アリスの糸
人間関係が作り出す糸は、その中心にいる人物を柔らかく受け止めるくらいに密に絡まりあっているのが一番いいと、ぼくは思う。縦糸があり、横糸があり、微妙な模様を作り出す凹凸がある。布になってしまうほど密に。それくらいがいい。けれどアリスはそう考えてはいない。
アリスは綱渡りをしている。一本の糸を兎の穴にピンと張り、落ちまいと懸命にバランスを取りながら歩いている。そっと、揺れないように。揺れたらどうなるのだろう。落ちる? 自分の常識の通じない連中が住む穴の中の世界へ?
わたしにしてみれば今いるこの世界はすでにおかしな世界。あんたの考えることだって理解不能。押しつけないで。放っておいて。
アリスはそう答えるかもしれない。けれどぼくは放っておけないのだ。ぼくはアリスを愛してはいない。けれど、いつだって見つめている。
*
弓削アリスを中心にした輪は、他の輪に比べて異様な緊張感に包まれている。手にしたデッサンノートに弓削アリスを描きつける。それだけの作業に、友人のノートを覗いたりいたずら描きをしたりのおふざけなどする余裕もなく、ただたまに他人の目つきを盗み見ながらこの状況に戸惑っている者が大半だ。弓削アリスは美術教師に指名されると、動揺することもなく素早く輪の中心にある椅子に腰掛けた。美術のデッサンのモデル。ただそれだけだ。けれど弓削アリスはそれを奇妙なものに変えてしまういくつかの条件を備えているのだ。
一つ、無口であること。彼女は授業中に教師に指されたときしか話さない。そのため、今年度彼女とまともに話したことのある人間は一人もいないのだ。
二つ、悪い噂があること。彼女はとても性格が悪く、一年のときに手酷いいじめのリーダー役をやったことがあるらしい。
三つ、美人であること。彼女は誰よりも色白で、雛人形のようなちんまりとした端正な顔立ちをしている。おまけに中学二年生にしては長身で、一六五センチメートルもある。一般的な同い年の少年ならば、彼女は近寄りがたい存在だろう。
細かなものを除けば、その三つが彼女を悪目立ちさせている。彼女もそれを利用しているところがある。お陰で、一人になれるからだ。普通なら嫌がるモデルの役目をあっさり引き受けたのは、一人に慣れているからだろう。男子も女子も、ぼくがモデルを務めたときとは打って変わって大人しい。ぼくがふざけたポーズを取ったときは笑い声が絶えなかったのに。
アリスは椅子にただ座っているだけだ。膨らんだ唇を軽く結び、ぼくを見ている。うぬぼれてはいないから、彼女がぼくをにらんでいることは知っている。ぼくは構わず彼女を丹念に眺める。鉛筆で紙を擦る。細かく陰影をつけ、彼女の整った顔立ちを特に丁寧に描く。彼女の強いまなざしも、できるだけ正確に表す。するとぼくのデッサンノートには彼女の生き写しが現れる。鋭い目。着崩していない夏のセーラー服。筋肉の形が見えないすんなりとした足。
「うわ、上手いね」
隣の椅子に座っている田中鈴音がぼくのノートを覗き込む。ぼくは笑って、
「お前のも見せろよ」
と無理やり鈴音のノートを奪い取った。そこには輪郭しかない、色の薄いアリスがいた。
鈴音がぼくからノートを取り返そうと、笑いながら身を寄せてきた。アリスがぼくたちから目を逸らす。グループの他のメンバーは、ぼくたちに釣られておしゃべりを始めるようになった。いつの間にか美術室で一番騒いでいる。
「静かにしなさいね」
ぎょろ目の女教師が、いやに優しい声でぼくらに声をかけた。ぼくらは言うことを聞かずに、互いのデッサン画の出来を見たり、それを冷やかしあったりしていた。しかしアリスがいきなり立ち上がると、ぼくらは黙った。
「モデル、必要ないんならやめるから」
切れ長の目でにらまれてそんなことを言われると、ぼく以外の生徒は何も言えなくなってしまう。ぼくも皆に合わせて黙り、自分の椅子に座った。アリスも中央の椅子に座る。先程の騒ぎの名残であるむさ苦しい人いきれが辺りに漂っている。
まるで女王様だ。
誰かがつぶやくのが聞こえてくる気がした。
*
美術の授業が終わり、鈴音がぼくに追いついてきた。彼女は丸顔でショートヘアの、明るい性格の女子だ。
「晃太のデッサンノート、あとで見せてね」
鈴音は、満面の笑みで、弾むように話す。
「いいけどさあ、何に使うの?」
ぼくは鈴音と同じリズムの話し方で答える。
「使うわけじゃないけど、晃太って絵が上手いじゃん。すっげー見たい」
「そういえばこの間、鈴音もモデル役でデッサンやったね。あれ見たいの?」
「違うって。ただ晃太の絵が上手いから見たいだけだってば」
ぼくの友人たちが、にやにやと笑いながら鈴音を見ている。あとでぼくを冷やかすつもりで観察しているのだろう。鈴音のキーの高い声が、ぼくの鼓膜を突き刺して、ぼくに内心こう言わせる。
この女、何てうざったいんだろう。
にこにこ笑いながら、ぼくは鈴音と話している。そこをアリスが早足で歩いていき、見透かすような目でこちらを見て去っていく。アリスの細い足首が、ぼくの目に鮮明に残る。
アリスは、ぼくの恋人ではない。ぼくは彼女を愛してさえいない。けれど罪の意識を感じるのは、こんなときだ。アリスの嫌いな鈴音と仲良く話しているとき。
