冊の重さと言うのは、案外馬鹿にならない。文庫本でも厚めのものはそこそこ重いし、ハードカーバーなら持ち歩くのもためらわされる。私は複数冊を同時に持ち歩いたりする事も少なくないから、よく鞄が重すぎると言われたりする。「荷物が多いし、今日はこの本は良いか」と思った日には、決まって不意に時間が空いて持ってこなかったことを後悔することになる。本当に不思議なものだ。
問題はまだある。本を持ち出すことは、本を傷めるリスクを伴う。少しでもそれを軽減させるために必ずブックカバーはかけているのだが、それでもカバーを外した時に、本の角が少しよれてしまっていたりするのを見つけると、何だか切ない気持ちになる。それだけならまだ良い。鞄の中で、ページの間に他の本や小物が滑り込んで折り目をつけた日には、泣きたい気持ちにさえなってくる。
本当に本が好きならばこそ、出先では電子書籍と割り切って、紙の本を持ち歩くのはやめるべきなのかもしれないとすら考える。
中には紙の本と電子書籍版、両方を買うという人もいる。それはそれで一つの選択肢なのかもしれないとも思うのだが、まず何より学生にはそんなお金の余裕はない。それに、電子書籍で読んだ分を「ここまでだな」とか確認しつつ、栞の位置を動かしてみたりするのを想像すると、言いようもない切なさのようなものを感じてしまう。
電子書籍に関しては本当に色々な事を考えさせられる。でも私はやはり、当分は紙の本を手放せそうにない。どうしてもあの「本を読む」と言う運動が、旅をする感覚が、たまらなく好きだから。
本を読み始める前、ぱらぱらとめくってみる。何となく、指の間で紙が踊る感触を楽しむ。本によって微妙に紙の質が違って、厚みも違って、何だか楽しくなってくる。
お気に入りのコーヒーを淹れて、ゆったりと本を読むのは最高の贅沢だ。
ページの後半に差し掛かったときに、次のページをめくる準備をしている自分に気付く。一つ先のページに、左手の人差し指を差し入れている。考えてやっているわけではない。先に進もうとする私の気持ちが、勝手に、左手を待機させている。歩くとき、右足を出したら自然と左足が動き出すように、勝手に。そんな自分を見つけたとき、本を読んでいるんだと強く感じる。
うっすら透ける次のページが空白だったり、次の章の扉が見えていたりすると、そろそろこの章が終わるのかぁ、なんて思う。章が終わることへの名残惜しさや、物語が展開することへの期待……様々な感情が膨らんでいく。
右手と左手のそれぞれ押さえる紙の厚みが、読み進めるにつれて少しずつ少しずつ、そのバランスを変えていく。いつの間にかもう「読み出したばかり」ではないことに気付いて驚く。
たまに話が繋がらない。一瞬戸惑う。あ、2ページめくってた。先に展開が分かっちゃった……そんなハプニングも、ちょっと楽しくて好きだ。
気に入った表現や、これは!という一説に出会う。本に書き込むのは好きではないので、最近は付箋を貼って読書ノートを作る。前のページにも付箋貼ったし、ここに貼ったら貼りすぎじゃないかな……なんて、付箋の基準を考え始めると、思わず読書が中断されたりする。
そうして終えた一つ一つの旅が、私の本棚にずらりと並ぶのだ。本棚のレイアウトを考えるのも、ちょっと楽しい。なるべく方向性が近い本を一箇所に集めようと頭を捻る。そうして作り出した配置はまるでテーマパークのように、個性豊かな空間を形成する。並んだ背表紙を眺めて、一つ一つの旅路を思い返す。パスポートの入国スタンプと似ている。一つ手にとってぱらぱらとめくる。旅が蘇る。
そんな付き合い方をしているから、私は電子書籍はおろか、図書館で本を借りる事すら出来ない。友達から借りる事すら出来ない。本を買い、読み、付箋を貼って、本棚に並べるまでが全部好きだから仕方ない。これが私の読書のスタイルだから。
これだけこだわりがあるからこそ、私は「電子書籍なんてダメだ!紙の本を読め!」なんて言葉を聞くと、悲しくなる。もちろん「紙の本は時代遅れだ!」と言う言葉も聞きたくはない。そんなことない!と反論したくなる。
だけどそれと同じくらいには、電子書籍も頭から否定して欲しくない。私が紙の本を愛して止まないのと同じくらいに、電子書籍に魅入られた人だってきっといるんだから。そういうスタイルも、それはそれでアリでしょう?
本を読むのは文字情報を脳みそにインプットするだけの行為じゃない、そんな風に思う。多分ビックリするほど多彩な読書の形があって、自分でも気付いてないようなこだわりや癖があったりする。
きっとそういう話を誰かとするのも、結構楽しいんじゃないかな。
あなたはどういう風に、本を読んでいますか?
そう訊ねてみたくなる。
読書への思いの丈をぶつけたら収拾がつかなくなりました()
最近は絶版だったり、非常に高価な本が読みたくなることが増えてなかなか困ったりしています。
妙なこだわりも、行き過ぎは困ったものですね。