記憶屋さん
店主のヒースが魔法のピンセットを動かすと、少女の目尻から、一筋の涙が糸のように引き抜かれた。
涙を透明な小瓶に収め、コルクで栓をする。すると瓶の中の液体が、淡い桃色にふわりと光った。
「はい、これで完了です。買い取り価格は銀貨三枚になります」
「ありがとう、店主さん。……不思議ね。あんなに苦しかったのに、もう胸が痛くないわ」
少女は初恋の記憶を売った。
すっきりとした笑顔で銀貨を受け取ると、春の陽気のような軽やかな足取りで店を出ていった。
ここは、街の片隅にある記憶を売買する記憶屋。
人々は忘れたい過去を持ち込み、店主のヒースはそれを小瓶に封じて棚に並べる。眠れない失敗も、消えてしまいたくなるような失恋も、「もしたられば」を繰り返さずにはいられない後悔も、忘れられない悔しさも。
時には人生を黄金に彩るほどの幸福でさえ、望めば売り払うことができた。
そして、退屈を持て余した裕福な者たちが、市井の人々からこぼれ落ちた、自分の人生では決して手に入らない「刺激的な記憶」を買いにやってくる。
そんな店に、数か月前から決まって夕暮れ時に訪れる女がいた。
仕立てのよいドレスをまとった、儚げな美女だった。彼女は棚に並ぶ小瓶や店内を愛おしそうに眺め、時折、理由もなく胸を押さえ。それからヒースの顔を何か言いたげに熱っぽく見つめ、何も買わずに帰っていく。
その眼差しには、どこか懐かしさがあった。
初めて会ったはずなのに、ずっと昔から彼を知っていたかのような。
ヒースには、一年前に家を出ていった妻がいた。
名はエマ。
熱烈に愛し合った時期もあったが、最後には毎日のように激しい口論をし、時には互いの腕をつかみ合うほどの喧嘩をした。
愛していたからこそ許せず、愛していたからこそ傷つけ合った。
そしてエマは荷物をまとめると、もう二度と戻らなかった。
あの嵐のような女とは正反対の、静かで穏やかな美女。
それなのに、彼女の眼差しを受けるたび、ヒースは妙な居心地の悪さを覚えた。嫉妬深いエマが、機嫌のよいときにだけ見せた、あの熱を帯びた目に少し似ていたからだ。
そして、胸の奥がわずかに高鳴る肉欲を、彼は認めたくなかった。
*
数日後、街を激しい嵐が襲った。
店じまいをしようとしていたヒースのもとへ、あの美女が迷い猫のように転がり込んできた。
ずぶ濡れのドレス。乱れた髪。見開かれた瞳は虚ろで、何かに怯えているようだった。
「……助けて」
彼女は震える唇で、途切れ途切れに言った。
「頭の中がぐちゃぐちゃなの。理由もないのに泣きたくなって……気づいたら、ここに来ていたの」
そこまで言うと、彼女は糸の切れた人形のように動かなくなった。
ヒースは困惑しながらも、タオルを取り出して彼女の髪を拭いた。冷えきった指先に触れると、彼女はびくりと肩を震わせた。
「身体の芯まで寒いの……」
ヒースは自分の上着を肩に掛け、彼女の顔を覗き込んだ。
「大丈夫。じきに嵐は過ぎるから」
その言葉を聞いた瞬間、彼女の瞳から涙がこぼれた。
なぜ泣いているのか、彼女自身にも分からないようだった。
ヒースはそっと彼女の手を握った。彼女はその手を握り返し、まるでずっと探していたものをようやく見つけたかのように、彼を見つめた。
そして、彼女のほうから唇を重ねた。
ヒースは一瞬ためらった。だが、彼女が離れようとしないのを確かめると、そっと抱きしめた。
その夜、二人は身体を重ねた。
初めてのはずなのに、どこか懐かしかった。
まるで、ずっと昔からこうなることを知っていたかのように。
*
翌朝、彼女は何事もなかったかのように目を覚ました。
そして当たり前のように、見事な手際で朝食を調えた。
焼きたてのパンの香りと、完璧な火加減の卵料理。それは街の一流の宿で出すものよりも、ずっとヒースの口に合った。
彼女は店の買い出しや接客までも、驚くほど自然に、完璧にこなしてみせた。
気がつけば、二人が共に暮らすようになるまで、そう時間はかからなかった。
彼女との生活は、エマとの日々と比べると、ヒースが拍子抜けするほど穏やかだった。
彼女は家事を甲斐甲斐しくこなし、疲れて帰ってきたヒースを優しく迎えた。
彼の些細な言葉に傷つくこともなければ、期待通りにしてくれないと機嫌を損ね、声を荒らげることもない。