アリスの悪い噂は本当だ。アリスは去年、鈴音をいじめた。クラスのほぼ全員を扇動して、彼女を徹底的に否定したのだそうだ。無視されたし、持ち物を隠されたと彼女は言っていた。されることは単純だけれど、鈴音の心はぐちゃぐちゃになった。当時陰気な性格だった鈴音は、二学年に上がったのを機に、性格を変えた。積極的な、明るい少女。それになりきったのだ。
「でもね、晃太」
鈴音はのちにぼくに言う。
「わたし、薬を飲んでるんだよ。自分を捻じ曲げるのって、辛いんだ」
それでも、ぼくはアリスから目を離せない。アリスは何か他の人間とは違うものを秘めていて、それはとても興味深いし、何より彼女は美しいからだ。
*
アリスについて、ぼくは多くのことを知っている。
一学期に行われた身体検査の結果は身長一六五・五センチメートルに体重四二キログラム。これは保健室で勝手にデータを見た。痩せ型のほっそりした体型だ。性格は嗜虐的で、それは未だに変わっていない。家族構成は両親とアリスの三人。アリスが反抗期に入ってからはほとんど話をしない。友人は、昔は大勢。今はたったの一人。この街の隅に暮らす伊藤末子という老婦人一人だ。アリスは末子と遊ぶことで世界と繋がっていると言ってもいい。
人間関係を糸に例えてみよう。アリスの糸は今や末子という一本の糸のみ。これのみでアリスは現実世界にいるのだ。とても、危うい。ぼくは常々そのことを危惧している。
*
ぼくは美術部員だが、小さな中学校の美術部というものはとてもいい加減だったりする。特に女子が多数、男子が三人という状況では運動部のように一致団結しようもないし、教師がどうしようもなく気弱ときては舐めて遊ぶくらいしかしようがない。美術部はサボり部だと言われているし、実際サボっている。けれどぼくは結構真面目にデッサン画を描くし、遊ぶとしてもイラストを描いている。ぼくの絵はなかなか面白いと思う。ぼくの美術部仲間の男子たちの絵とは違い、少年漫画風ではない。 写実的でありつつも、衣装などが現代のものではないのだ。例えば飛脚の絵を描く。褌で隠れていない部分の尻を仕上げると、途端に仲間たちが大笑いして女子たちも寄ってくる。更にぼくは皆の前で平安貴族たちを写実画にしてみせる。教科書に載ったのっぺりとした肖像画を見ている彼らには、その違いが面白い。げらげらと笑う。このころには教師がやってきて、「皆さん、課題のポスター制作に戻るように」などと言う。友人たちは気にせずぼくの次の絵を待つ。ぼくは最後の絵を鉛筆で描く。丁寧に、服のしわも本物らしく。顔は、誰にしようか。
「ああ、不思議の国のアリス。上手いなあ」
誰かが言って、少し妙な空気が流れる。
「弓削さんに似てるね」
鈴音が言う。
*
ぼくの日常はアリスのことを考えることで過ぎていく。アリスは今日も一人だろうか。一人は楽だろうか。でも、楽であっても寂しくは、辛くはないだろうか。
*
アリスはたくさんの友人の糸に、鋏を入れた。それが、
「あんたたちみたいな馬鹿とはもうつき合ってられない」
の一言である。馬鹿呼ばわりされた友人たちはあっという間にアリスから散った。残ったおせっかい焼きの友人も、邪険にされるたびに遠のき、一人でいることが多くなったアリスにまとわりつく寂しがり屋の少女たちも、アリスが思い切り「鬱陶しい」とはねつけているうちにいなくなった。今やアリスに話しかけようという者はいない。皆がアリスを恐れているのだ。
ぼくは昨年度から彼女のことを知っていたが、彼女を目で追うようになったのは今年度からのことだ。一際美しいアリスが一人きりで座り、最初のホームルームでの自己紹介になると、目を吊り上げて「弓削アリスです」とだけはっきり言って着席するその姿にぼくは何故か強く惹きつけられた。何か、特別なものがある。彼女はすごい人間だ。そういう気がしてならなかった。だから隣の席にいた彼女のかつてのクラスメイトに、つまりは鈴音に、彼女のことを聞きだしたのだが。
鈴音は嫌な思い出を封印したがっていた。それでもぼくはしつこく訊いた。そして出てきたのは「わたし、弓削さんにいじめられてたんだ」の一言。そこからは訊かずとも情報が流れ出してきた。アリスの元友人たちとの関係も明らかになってきたのだ。アリスは元友人たちから無視を受けたという。それでも動じなかった、というより端からアリスが彼女らを無視していたので、呼び出しをくらった。彼女は「お高くとまってる」だの「うざい」だのといういじめの常套句を受けても、鼻で笑ったらしい。
わたしが同じことを受けたときはすごく辛かったのに。
鈴音が言い足すと、ぼくは同情顔で続きを促す。
一人になって、アリスは派手になった。化粧をするようになったのだ。
援助交際とか、してるのかな。
ぼくは鈴音の言葉を無視した。
*
ぼくは化粧をしたアリスの行き先を知っている。だからぼくは土曜になると友人たちと遊ぶが、日曜はアリスを追いかけることに決めている。末子の家は、こうやって突きとめたのだ。
時間はさかのぼる。アリスをつけ回すことに決めたまだかなり涼しい五月のこと、ぼくはまずアリスの自宅を見つけ、次に末子の家を発見した。
アリスの家は、よくある裕福ないい家のようだった。両親とも、アリスによく似て背が高かった。感じのいい人たちだが、何日も観察を続けているうちにアリスが彼らを無視していることがわかった。反抗期、だろうか。いや、これも糸を切る作業の一つなのだろう。親すら自分から切り離したがっているのだ。
