傷痕に口付け
幼い頃の愚かな過ちのひとつに、幼馴染みへ纏わりついていたと言うものがある。相手は5歳も年上の人。もっと考えればよくわかること。
彼は、ニーナを鬱陶しい存在としか思って居なかった。両親の手前、愛想を振り撒いていたが、実際には同じ年頃の少年達と遊んでいた。
それに混ぜてもらおうとちょろちょろしていたニーナに対して、ルードは怒った。
そして、怒りのままそれをニーナにぶつけたのだ。まだ10歳のニーナではどうする事も出来ない物で。
力一杯に押された身体は呆気無いほど簡単に倒れ込む。身体が倒れる先に有ったのは修繕中の一面ガラス張りの温室。
身体は立て掛けて有ったガラスに当たり、ガラスは無惨に壊れる。その無数のガラスの破片は小さな身体に降り注いだ。
悲鳴を挙げる暇などニーナには無かった。背中や顔を襲う激しい熱さと痛さに意識を手放しかけた。それを押し留めたのは、自分の姉のつんざくような悲鳴のせい。
なんとか開けた視界は空の鮮やかな青色とその視界を浸食する紅い液体に覆われ、すぐさま、視界は赤一色と成り果てた。
飛び起きたニーナヴェルカは、早鐘を打つ胸を押さえ、宥める。額や顎を流れる汗に不快感も顕に反対の手の甲でおざなりに拭う。
もう、8年も前のことを夢に見るとは思わなかった。あれ以降ニーナヴェルカはルーフェリドに会っていない。あちらもそれを望んでいたし、現実問題、ニーナヴェルカの身体は長時間の外出には耐えられない。
味気ない黒と白と灰色の世界に魅力を感じることは無いし、太陽の光はニーナヴェルカにとっては何よりも耐えがたい拷問と成り果てたのだから。
見上げる空は白と薄い灰色。もう、空の色を忘れてしまうかもしれない。自嘲気味の笑いを噛み締め、ニーナヴェルカはベットから抜け出した。
クローゼットを開ければ白と黒と灰色。ニーナヴェルカは何色に当たるかなどもう何年も考えることを放棄しているため、順番に着るようにしている。昨日は黒の3番目、今日は灰色の4番目。さっと着替えて、部屋を出る。髪の毛は垂らしたまま。前髪も視界を覆わなければ良い為、顔の半分を覆っている状態。それに家族は文句は言って来ない。
ただ、結婚した姉はたまに実家に帰ってきたときにはニーナヴェルカを飾り付ける。
『化粧で誤魔化せば傷痕は目立たなくなるわよ』と言うのが、彼女の口癖となりつつある。それに苦い笑みを浮かべて誤魔化すのも最近のニーナヴェルカとなりつつある。
おはようございます、と言えば新聞を丹念に読み込んでいた兄が顔を上げて、柔らかい笑みで迎えてくれる。兄の向かいには母が座っており、にこにこと微笑んでいる。最後に父を見ればしかめ面を崩そうとせず、頷くのみ。それに首をかしげる。何か気に入らないことでも有ったのか、と。
兄の隣に座り、見上げる。その視線に兄は何も気取られない完璧な笑顔でニーナヴェルカはを見返した。
その笑顔でニーナヴェルカは聞いてはならないことなのだと悟り、テーブルの上に置かれたお品書きに目を通すことにした。
これも、色彩を失ってからのちょっとした決まり事。
ニーナヴェルカの眼には全て3色のみ。彩りが食欲に関係していると思い知ったのもその時。色のない食事はひどく味気なく、砂を噛むようだった。その為、ニーナヴェルカの食欲は見る間に減退。酷いときには水分も受け付けなくなった。
それを知り、献立のお品書きを見せてくれるようになったのは料理人や侍女達、使用人だった。お品書きには詳しく、どんな物を使用しているかも書き出してくれ、ニーナヴェルカに食事をさせる気力を取り戻させる一端になった。
ニーナヴェルカも気を使う周囲に気付き、これではいけないと奮起。厨房まで出没し、どんな食材なのか、作ってくれている人達の顔を見ることにした。自分達の食事を食べようとしないニーナヴェルカに意気消沈している彼らを見てしまえば、彼女は食べることを疎かにしないことに決めた。
但し、外で食事はする気にならないのは相変わらず。だから外に出ようという気にもならないのだ。
「兄様、これを差し上げるからこっちを下さらない?」
こそこそと兄に相談すれば苦笑と共に是と言う返事。それににこにこしていれば、意を決したような父の声が聞こえた。
「ニーナヴェルカ」
「はい?」
「お前に縁談が来ている」
笑顔で返事したニーナヴェルカの笑顔はそこで固まった。
今、父は、縁談と言った?
