どっかいけいかくするなよたけみたい
作者が失敗していない限りは、想定や誘導の通りに読むのが入り口です。それを踏まえてさらに踏み込んだ読み方を出来ると、小説の楽しみ方はぐっと増えると思います。
小説において、あらゆること(文字や単語の選び方、文章のニュアンスやタイミング、順番その他)に意図があると認識すると、読み方の幅が広がります。
表面上に刻まれた物語を追うだけが小説の読み方ではありません。
「どっかいけいかくするなよたけみたい」
という意味の分からないタイトルにしたことにはもちろん理由がある。きみは――そう、きみだ。これを読んでいるきみ。
こういう書き方を二人称と呼ぶらしいのだが、さておき。
きみは、このタイトルを見て、どう読んだだろうか。きみは、なんとかして意味を掴もうとしたかもしれない。あるいは明確な文章として理解したかもしれないし、早々と理解を放棄したかもしれない。語り手にはそれを想像することしか出来ないが、とりあえず前述の三パターンを想定することになる。
つまり理解したか、理解できなかったか、理解する気もなかったか。
実際にはその理解の中身についてさらにいくつも枝分かれするだろう。もちろん語り手――あるいは作者(この両者はときに別個の個として乖離していることもあるし、同一であることもあるのだが)――には完全な把握など出来ようもないし、するつもりもない。おや、読者であるきみと似たような状態になってしまった。きみによる文章に対するそれと、語り手あるいは作者によるきみすなわち読者に対するそれ。姿勢だとか態度、でなければやはり想定とでも呼ぶべき感覚は、驚くほど似ている。
いやいや、もちろんこうした講釈を垂れたくてこんな話を書くほど作者は暇ではないのだが、説明をしようと試みるにあたっては、やはりなるべく親切にした方がよいと思うのだ。どの程度であるか、を語り手は自分を基準に考えてしまうのだから。(これはあらゆる一人称小説が主観というヴェールとスケールによって言葉と読者との距離感を調整することに等しい)
とりあえず適当に漢字に直せば、「読解計画する弱竹みたい」と読めなくはないだろう。読解計画する弱竹、なる存在がいったい何であるかという問題は残るが、人名や固有名詞であれ普通名詞であれ、形容するための言葉として捉えればそれなりに意味は通る。
切る部分を変えてみれば「どっかいけ 威嚇するなよ 竹見たい」と誰かの呟きのようにもなる。ここではまず作者の意図がどちらであるか、あるいはこの両方ともが間違っている可能性について言及すべきかもしれない。
ついでに「どっか畏敬隠すルナよ焚け身体」と変換しても良いし、「読過征け異客摺るな与太家みたい」などと普通使わない言葉だらけにしても良い。明確な指針がない以上、どう読んでもおかしなところは残るはずだ。
日本語に限らず、言語にはある程度の柔軟性がある。曖昧であることが表現の幅を拡げているとは確かに言える。しかし一方で正確性の欠如を招くことは言うまでもない。これは作者が言葉の選択を誤った結果であろうか? そうであるとも言えるし、そうではないとも言える。では、きみの理解が間違っていたのだろうか? これもまた同じだ。放たれた言葉はどれほど簡潔であろうと、難解であろうと同じように解釈を必要とする。語り手と読者とのあいだ、「わたし」と「きみ」とのあいだには決して越えがたい壁か、溝か、あるいは手に負えないほどの距離が存在しており、それを上手くすり抜けることの困難は自明だろう。
長々と書いてしまったが、つまり提示された言葉の意味は最終的には「読み手が定める」のだ。理解を放棄しない限り、記述から何かを読み取ることが出来るだろう。そして多くの場合、読者の頭の中にそれは発現する。いかなる小説であっても、それは器に過ぎず、中身については――読み手が生み出すものなのである。
書かれた文章の隙間に何が詰まっているのか。
その文章が真に語っている意味は何であるか。
語られなかった部分を埋めるための材料は用意されているのではないか。
器は所詮器に過ぎず、中に入っているのが水であるか油であるか、砂糖なのか塩なのか、多いのか少ないのか、あるいは妖精さんが隠れている可能性だってある。
しかし、すべては読まれた瞬間に決まる。
読者の知識が多ければ多いほど、思考が深ければ深いほど、中身の豊穣さは増してゆく。
これが読解だ。
例を挙げても構わない。
一時期、ネット上を席巻した言葉遊びにこんなものがある。