末子の家は、アリスの家から自転車を走らせて十分くらいのところにあった。山の麓にある、小さな木造の家。ずいぶん古いようだった。庭には様々な鮮やかな花が植えてある。縁側がこちらに向いている。そこは開け放たれていて、中の様子がよく見える。古そうな姿見が一つあるきりの畳部屋。アリスは老婦人に派手な着物を着つけてもらったようだ。山吹色に赤い薔薇の大きな柄が描かれていて、雛人形のような顔をしたアリスにはよく似合っていた。ぼくは自転車に乗ったままぼんやりと彼女たちの華やいだ様子を眺めていた。
「何してんの?」
アリスの苛立った声が降ってきた。ぼくは隠れることもせずそうしていたのだから当然だ。
「あ、弓削さん? おれ同じクラスの山田晃太」
「知らない」
自己紹介しても無視されることは承知の上だった。ぼくは構わずアリスに話しかけ続けた。
「弓削さん、すごく似合うね、着物。前からここで着つけてもらってるの? ここ、着つけ教室?」
「うるさい」
「違うのよ。これは遊んでるだけ」
老婦人、つまりは末子がにこにこ笑いながら顔を出した。ずいぶん上品な人だ。地味な着物を身に纏っているのだが、少しも不自然なところがない。
「昔は着つけや日舞を教えたりしていたのよ。今はアリスちゃんがお遊びで着つけごっこにつき合ってくれてるだけ」
アリスちゃんの同級生? 上がっていただきましょう。
末子に逆らえないらしいアリスは、渋い顔をしながらも従ってぼくを迎え入れた。ぼくとしては好機だ。アリスをつくづくと眺めることができる。
アリスは本当に、着物がよく似合っていた。殊に派手な柄がよく似合う。化粧をしているのはわかっていたが、その化粧も手馴れている。マスカラと赤いグロス。これらの化粧品の名前はアリスにしつこく訊いたら教えてもらった。白い顔によく映えていて、余計に人形じみている。長い髪は横で丸くまとめられ、赤いつるりとした珊瑚のかんざしが挿してある。珊瑚のかんざしについては、末子が「わたしの宝物なのよ」と説明してくれた。
いつまでもアリスを眺めているぼくに、彼女は愛想を尽かして向こうを向いた。すると暗緑色の帯の結び目が見えた。リボン結びに見えるが、末子に訊くと全く結び方は違っていて、文庫結びと言うのだという。巻いた帯の上にリボンが乗っている感じだ。褒めるとアリスは珍しく気をよくしたらしい顔をした。仏頂面を少し和らげただけのことだが。
「アリスちゃんは本当に好きよね、文庫結び」
末子が自らの柔らかそうな白髪を撫でながら微笑んだ。
「他にも色々な結び方があるのよ。これはね、お太鼓結び。帯の基本形よ。帯の柄がよく見えていいのよ」
末子は自分の藍色の帯の後ろを見せた。テレビなどで見る、きちんとした着物につき物の形だった。
他にも色々な結び方があって。
末子は色々な帯の結び方を説明した。ぼくは得意の笑顔でそれを聞き流した。アリスの帯の結び目がかわいらしいからぼくは興味を示したのだ。帯の結び方自体に関心があるわけではない。アリスはそれを察知したのだろう。ぼくに向き直って言い放った。
「帰れ」
ぼくはたじろいだ。末子はおっとりした性格なのか、あらどうして、などとアリスに尋ねている。
「こいつ、学校でもわたしのこといつも見てるんだよ。すごく気持ち悪い」
アリスの言葉に、何だ、気づいていたのかと驚く。アリスは他人に興味を示さないように見えて、実は意識を向けているのだろう。
末子は少し怒るような顔になった。
「アリスちゃん。人のことを『気持ち悪い』なんて言っちゃ駄目でしょ」
アリスが困惑した顔になる。
「でも」
「女の子なんだから柔らかい言葉を遣いなさい。ね?」
「それって柔らかい言葉ならこいつをけなしてもいいってこと?」
アリスがくすりと笑う。末子はころころと笑い、
「そういう意味じゃないのよ。そういうのは控えめにね」
などと言う。控えめにね、か。何だ。ぼくは結局そういう扱いか。けれどここに居座る糸口が見えてきたので、ぼくは「ひどいなあ」などと笑って済ませた。末子はほほほと声を上げたが、アリスはこちらを見もしない。次の話題に移ろうとしている。
「末子さん。わたし、このかんざしほしいなあ」
アリスが珊瑚のかんざしを撫でた。真っ赤な、血が固まったようなかんざし。ぼくならご免だが、アリスは魅力を感じているらしい。困った顔をした末子にすがって、再度頼み込む。
「末子さん。わたし大事にするから、これ頂戴」
「駄目よ」
不満顔のアリス。末子は立ち上がり、
「それはわたしの父に買ってもらった大事なものなのよ」
とつぶやき、襖の奥の部屋に入ってしまった。ぼくはアリスに近づき、
「ちょっと図々しいよ、弓削さん」
とささやいた。アリスは鬱陶しそうに体を離す。それでもぼくは構わず近寄る。
「珊瑚って高いんだよ。十万とか、二十万とかするんじゃない?」
「近寄んないでよ」
「値段の問題じゃないのよ」
声がして、末子が姿を現した。何かを持っている。ぼくは元の位置に戻り、アリスはぼくから離れた場所に移動して腰を下ろした。
「あのねえ、これならあげてもいいわ」
末子が上機嫌な声を出す。手にした布を開くと、そこには古めかしい形の木櫛があった。梅の絵が彫られている。アリスが嬉しそうに声を上げる。