誰に?
「ニーナ、お前にだよ」
兄の援護に固まった身体は何とか動き始める。ぎしり、と音が鳴りそうな動きで、隣の兄を見上げる。
「え?」
「ははっやっぱりそういう反応だよな」
「……え?」
「しかも、相手はルーフェリドだぞ」
「………………………え?」
かちりと再度固まった妹の頭を撫でつつ、兄は父を見やる。娘の反応でこちらもやはりと頷いている。今回の縁談は無かったことにしたいなぁと、現実逃避しようとする二人を止めたのは母。
「貴方達はニーナをここに閉じ込める気?」
その一言は痛い所を突かれ、二人は押し黙る。母はニーナヴェルカに言い聞かせる。
「ニーナもいつまで昔に拘るつもりなの?確かにあの時にはルードを殺してやりたいと思ったけれど」
思っちゃ駄目だろうと言う言葉は誰からも出てこない。男達は現在進行形で殺してやりたいのだから。
「でも、母様。私、あの人、嫌い」
母以外の二人はその言葉に内心拍手喝采である。様を見ろ、と兄は笑いを噛み締める。父に至っては、笑みを隠しきれていない。
「あら、そうなの?でも、もう遅いわよ」
「は?」
「彼を呼んじゃったから」
その言葉の破壊力は凄まじかった。三人ががちりと凍り付き、その状態で母は二人を職場へ追い出した。残ったニーナに関しても部屋へ帰らせ、普段着の服を剥ぎ取り、目一杯着飾る。それにぐったりしたニーナヴェルカを客間へ放り込み、ほくそ笑んだ。
決して彼を許した訳ではない。しかし、娘の生活は酷く単調で、未来に何の希望も持っていないことがよくわかっていた。だからこそ、誰でも良いから娘をに希望を持たせて欲しい。
ついでに幸せになってくれるならもっと言うことはない。
ルーフェリドの来訪を告げる使用人の声を聞きながら母は自室にて引き返した。
「久しいな」
ルーフェリドは己の気の利かない第一声に内心頭を抱えた。ソファに座るニーナヴェルカは美しくなっていた。8年前は活発な笑顔の絶えない少女であったも、目前のニーナヴェルカはその時の少女ではない。淑女になり、微かに浮かべる笑みは控えめで愛らしい。前髪を流した顕になっている額には微かな傷痕が残っているが、気になるほどではない。
「お久しぶりです。ルーフェリド様」
小さく会釈しながら述べた言葉は、淑女としては完璧。しかし、幼馴染みへの言葉としては随分と距離を開けた言葉であった。それに小さく傷つき、そんな自分に驚き、言葉を交わすタイミングを逃したけ。
「この度はなぜ私に縁談を?」
「え?もともとそのつもりだっただろう」
8年前から、と続いたその言葉にニーナヴェルカの表情は険しくなる。
「何の事でしょうか?」
「あの事故の責任を取るために…」
ルーフェリドはどんどんと険しくなるニーナヴェルカの表情を見て、言葉が消えていく。凄く大切な所で間違った気がした。
その予感は当たり、ニーナヴェルカは凍てつく笑顔でルーフェリドに宣言した。
「8年前の事は私にも責任が有ります。ですので、義務から自らの人生を無駄になさるのは建設的では無いですわ。」
それに、とニーナヴェルカは視線を床に向ける。
「私の身体は傷だらけですし、何よりこの眼は色彩を見せてはくれないのです。そのような女が騎士である貴方の妻とは慣れません」
それはルーフェリドに衝撃をもたらした。ニーナヴェルカの状態について何も知らされることなく過ごしていた。傷が残った程度であると、勝手に思い込んでいた。
「ニーナ、」
「ですので、この縁談は無かったことに致しましょう」
鮮やかな笑みに心奪われ、ルーフェリドは5歳も下の幼馴染みを見つめた。このままでは自分の前から姿を消してしまう幼馴染みをどうやって呼び止めるか。どうすれば彼女の視界に入る事を許されるのか。