「夜の、と付けるとなんだかエロくなる」
適当に羅列してみることにしよう。
夜の先生。夜の家庭教師。夜のプロレス。夜の貝合せ。夜のすまし汁。夜のあわび。夜のなまこ。夜のあそこ。夜の女の子。夜の人形。夜のペット。夜の教育実習。夜の三者面談。夜のゴム。夜のマット運動。夜のソープ。夜のお風呂。夜の尺八。夜の調教。夜の全身運動。夜のダブルクリック。夜のアナリスト。夜の泣き声。夜の生活。
キリがないからここまでにしておこう。
ここで問題となるのは、どうして夜の、とつけるとエロスが増加するかだ。当然きみも分かっているだろうが、夜に行うこととして性交渉のイメージが存在するためである。つまり前提知識として夜に行われる「いやらしい行為」を想起してしまい、後ろに付いた単語にまでその影響が波及するわけだ。
だが、実際のところ羅列した内容のなかには、それほど強烈な淫靡さを持ち合わせていない言葉もあるはずだ。個人差はあるだろうが、たとえば夜の人形という言葉を見ても、いまいちエロスを感じなかったのではないだろうか。
これは「夜の」「人形」と続けても、特に具体的なイメージが沸かないことに起因する。他の言葉は直接的間接的に別種の卑猥なイメージと接続したのではないだろうか。「夜のゴム」は、特に指定していないにも関わらずコンドームが思い浮かぶだろう。文脈の流れや前振りが何もなければ、ゴムとだけ聞けば輪ゴムを思い浮かべたはずである。つまり読み手には「夜の」で、まず性交渉に関することだと脳内に準備し、それから「ゴム」という単語がコンドームを指すと自動的に理解されたはずである。「あわび」「アナリスト」「尺八」などでも同じだ。素直に原義で理解すればよいものを、比喩であるとか俗称として語られる別の言葉に変換して理解してしまう。
だが、これは読解かと言うと、いまいち疑問が残る。事実、語り手の狙ったものではある。読み手がそうイメージするだろう、と狙って書いているのだから。しかし本質的に、読み手は素直に元の意味合いで読む自由も存在したはずなのである。
ここで「夜の家庭教師」という言葉から、「夜に、生徒に対して、何かイケナイことをする先生」と連想する。一方で「夜に普通に勉強を教えている家庭教師」とも読める。但し、文脈の要請によって読み手の理解であるとかイメージの自由はかなり制限される(そしてこうして書いている瞬間にも、「イケナイこと」という表現でエロスを思い浮かべやすいよう読み手を誘導している)。
これが映像であれば送り手受け手のあいだにさほどイメージの齟齬は生まれ得ないだろう。動物の「調教」という言葉で真っ先に思い浮かばねばならないのは、たとえば警察犬であるとか、競走馬であるといった、動物が人間の目的のために行動を矯正されるヴィジョンである。何らかのドキュメンタリー番組でそういった記録が映像として差し出されたとき、これを他の意味合いで取る方が難しい。その一方で「動物」の「調教」を「記録」する、といった文章や単語。これに「夜の」と付け加えた場合、いかなる化学変化を引き起こすのかは明白である。「夜の動物の調教記録」と続けざまに書いてしまえば、かなり極端な情景が思い浮かぶ者もいるであろう。正確に表現せよと指示されれば、「翌日重要なレースがあるため夜中にもかかわらず、競走馬の調子を上げるために調教し、それを記録した」などと何ら含意の読み取れない文章ともなろう。無論、「夜の馬」であるとか「馬並み」「牝馬」「馬の尻尾」などと、それらしい言葉を用いれば逆の現象も容易いのではあるが。(重ねて言うのなら、動物の調教――本来の意味での行為そのものに興奮する一部の、あるいは特異な性癖の者もいるだろうが、きみを含めた読者諸氏は動物の調教中の様子を見て身体の一部分を硬くするような変態ではない、と作者は信ずる)
これは曖昧さの弊害ではなく利点である、と言うべきだろう。人間は言葉をそのまま捉えること、違う意味で捉えようとすること、意味を捉えられないこと。前述の通りに、三パターンの行動があり得る。方向性を決定づけるのはコンテクスト、すなわち文脈と呼ばれる――この場合は前振りとした方が分かりやすいか?――前提である。
実のところ、一度この前提を読み手の脳裏に残せた時点で、ここまで語ってきた「夜の」と付け加える必要すらなくなる。
まず尺八。
次に、あわびを。
で、ゴムを。
そして、ペットに。
泣き声が。
調教して、それから。
実際のところ、きみが何を想像したのかは語り手にはわかり得ないが、よく読めば、この文章はほとんど何も語っていないに等しい。