「これ、どうしたの?」
「注文して、買ったのよ」
「わたしのために?」
「そうよ」
「すごい」
アリスはその櫛を手に取り、ためつすがめつ眺めた。色の濃い木櫛だ。やけにつやつやしているし、アリスはこの通り喜んでいるし、きっと上等な櫛なのだろう。
「柘植の櫛はね、この椿油をこまめに塗ることが大事なの」
末子は黄色い液体の入った小さめの壜を畳の上に置いた。
「じゃないと、乾いて反ってしまうのよ。手入れ、できる?」
「うん」
アリスが笑った。とても嬉しそうに。その表情はクラス中から妙な目で見られている仏頂面のアリスとは全く違った。アリスは末子にだけ、この表情を見せるのだろう。
末子がぼくのために説明をしてくれた。
「椿油を吸い込んだ柘植の櫛で髪を梳くと、つやつやになるのよ。アリスちゃんは若い人にしては珍しくこういうものに興味があるから嬉しいわ。あなたは」
話の途中で襖の向こうが騒がしくなっていた。これは、犬の鳴き声だ。とても甲高い。
「ぼうしが騒いでるわ」
末子は立ち上がり、襖を開けた。飛び出してきたのは白い毛玉だ。ぼくに体当たりをしたかと思うと、激しくじゃれついてきた。ぼくは何とか対応しようとするが、犬の動きがあまりにも俊敏で追いつかない。犬はどうやら、ぼくになついているらしい。やたらに尻尾を振り、ぼくの顔を舐めたがる。
「ぼうし、わたしには懐かないのに」
アリスの不満げな声が聞こえる。熱烈な歓迎を受けているぼくには、アリスの様子を確認しようがない。「ぼうし」という名のこのミニチュアプードルは、次第に落ち着いてぼくの横にお座りした。
お昼寝の時間が過ぎたのね、と末子。櫛を手にしたままぼくをにらんでいるアリス。ぼうしはやがて伏せてくつろぎ始めたが、彼がぼくの横でそうするのはこの後の日曜日の恒例となる。
*
七月のことだった。暑い盛りだ。このころともなれば、ぼくがアリスの遊び場に入り浸っていることは、周囲に完全に広まっていた。ぼくの友人たちはしつこく、交互に、どういうわけなのかを訊きにやってくる。
「お前らつき合ってんの?」
「いや」
「おまえ、弓削のこと好きなの?」
「違うよ」
ぼくはへらへらと笑いながら答える。アリスは離れた席で、ぼんやりと窓の外を眺めている。
「晃太」
深刻な声が、近づいてきた。
「弓削さんとつき合ってるの?」
鈴音だ。ぼくは内心ため息をつきながら笑顔を返す。
「違うって言ってんのに、皆信じてくんねーんだよな」
鈴音は唇をぎゅっと結び、手遊びをしながらぼくに質問を降りかける。
「弓削さんと、どこで遊んでるの?」
「それは噂の通り」
「どうして弓削さんと遊ぶの?」
「何か興味があってさ」
「弓削さんのこと、好きなの?」
ぽろぽろと、涙が落ちた。鈴音はうつむいて手で顔を拭く。周囲が少しざわつく。ぼくは、面倒だな、と思い始める。
そのとき丁度よく、チャイムが鳴った。
*
ぼくはこのころ、アリスと糸のことを考え始めていた。アリスはたくさんの糸を持っていた。ぼくよりもたくさんの、様々な糸だ。彼女は何がきっかけか知らないが、それを一気にばちんと切った。気持ちがいいくらいに、あっさりと。面倒な絡みつく糸は徹底的に鋏を入れて切り離した。残したのは末子だけ。末子の糸だけだ。
*
その月の日曜日、ぼくは末子にアリスの糸の話をした。末子はうなずき、「そう」と言った。アリスが末子の家に来る前のことだ。
「わたしはね」
末子はぽつりとつぶやく。
「結婚もせず、友人もなく、七十五年生きてきたけどね、そんな風に糸の例えを考えたことはなかったわ。晃太君は哲学家なのね。でもね。目に見えるものだけじゃないのよ、人間関係は。アリスちゃんにはたくさんの友達がいたって言うけど、ちょっと離れただけでいじめ始めるような人たちは、果たしてその『糸』に当てはまるかしら。もしかしてアリスちゃんは」
「こんにちは」
ぼくの隣のぼうしが、はっと立ち上がり、また伏せる。アリスが来たのだ。
末子の話の続きはこうなのかもしれない。
もしかしてアリスちゃんは、最初から糸なんて持ってなかったのかもしれない。
*
夏休みに入っても、ぼくは日曜日になると末子の家に通った。アリスはそのたびに嫌な顔をする。末子も特に歓迎はしていない。女の子同士のおままごとのような遊びをするには、ぼくは少し邪魔なのかもしれない。歓迎してくれるのはぼうしだけだ。ぼうしはぼくを見ると激しく尾を振り、まとわりついてくる。
「晃太君は、夏休み、何してる?」
末子が訊いてきた。アリスはよく冷えた水羊羹をぱくぱくと口に運んでいる。
「友達と釣りやったり、そうだな、川に飛び込んだり」
ぼくが答えると、末子は男の子らしいわね、と微笑む。
「今度、友達皆で花火大会に行くつもりですよ」
「アリスちゃんも?」
「どうしてわたしが」
アリスは相変わらず無表情に水羊羹をつついている。
「その友達の中に、鈴音がいるんでしょ。よくあいつと仲良くできるよね」
アリスの嘲るような目を見て、ぼくはどきりとした。アリスは鈴音を嫌っている。それは知っていた。態度の端々に出ていたから。しかしこうもはっきりと態度に出されるのは初めてだった。
「あいつ、すっげー暗かったんだよ。弓削さん、弓削さんってしつこいからシカトしたけど」