ははっと笑いながら、許す訳ないよね、と額に青筋を浮かべる彼女の兄と姉の姿が思い浮かんだ。
これ以上うちの妹泣かすなら、抹殺するよ?と言う幻聴まで聞こえてくる。
しかも怖いのは彼らなら、やりかねない。社会的にも身体的にも、精神的に有りとあらゆる手段をもってして抹殺に掛かるであろう姿が容易に浮かんだ。
ぶんぶんと頭を振り、その可能性を頭から追い出し、立ち上がって出ていきそうな勢いの彼女の細い手首を握る。思いの外細い手首に驚きながらも、ルーフェリドは言葉を紡ぐ。
「お互いの事を知らないうちから断らないでくれ」
「ルーフェリド様にとっては只の義務ですよね?」
「っ!ちがっ!」
「何か理由がお有りですか?」
苦し紛れに思い付いた言葉を発するルーフェリドは、この先ずっとそれを口にした己を罵る事になる。
「しつこく付きまとう令嬢がいるんだ!」
「なるほど。その方を追い払うために私が必要なのですね」
違うと声を大にして言いたいが、言えば立ち去るのが容易に想像できるためぐっと堪える。
微かに頷いたのを確認したニーナヴェルカは肩の力を抜いた。
なぁんだ。やっぱり裏があった。
ありありと顔に書いてあるそれを否定したいが出来ないルーフェリドは項垂れた。過去の自分が悪いとはいえ、ここまで意識されないのは由々しき事態である、と。
「では、まずは俺と出歩いてくれないか」
デートの誘い文句ですらこれか、と苦いものを思うが背に腹は代えられない。ルーフェリドの言葉に首をかしげたニーナヴェルカはあぁ、と頷いた。扉の近くに控える侍女に日傘を用意させる。
ルーフェリドはニーナヴェルカの行動に首をかしげたが、これから日差しが強くなるためか、と納得した。
日傘を差して歩くのはニーナヴェルカただ一人のせいで余計な注目を浴びることになり、ルーフェリドは顔をしかめた。
確かに二人で歩く所を見せびらかせば良いとは言ったが、目立つのは得策ではない。
「ニーナ、その傘をする意味はあるのか?」
「ええ、眩しいですから」
その言葉に眉間の皺は寄る一方だ。周囲の悪意有る囁きや嘲笑が聞こえないのだろうか。
いらりとしたルーフェリドはニーナヴェルカが持っている傘を取り上げて畳んでしまう。
「あっ」
焦ったような声と表情にルーフェリドは又もイラつきが増す。ルーフェリドは傘を返すことはせず、そのままニーナヴェルカに歩くよう促した。
その様子に返せとは言い出せないニーナヴェルカ。普通の人であれば気にならない光も、彼女にとっては頭痛を引き起こし、倒れ込みたいほどの眩しさとなっている。
顔をしかめ、うつ向きながら歩くニーナヴェルカにルーフェリドは怒りが頂点に達した。
「俺と歩くのがそんなに嫌か!!」
突然の大声に大きく肩を揺らし、ルーフェリドを見上げる。しかし、眩しさに耐えられずすぐに道へと視線を落とすニーナヴェルカにルーフェリドは、顎を掴んで上向かせる。
ぎらぎらとした怒りを宿した瞳とぶつかり、ニーナヴェルカは小さく息を飲んだ。
違う、という一言が喉から出てこない。ルーフェリドの怒りに竦み声が張り付き、弱々しく首を横に振るのが精一杯だった。
「声に出して言えないのか!」
更なる怒りの声にニーナヴェルカの瞳に薄い水の膜が出来上がる。唇を戦慄かせ、違うと何とか声にした。
「何が違うと言うんだ!」
「ひ、光が………ま、ぶしい、のです」
「は?今日は曇っているほうだろう」
こんなもので眩しいとはどういう了見か、とルーフェリドは詰め寄る。
「光が、普通の人より、沢山入ってしまうのです」
だかこんな日でも日傘は必須なのだと訴えるも、ルーフェリドは首を横に振るのみ。