しかし何かを読み取ることは容易い。これは、きみの脳内に「前提」が存在するからだ。この一連のテキストのみならず、これまでの人生において積み重ねた情報や知識の集積が、こうした不足の多い文章に対する読み方を規定するわけである。
ラブコメにおいてつまらぬすれ違いによってヒロインが咄嗟に叫ぶ「あんたなんか大嫌いっ」という言葉と、それにまつわるシチュエーションの状態によって、裏側に「本当は大好き」であるとか「言いたくないけれど口にしてしまう」といった、話者の言葉にしない、できないが、しかし確固として存在している(で、あろう)真相や真実が、まま提供されることに異論は無いであろう。もちろん、そう見えるだけで現実に「大嫌い」がまごう事なき心情である可能性も否定できないが。
この前提に必要な情報が欠けている、情報の正確性に瑕疵がある場合、どうであれ、誤読ではありえないことになる。しかしどちらが正解とも言えない。こうした文章(つまりタイトルですでに提示した「どっかいけいかくするなよたけみたい」のような、作者の意図が明らかではない、意識的に読み手の読解を強要するような仕掛け)を前にして、きみはどうすべきなのだろう。
また、作中において明確に否定されていることを、つい想像してしまう場合もあるだろう。さらに「書かれなかった」出来事はその小説の内部に果たして存在しているか否か、という問題も付随する。人間の脳の優秀さによって否定された部分や間違いを、自分なりの正解のイメージで補完しようと試みることがある。但し、これは語り手の信頼性の有無や度合いによって左右されるため注意が必要だ(信頼できない語り手、と呼ばれる現象であり、ミステリにおいては叙述トリックとして用いられる場合もある)。
また、作中で使われる言葉はそのまま受け取るべきものと異なるものとがある。
赤貝にわかめを添えて、一本のきゅうりをそこに……。
てらてらとぬめった色合いのあわびに、黒光りする太くて長いナスを……。
いや、君のソーセージ……ウィンナー……? ポークビッツかもしれないが、この文脈で語られたときに素直に食品として理解するものは希だろう。
だが、寓話的な語り口を用いた場合には、こんなに分かりやすくないこともままある。
有名どころなら、たとえば赤頭巾。
これは、赤頭巾なる少女が、狼に食われてしまう話だ。
狼が何を意味しているか。少女がどうされてしまうのか。
マッチ売りの少女などは、当時の中世ヨーロッパ的な社会情勢と合わせると、より顕著だ。貧乏な少女が食べていくために何をさせられていたか。
道ばたで単なるマッチを売って生活できるほど稼げるだろうか。
マッチ一本に火を点けて、その火が付いているあいだの時間、少女は買ってくれた男に……。
白雪姫も相当にひどい話だ。
山小屋に、目覚めないが美しい少女が運び込まれた。それを七人のこびとが見つける。この七人の山賊として語られる版もあるという。中世の倫理観で考えれば、どうなるかは明らかだ。
そんな死体としか思えない白雪姫を引き取った王子も、かなりの趣味と言えよう。
桃太郎については語る必要も無かろう。
流れてきたのは桃である。そこから子供が出てくるわけがない。この桃を食べたおじいさんとおばあさんが元気になる。ワッフルワッフル。ハッスルハッスル。桃太郎が生まれる。
この途中経過を省略し、桃から生まれたと表現しただけだ。
間違いではない。しかし正確でもない。けれど克明に描写するのも躊躇われる。
童話の多くには、そうした省略や迂遠が数多くある。
ラプンツェルみたいに隠す気のないものもあるが……。
知らなければそのまま理解できる話も、知ってしまえばもう頭から離れない。
だが、実際には「そうとも読める」だけなのだ。
作者の実際の意図がどうであったかは、この際置いていく。
何も知らない子供が赤頭巾を読んでエロいとは思わないだろう。
純粋さと無知は驚くほど似ている。
願いと予感の区別は付きにくく、誰しもが期待と信頼を取り違えてしまうように。
ともあれ、語るべきは語った。
きみはあえて語り手の奸計に引っかかって、その上で楽しむも良し。
作者の想定した読み方から抜け出して、自分だけの物語を思い浮かべるのもまた良し。
読み手の読解に耐えられる話を書けたなら、作者としては幸いである。