末子が深刻な顔でアリスを見つめている。
「今、無理して明るい振りしてるけど、こっちは見えてるんだよね、あいつの本当の顔。つまんない奴だよね。あいつって本当の友達いるのかな」
「弓削さんはさ、いるの? 本当の友達」
気づけば何となく訊いていた。しかし声は重く響き、焦ったところで取り返しはつかなかった。アリスはぼくを横目でちらりと見て、
「帰れ」
とつぶやいた。ぼくはどっと汗をかいた。立ち上がり、玄関に向かう。靴を履いていると、末子がぼうしと一緒に追いかけてきた。ぼくと末子は対峙し、末子のほうが先に口を開いた。
「アリスちゃんもね、晃太君なんかと花火大会に行くのかなって、浴衣縫ってたの。違ったのね。どうして誘わなかったの?」
だって、ぼくはアリスを愛してはいないから。真っ先にその言葉が頭に浮かんだが、それだけではないような気がした。しかし口をついて出てきたのは、末子を傷つける言葉だった。
「弓削さんはぼくにとってただの鑑賞物なんですよ。見るための美しい美術品なんです」
それを聞くと、末子は一瞬呆然として、「そう」とつぶやき、また戻っていった。ぼうしだけが、家から出て行くぼくを見送っていた。
*
花火大会はあっという間に過ぎた。仲のいい友人でまとまったぼくらは、夕方から集まって花火を見、人ごみに揉まれ、たこ焼きを食べ、交際を申し込んだりされたりし、いつの間にかぼくは恋人がいる身になっていた。すなわちぼくは鈴音を恋人として持つことになったのだ。ぼくの心情は簡単だ。そろそろ恋人を持っても悪くはないと考えたのだ。そこに花火があり、鈴音が居合わせた。ぼくらの関係が成立するのは簡単だった。
鈴音は恥ずかしそうに地面を見ている。ぼくは花火の終わった空を眺めている。
「自転車、後ろ乗りなよ。近くまで送ってあげるから」
ぼくは自転車にまたがり、鈴音を振り返る。鈴音は浴衣だ。金魚柄の浴衣。ふと、アリスを思い出す。アリスならばもっと上等の浴衣を着られただろう。末子が用意していたのだから。それにアリスの着る着物に比べ、鈴音の浴衣は何て子供っぽく、惨めなのだろう。
「ありがと」
自転車の後ろに鈴音が横座りに座る。ぼくは自転車を漕ぎ出した。生ぬるい風が、ぼくらの汗を乾かす。花火大会の迎えの車のために、道路は大混雑だ。
「自転車でよかったよ。すげー混んでる」
「うん」
鈴音の声がこわばっている。ぼくはひどく冷静だ。恋人か。そんなに必要だっただろうか。考えながら、ぼくは鈴音の手がぼくのTシャツを掴むのに気づく。鈴音は、ぼくのことが好きらしい。しかしぼくは鈴音のことをそこまで好いてはいない。それでいいのだろうか? そう思っては打ち消す。どうでもいいじゃないか。
渋滞した車のライトがぴかぴかと光る夜闇の中を、ぼくは走る。どうでもいいものを後ろに乗せて。
*
鈴音に、弓削さんとはもう遊んでないんだと思ってた、と言われた。二学期の初めのことだ。ぼくは、そこまでする意味はあるの? と答えた。鈴音は泣いた。中庭は静かで、かえって居心地が悪かった。
ぼくは花火大会が終わったあとも、日曜日になると末子の家に行った。相変わらずの対応で、アリスは不機嫌、末子は表向き親切だがどうでもよさそうな様子、ぼうしだけがぼくを大歓迎してくれた。
鈴音が中庭で泣く前の日曜日は、アリスから珍しく声をかけられた。
「よかったね、もてて」
にやにや笑っている。どうやらぼくと鈴音の様子を学校で見て、ぴんと来たらしい。
「鈴音ねえ。どこがよかったの?」
「まあ、素直なところかな?」
ぼくが笑顔で答えると、アリスはけらけら笑った。
「嘘。どうでもいいんでしょ、つき合うとかさ、彼女とかさ、一番めんどくさそうじゃん」
はは、とぼくはちょっと笑い、黙った。アリスも黙る。そこに末子が現れた。顔色が青い。アリスは敏感に気づき、「どうしたの?」と尋ねる。末子は笑って答えた。
「心臓が悪くてね。でも大したことはないの。治まるから」
「心臓? いつから?」
アリスの顔まで青くなる。末子はへたりと座り、
「子供のときからね。一時期治まってたんだけど、今年に入ってからたまに辛くてね。ごめんね。今日は二人とも帰ってくれる? 寝たいの」
「いいよ。もちろん。末子さん、大丈夫だよね」
末子の体にそっと触れ、必死の形相でそう訊くアリスを見ると、彼女の最後の一本の糸は絶対に切り離してはならないものだと思った。そうしないと、彼女はどこかに、そう、ぼくの知らないどこかに落ちてしまうかもしれない。
「大丈夫。ただ、今日は帰ってね。どきどきしてたまらないの」
鈴音の泣き声を聞きながら、アリスの糸について考える。彼女が綱渡りから落ちないように願う。落ちても這い登って元に戻れるかなんて、経験の浅いぼくにはわからないのだから。
*
鈴音の態度は日々鬱陶しいものになっていく。アリスを見ているぼくの視界を遮るくらいならいい。しかし人目のつく廊下で泣かれるのは我慢できない。彼女には忍耐と言うものがない。そんなにぼくの行動が気に食わないなら、ぼくを切り捨ててしまえばいいのに。
校庭の銀杏が黄色く染まっている。美術部の活動が終わったあとに、ぼくと鈴音は共に下校した。このとき、鈴音は珍しく無口だった。いつもならこちらが辟易するほどに話すのに。
「詳しく話してほしいんだ」