「昔は普通に過ごしていただろう」
そんな言い訳では誤魔化されないとばかりに睨み付けてくる。そんな理不尽な言葉にニーナヴェルカの限界も越えてしまった。
一筋の涙を流しながら、ニーナヴェルカはルーフェリドを睨み付けた。
「あの事故からそうなったのです!!」
その言葉はルーフェリドの胸を突き刺した。そして自分の短絡的思考を恥じた。小さく済まないと謝りながら差しだした日傘を、ニーナヴェルカは引ったくる。日傘を差しながら、やっぱりこの人は嫌いだと思いを新たに刻み付ける。
意気消沈したルーフェリドはちらちらとニーナヴェルカを窺いながら、挽回するにはどうすれば良いかを考える。
そしてこの近くに若い女性に大人気の店があったことを思い出す。今度こそはと腕を差し出し、手を出さないニーナヴェルカに焦れて彼女の手を組ませた。その時の心底嫌そうな顔をした彼女の顔は見なかった事にした。
「ニーナ、甘いものは好きだったよな」
気を取り直し、出来る限りの優しい声を心がけた。そんなルーフェリドの様子を気にする事もなく、小さく頷く。それに気をよくしたルーフェリドはある店に彼女を案内した。
扉を開ければ甘ったるい匂いが鼻に付く。しかも店内には少女の山。顔をしかめないよう、細心の注意を払った。
ルーフェリドがニーナヴェルカを観察すれば、なんとも言えない表情。それを不思議に思えばよい物を、彼は声に出して彼女に聞くことはしなかった。
「ニーナ、好きなものを頼めば良い」
「え、ええ」
ぎこちなく頷く彼女の視界は色とりどりのケーキたちも全て灰色に染まっていた。
美味しそうに見えないそれらをどうやって選ぶべきか。彼女は普通の少女たちとは違った悩みに直面していた。
なかなか選ぼうとしない彼女に業を煮やし、彼は適当に選んでいく。あわあわと両手を動かす彼女は、ルーフェリドにそんなに食べられないと訴えた。正直、何で作ってあるかわからない物はあまり食べたくはないが。
結局、かなりの数を購入したため、そのまま帰って邸で食べることにした。
ニーナヴェルカも仕方がないので帰ってから色盲がどういうものであるのか詳しく説明しなければ、何度も同じ目に遇うと悟った。
「ルーフェリド様、私が色彩を失ったと言ったのは覚えておいでですか?」
「ん?あぁ、覚えている」
「私の今見ている世界の色は白と黒と灰色だけです」
静かにそう言えばルーフェリドの身体は見事に硬直した。外に出ても楽しくないと言えば、彼のつり上がっていた眉毛は情けないほどに垂れ下がった。
すまないと、ポツリと洩らした謝罪は一番胸に響いた。後悔している彼を見たいわけでは無いのだ。自分の人生に関わらないでくれたらそれで充分なのだ。
しかし、予想外の言葉にニーナヴェルカは放心状態となる。
「ならば、俺が、ニーナに世界の色を教える」
「え」
「沢山、外に出よう。そして、俺が、ニーナに新しい世界を見せる」
「…………」
「だから、ニーナ。俺に君の一番傍に居られる権利をくれないか」
真摯なその言葉に、ニーナヴェルカはうっかり頷いてしまった。しまったと撤回しようとしたときには既に遅かった。
晴れやかに笑うルーフェリドを見て、言葉は喉の奥底に沈んでしまった。
固まる彼女の隣に座り、ルーフェリドはそっと前髪を避けた。化粧で旨く隠れている大きな傷痕。
指でそっと触れ、ピクリと揺れた彼女を視界に納めながら、軽く唇で触れた。
彼女を不幸にしない約束を傷痕に誓った。
しかし、彼女と結ばれるのはずっと先。
彼女の兄と姉に嫌がらせの数々を受けながらも耐えきり、花嫁衣装に身を包む彼女と対面するのはかなりの時間と労力をかけることとなる。