ちなみに二人称で始めた意味は特にない。きみ、と呼びかけることで読み流すのではなく考えながら読んで貰おうと語り手が画策したという事実はない。(と、作者は地の文においても平気で嘘を吐く。というか小説という媒体はそもそもがいかにして嘘を用いるか、嘘を使って演出し、効果を狙うかに腐心するものであると弁明しておく。ありとあらゆるキャラクターもストーリーも、究極的には嘘の産物であるからだ。その嘘をもっともらしい作中のリアリティと呼ばれるレールの上に配置することで、真実として産み直すことが小説を書き、読むという行為に他ならない。当然、あらゆる言葉には大なり小なり影響が存在することを書き手は知っているし、想定していなければならず、また意識しようがしまいが無駄な言葉は存在し得ない。無駄である、と感じさせることまで計算尽くであることもままあるからだ。そして読解とはそうした作者の意図までを見抜いた上で、自身の内側に「物語」であるとか「感動」をもっとも相応しい形で顕現させることである。人称はすべて距離感の問題に過ぎない。語り手と同一化を狙うのが一人称であり、対面している風を装うのが二人称、そして他者のそれを外から眺めるのが三人称、と説明するのが分かりやすいか。もちろんこの分類は表面的なものであり、正式でも正確でもないことを再度付け加えておく)
さらに付け加えるならば、この小説あるいはエッセイと呼ぶことすら疑わしい言説もまた、きみに対するイメージ操作の一環であるし、それを隠す気はあまりない。
読んでしまった以上、もはや手遅れなのだ。
たとえば先に挙げた「夜の」を付けると云々は、幼い子供が試した場合には、何ら性的な印象を持たないままに読まれる可能性が高い。
そもそも、元となるものを知らないからである。知らないものはイメージしにくい。エロスの具体性が足りない「夜の人形」と同じで(もちろん、ここにオリエント工業製だの、あるいは「ちぃ、覚えた!」だとか、ご奉仕機能を組み込まれたメイドロボ型自動人形であるとか、さらには『「魔法によって自分の意志では一切動けなくなるが、そのまま意識だけを保っている状態のことを人形化」と言う……』などと、イメージの補強材料を増やしてしまえば別であるが)、無知からくる単純なイメージ、あるいは画一化だ。
しかし、ひとたび知ってしまえば、そこに繋がる回路が生まれる。
これもまた、多くの小説が、読み手のイメージの流れを操作するために描写を積み重ねて、方向性をさりげなく規定していくのと同じだ。
読解という行為が、小説の文章すなわち記述という器を前に、その中身を読み手自身で埋めていくことである。
曹操による孫子の注解を例に挙げるまでもなく、分かりやすくするという行為には否応なく訳者の主観と都合が混入される。
これが記述する、すなわち器を作るという行為だ。ワイングラスを用意され、ウイスキーを注ぐ者はあまりいない。それとて絶対とは言わないし、世の中には、わざと一滴も呑まずに延々空のワイングラスを眺め続けるのが好きという偏屈者がいることも否定しない。
しかし、そこに注ぐべきワインの銘柄を決めるのは、きみだ。描写からどんな情景を想像するか、言葉からどんな意図を理解するか。
空のワイングラスからワインを飲むことが出来ないように。
読むという行為には、きみが用意する中身が絶対的に必要なのだ。
そして、きみはもう、読んだのだ。
読んでしまったのだ。
もはや後戻りすることは出来ない。
きみは、小説を鏡として「きみの読解」の価値を決めることになる。
小説を読むことは、「きみ自身」を読むことに他ならないのだ。
P.S.
「夜の」と付けるより前に「女教師による」と付けると、なおエロくなる。
「女教師による夜の尺八」とかエロい意味合い以外のシチュエーションが思い浮かばなくなるため、諸刃の刃である。
「女教師による夜のテトリス」なんかも良いだろう。
棒を、隙間に、入れる。
凹に、凸を、はめ込む。
そんなプレイ。
人気のない教室に呼び出されたきみは、女教師からこう告げられる。
「ねえ……わたしと、テトリスしましょう?」
きみが女教師と、いかなる行為に及んだのか。それを語ることは野暮であろう。
読むことが自分を読むことであるのと同じで、感想を書くことは己を晒すことです。
と、こうやって釘をさすこともまた、作者のコントロールのひとつであると認識するのも良いでしょう。
どうしてコントロールしなければならないのか。
どうしてコントロールすべきと思ったか。
自分が良い作者であるとはあんまり思いませんが、……良い読者でありたいとは思ってます。こんなものを書いたのは、その一環です。