いきなり溜まっていたらしい言葉を開放した鈴音は、こちらをじっと見ていた。
「どうして弓削さんを見るの?」
「あー、聞きたい?」
「わたし、晃太の彼女だよ。聞きたいに決まってるよ」
ぼくは少々疲れた気分で鈴音を見た。背の低い彼女は、ぼくの目の下でぼくをにらんでいる。
「弓削さんはね、おれにとって特別なんだ。何というか、興味深い。彼女がどうして一人なのか、あんなに他人に冷たいのか、一人だけを大切にしているのか、気になって仕方がないんだ」
「弓削さんが大切にしてるのって」
「ああ、末子さんっていうおばあさんだよ。そこは誤解しないでほしい」
「誤解」
「うん」
鈴音は少し黙った。そしてこうつぶやいた。
「好きじゃないんだよね、弓削さんのこと」
「うん」
ぼくはあっさりと答える。
「わたしのことも好きじゃないんでしょ?」
ぼくは黙る。
「晃太は忘れてる。わたしが弓削さんにいじめられたこと。それか、どうでもいいんだよね。わたしのこと、別に好きじゃないけどつき合ってみただけなんだよね」
鈴音の目は乾いている。
「でもね、晃太」
虚ろな目でぼくを見た鈴音は、ぼくがどきりとするものを持っていた。
「わたし、薬を飲んでるんだよ。自分を捻じ曲げるのって、辛いんだ」
「薬?」
「心を落ち着かせる薬。そうでもしないと、弓削さんや皆に全てを否定されたってこと、自分の中で誤魔化しきれない」
「鈴音」
「別れよっか。もう潮時だもん」
鈴音はかすかに笑い、ぼくから逃げた。ぼくは呆然とそれを見守る。鈴音の走る姿は、何故かアリスと重なった。
*
末子は時折具合が悪くなり、ぼくとアリスを追い返すようになった。アリスが看病を申し出て、たまに世話をしているようだ。それでも体調のいい日は積極的にぼくらを招いてアリスのファッションショーをやった。アリスが末子の若いころの着物を着て、ぼくに見せるのだ。アリスはぼくが初めてこの家に来たときと同様、着物が似合っていた。白い肌も、直線に似た体のラインも、相変わらず美しい。アリスはぼくを見るといつも不機嫌になるが、このショーの間だけは得意げな顔を見せていた。末子もたいそうご機嫌だ。
一段落つき、ぼくはじゃれついてくるぼうしと遊んでいた。ぼうしはぼくの動作を一つも見逃したりはしない。手を出すと何も言わなくても背筋をしゃんと伸ばしてお手をする。一方で、アリスと末子は二人でくすくすと笑いながら話をしていた。石油ストーブが赤々と燃えている。
「そうだったわ」
末子が突然大きな声を上げた。見ると、彼女は部屋の隅にあった畳んだ風呂敷をどかし、小さな細長い木箱を手に取った。蓋を開けて、アリスに差し出す。アリスは怪訝な顔をしていたが、それを見るとぱっと嬉しそうな顔をした。
「くれるの?」
「ええ」
見ると、それはアリスがほしがっていた末子の珊瑚のかんざしだった。ぼくも驚いて見ていると、末子はぼくとアリスの顔を交互に見て、
「やっぱりね、こういうものは早くあげておかないと」
と何か含んだような言い方をした。アリスが不安げな顔をする。
「どういうこと?」
末子はにっこり笑って、
「わたしももう七十六だからね。一番ほしがってた人にあげないとね」
「末子さんは長生きするよ」
「わからないわ」
「これ、返すよ」
「いいのよ。大事にしてくれれば。いつだって借りられるしね」
末子は微笑む。しわの多い顔を優しい形にして。アリスが黙っている。そこで座っていたはずのぼうしが、いきなり玄関へとつながる障子の引き戸をかりかりとかすった。
「外に出たいのかしら。晃太君、リードをつけて遊ばせてやって」
末子はそのままの表情でぼくに言った。アリスはまだうつむいている。ぼくはぼうしを連れて玄関を出た。肌寒い。花の枯れた、囲いのない庭に出て、ぼくは雨戸を閉じた縁側のほうに歩いていった。ぼうしははしゃぎながらあちこちを嗅いでいる。
ぼくは眺めている。末子の家の裏にある山を。
岩山で、木が生えているのは麓のあたりだけだ。岩の部分には、今にも外れそうな、大きな石がある。いつも考えていた。あの石が落ちたら、この家は潰れるだろう。アリスの糸は途切れ、アリスの心は死んでしまうだろう。
「末子さん」
ぼくはぼうしと一緒に中に戻り、暖かい部屋に入って二人の会話をとめた。アリスと末子は、ぼそぼそと何か話していたが、ぼくが声をかけると末子が顔を上げた。
「この家の上にある岩、大丈夫なんですか?」
アリスがぱっとぼくを見た。末子は、ああ、とつぶやいたがどうでもよさそうな態度だ。
「危なくないんですか? どうにかしたら死んじゃいますよ」
「黙れ」
アリスが叫んだ。立ち上がり、ぼくに掴みかかってくる。ぼくは仰天して、アリスに胸倉を掴まれた自分の姿を姿見に見た。
「死ぬとか言うなよ。本当になったらあんたのせいだから」
ぼくの体は強く突き飛ばされた。ぼくはバランスを崩し、障子にぶつかる。すごい音と痛みと共に、ぼくは障子を玄関へ続く廊下へと倒していた。ぼうしが咆える。アリスはすたすたと近づき、ぼくの胴体を蹴りつける。緑色の着物を着て髪を整えたアリスがぼくに暴力を振るう様は、今思えば滑稽だ。しかしぼくはそれどころではなく、痛みに耐えて立ち上がろうと必死だった。末子がアリスを抱きしめる。アリスは突然大人しくなる。それでもぼくを憎憎しげに眺めながら離れ、いつも着替えに使っている部屋へと消えた。末子がぼくを立ち上がらせる。ぼうしはなおも咆えている。
「ごめんなさいね。わたしのせいだわ」
末子はどこか具合の悪そうな顔色で、ぼくの体を点検した。アリスにみぞおちを踏まれたが、大したことはない。ただぼくは驚いていた。アリスの中に、こんなものがあるのかと。不安というものは、鈴音のような弱い人間が持つものだと思っていた。アリスの中に、巨大な不安、それも正気を失いそうなくらいの不安があることは、ぼくのアリスへのイメージを変え、そして失望させた。楽しみにしていたプレゼントの中身が、予想外のつまらないものだったような気分だ。
「わたしのせいね。わたしが老いぼれだから」
末子の声が、やけに遠くに聞こえる。
*
そろそろ、銀杏が散るころだろう。ぼくは教室でも部活でも、何不自由なく過ごしていた。鈴音と別れたことは、もちろん仲間内に伝わった。鈴音はいつの間にか新しい仲間を作り、そこに属していた。ぼくは鈴音より人に好かれていた。だからぼくはひどく非難されることなく、学校にいられた。
この二週間、ぼくは末子の家に行っていなかった。日曜日は友人と遊んでいた。それはそれで楽しく、ぼくが過ごしていたあの末子の家での日曜日は、一体何だったのだろうと考えもしたくらいだ。
アリスは相変わらず学校に通っている。ぼくをちらりと見ることもなく、相変わらず一人でいる。美しいと思うことはなくなった。その容姿は見慣れてしまったし、内面は平凡だ。ただ、ちくりと何かがぼくを刺す。アリスの後姿を見るたびに。その姿は鈴音に似ているのだ。
鈴音。彼女がぼくに残したものは少し苦い。ぼくらは二人で過ごした時間がとても短かった。確か、一月程度だ。彼女と別れたときの彼女の言葉は、重い。
授業が終わり、部活の時間になっても、ぼくと鈴音が話すことはない。ぼくは男子を中心としたグループで好き勝手に絵を描いて遊び、鈴音は静かに部活の課題に取り組んでいる。ぼくは鈴音に目が行く。彼女は自分を捻じ曲げるのは辛い、と言っていた。それはぼくにとって理解しがたいことで、一生わからないことかもしれない。でも、理解したい気持ちが、生まれ始めていた。
「鈴音、一緒に帰ろう」
ぼくは一人で帰ろうとする鈴音を捕まえ、何気ないように声をかけた。鈴音が目を見開く。
「話があるから」
鈴音は少し考える顔をして、小さくうなずいた。ぼくらはつき合っていたころのように、二人で下駄箱に行き、無言で外に出た。肌を刺す寒さだ。
「あのさ、鈴音。おれはいい加減な生き方をしてるから、鈴音の気持ちがわからないし、面白半分につき合ったりとか、しちゃうんだよ」
鈴音の表情は暗かった。きっと今、ぼくは鈴音を傷つけたのだろう。
「他人が一生懸命生きてるってことが、わかんないんだよ。おれは好きにやってもあまり非難されたりしないし、否定されることもない。だからどうしても理解できないんだ」
さくさくと、落ち葉を踏む。乾いたそれらは簡単に割れ、ぼくの耳にうるさく響く。
「でもさ、鈴音の話聞いて、初めて『失敗した』って思った。これはおれが一生後悔する失敗だって思った。ごめん、鈴音。おれ、お前のこと、すごく傷つけたよな」
鈴音は相変わらず下を向いたままだ。ぼくは段々焦りで心臓が大きく鼓動してきたのを感じる。
「薬飲むくらい傷つくことなんて、滅多にないよな。本当に鈴音は辛い思いをしたよな。おれ、別れるときまで深く考えてなかった。ごめん。本当に、ごめん」
「あのね、わたしはまだ晃太のこと好きなんだよ」
初めて鈴音が声を出した。小さな声だった。
「わたしのこと、どうでもいいって思ってること、知ってた。でも、好きなんだよ。弓削さんとのこと、詳しく聞いてくれたよね。あのときから」
ぼくはどう答えていいのか、迷う。ぼくは今、鈴音のことをどう思っているのだろう。
「弓削さんのこと、わたし恨んでる。わたしのこと、あんなに馬鹿にしたし、晃太のこと取ってるって思ってた。でも、弓削さんもさ、人間なんだよね。一人なのが寂しいから、同類のわたしを嫌うんだよね。それに弓削さんは、晃太のこと好きなんだ。だからわたしのことがますます嫌いになったんだ」
「何かされた?」
「されてないよ。ただ、感じるだけ」
鈴音はいつの間にか顔を上げていた。表情は変わっていないけれど。
「弓削さんはおれのこと、嫌いだよ」
「違うよ。だったら一緒に遊んだりしない」
「おれは勝手につきまとってるだけだよ」
「弓削さんに聞いてみなよ。それで二人がつき合っても、わたしは何も言わないから」
鈴音は別れ道で立ちどまると、無表情に手を振り、行ってしまった。
*
その翌週、ぼくは久しぶりに末子の家に行った。末子はぼくが途切れなく来ていたかのように、いつもの微笑を浮かべていた。アリスはむっつりと黙っている。ぼうしは大歓迎。アリスとぼくが倒した障子は、あのことなどなかったかのように元に戻っている。
「寒いね」
ぼくが声をかけると、アリスは手遊びをしながら自分のひざを見た。今日は洋服を着ている。赤いセーター。
「何で来なかったの」
すねた声。
「そりゃ、君がおれに暴力を振るったから」
アリスはぼくをにらむ。
「鈴音と何話してたの」
驚いた。ぼくと鈴音を見ていたのだ。
「色々」
「より戻すの」
「わからない。というか、戻りようがあるのかな」
「あるんじゃない? あんたたち、元々仲良かったんだから」
「鈴音に言われたんだけど、君はおれのこと好きなの?」
「はあ?」
アリスの顔が歪む。馬鹿じゃないのとその顔は言っている。やはりそうか。ぼく自身、それはわかっていた。
「冗談だよ、冗談」
「きつい冗談だよね」
軽く笑ってぼくは話題を変える。
「あのさ、君がたくさんの友達を捨てたのは何でなのか、教えてくれる?」
「は?」
「君は最初から一人だったの? 友達なんて、皆上辺だけだったの?」
「意味わかんない」
「鈴音が薬飲んでること、知ってる?」
アリスは黙り、瞳と唇を震わせた。末子は困ったようにぼくらを見ている。
「鈴音をいじめて、そのせいで鈴音が傷ついたこと、知ってるよね。薬を飲むことで鈴音は君につけられた傷を埋めてる。君はそれを知って、糸、じゃなかった、友人関係を切ったんだよね。君は、今も鈴音のことで苦しんでるんだ」
アリスは唇を震わせながら、泣いていた。涙の筋がいくつもいくつもできる。末子がアリスのほうに近寄る。
「一人になることで、楽になろうとしてるんだ。もうあんな残酷な仲間も、過去の自分も、切り捨ててしまいたいんだ。そうだろ? それって、ずるくない? おれはそう思うけど」
アリスが泣きじゃくる。さっきの強気な彼女はどこかへ行ってしまった。末子にすがりついて、泣いている。やめなさい、と末子。
「晃太君は知らないんだろうけどね、アリスちゃんは小学生のころから」
「やめて、末子さん。言わないで」
アリスがとめようとする。ぼくは驚いて末子を見る。末子はとても厳しい顔をしている。
「いいえ、言うわ。アリスちゃんは小学校のころから薬を飲んでるのよ。お家の事情で傷ついてね。苛立って鈴音ちゃんをいじめて、同じ状況にさせてしまったことを、未だに悔いてるのよ。どうしてそれを掘り返して、アリスちゃんを傷つけるの」
今度はぼくが黙る番だった。アリスが泣いている。末子がぼくをにらんでいる。
「アリスちゃんは、あなたが鈴音ちゃんを大事にしてないことを心配してたのに。つき合ってるのに、ここに入り浸ってもいいのかって、いつも言ってたのに。冷たくて残酷な人間はあなたでしょう。どうしてそんなことを言うの」
ぼうしがぼくの横で伏せて、ぼくをじっと見ている。ぼうしはぼくを心配しているのだ。しかし、心配を受ける権利はぼくにないだろう。ぼくは傷つけた。たくさんの人を。記憶をさかのぼっていく。ぼくは他人に傷をつけて生きてきた。気弱なクラスメイトをからかったし、家族に暴言を吐いた。それでも人に好かれてきたから、気にしたことがなかった。ぼくは、他人の人生を歪めて生きてきた。
「ごめん」
末子の家を飛び出す。ぼうしは今日ばかりは送り出してくれない。自転車を走らせると、川にたどり着いた。ぼくはそれから数時間、寒空の下で凍りかけた川を眺めていた。
*
ぐるぐる回る。アリスと鈴音と末子。ぼくの周りを回る彼女たち。夜空の星の動きを早回しにしたように回る。アリスに対して、ぼくは勝手に希望を抱き、失望した。鈴音に対し、内心無視していたくせに今では味方気取りだ。末子に対し、何の感情も抱いていなかったけれど、この状況。回る。めまいがするほどに。
川面が揺れている。凍ってなどいないのだろう。
*
無人の美術室で、ぼくはデッサンノートを開いた。そこには弓削アリスの顔をした不思議の国のアリスがいたし、椅子に腰かけたアリスがいたし、鈴音もいた。鈴音はアリスと同じ姿勢で描かれていた。こんなところでも似てるんだ。ぼくはそう考え、苦笑した。誰かがぼくの後ろを通る。
「あ、鈴音」
鈴音は立ち止まると、緊張した面持ちでぼくを見た。ぼくはわざとへらへらと笑う。
「何だよ。弓削さん、おれのこと全然好きじゃないみたいじゃん。恥かいたよ」
「そう」
「ねえ、またおれの彼女にならない?」
鈴音は目を見開く。ぼくの提案は唐突すぎるようだ。
*
あのとき以来、ぼくはアリスに対するこの強い関心の正体を考えていた。アリスは相変わらず一人でいる。末子が亡くなったから、本当の一人なのだろうと、以前のぼくなら考えるだろう。
末子は冷え込む十二月のある日、心臓発作で亡くなった。葬儀にはたくさんの人が来た。一人きりで生きてきたという末子の人生を考えると信じられないくらいに。多くは彼女のかつての弟子だった。そして、近所の人々。他にも多岐にわたる知人たち。彼らは末子を慕っていた。人間関係は目に見えるものだけではないと言った、末子を思い出す。情の深い末子。彼女は知らず知らずのうちに人に感謝されていた。
ぼくは糸についての考えに、「見えない糸」を加えることにした。そして、もう一つの糸の存在に気づいた。
*
アリスは綱渡りをしている。自分という糸の上で、バランスを取っている。それを支えているのは切ったはずの、あるいはなかったはずの見えない糸だ。アリスは危うい思いをしても、どこかしらの糸に受け止められ、助けられている。
「弓削さん、おれたち、友達になろうか」
末子の初七日で鉢合わせしたアリスに、ぼくはそう声をかけた。アリスは仏頂面だが、アリスが引き取ることになったぼうしが、ぼくに向かって尻尾を振る。
ぼくもアリスの糸の一つに加わりたいと思っている。
《了》