ヒースが黙っていても、彼女はそばにいた。
何かを求めすぎることも、何かを疑いすぎることもなかった。
ヒースは、いつしかエマのことを考えなくなっていた。
あれほど愛し、あれほど憎んだ、嵐のような女の顔も、声も、引っかき傷も、遠い過去のものになっていた。
今、目の前にいる彼女こそ、自分がずっと求めていた相手なのだと思った。
「あなたといると、本当に幸せ」
夜、ベッドの中で、彼女がヒースの胸に頬を寄せた。
「ずっと昔から、こうしてあなたを愛していたような気がするの」
ヒースは彼女の髪を撫でた。
「僕もさ。君ほど僕を深く、穏やかに愛してくれる人はいない。僕たちはきっと、運命の二人なんだ」
彼女は微笑み、ヒースの胸に顔を埋めた。
ヒースもまた、幸せそうに目を閉じた。
だが、ヒースは知らなかった。
なぜ、出会ったばかりのこの女が、これほど深くヒースを愛しているのか。
なぜ、彼女は初めて訪れたはずの店に、何度も足を運んでいたのか。
その答えは、数か月前にさかのぼる。
*
別の街の記憶屋で、エマは泣き叫んでいた。
「愛してるのよ! なのに、殺したいほど憎らしいの!」
魔法のピンセットが、彼女の目元から記憶を引き抜いていく。
ヒースの笑顔を見て幸せになった日々。
ほんの些細な意見の違いで傷つき、眠れない夜を過ごしたこと。
彼の一言で天にも昇る心地になり、彼の何気ない態度に絶望したこと。
抱きしめられた温もりも、突き放された痛みも。
愛しているからこそ許せず、憎んでいるからこそ忘れられなかった、あの日々のすべて。
エマはそれらを、ひとつ残らず売り払った。
記憶が抜き取られるたび、彼女の顔から激しい感情が消えていった。
最後に残ったのは、頬に残った涙の跡と空っぽの瞳だけだった。
買い取られた記憶は、金色の小瓶に封じられた。
*
その小瓶を大金で買ったのが、あの美女だった。
彼女は親の決めた相手と結婚した。
夫は礼儀正しく、生活に不自由はなく、世間から見れば何ひとつ問題のない夫婦だった。
けれど、二人のあいだには、初めから最後まで大きな波どころか、小さな波すら立たなかった。
夫の帰りを待ち焦がれたこともなければ、他の女の影に胸を焼かれたこともない。
愛されていないと泣き崩れた夜もなければ、愛されているというだけで満たされ、世界が輝いて見えた朝もなかった。
ある日、夫と愛人のあいだに子供が生まれ、そして結婚生活は終わった。
彼女は夫を酷い人間だとは思わなかった。
ただ、ずるいと思った。
自分だけが満たされないまま、花の盛りを夫の帰宅を待つ毎日で使い果たした。
夫は家の外側で、誰かを愛し、誰かに愛された……。確かな、生きた生活をしていたのだ。
それが、どうしようもなく羨ましかった。
だから彼女は、手切れ金で他人の激しい恋愛の記憶を買い始めた。
嫉妬に狂う記憶。愛する人のために泣き叫ぶ記憶。憎しみと愛情の区別がつかなくなるほど、誰かに心を奪われた記憶。
その中で、ひときわ彼女の心を捕らえたものがあった。
金色の小瓶に封じられた、エマの記憶だった。
そこには、ひとりの男を狂おしいほど愛し、同じ男をどうしようもなく憎んだ女の人生が煮詰まっていた。
彼女は何度も、その記憶を覗き込んだ。
ヒースの笑顔を見て胸が弾む感覚。
その声を聞くだけで幸福になり、ほんの些細な言葉で奈落に突き落とされる感覚。
抱きしめられたいと願いながら、同時に傷つけてやりたいとさえ思う感覚。
彼女は初めて知った。
人を愛することは、こんなにも苦しく、こんなにも甘美なものなのかと。
激しい喧嘩の後の仲直りのセックスの記憶に彼女は脳が痺れたのだ。そして、この男の子供が欲しいと、下半身がまるで別の生き物かのように、激しく恋しがる衝動はまるで嵐だった。
記憶の中の男に、いつしか心を奪われていた。
記憶の持ち主がエマであることも、その男の名がヒースであることも、彼女は知っていた。
ただ、その男が今もどこかの街で暮らしているとは知らなかった。
それでも、彼女は金色の小瓶を手放せなかった。
記憶を覗くたび、胸の奥に奇妙な懐かしさが広がった。
まるで、自分自身が経験した恋のように。
やがて彼女は、記憶の中にあった街を無意識に探し始めた。
そして、旅先で偶然見覚えのある店を見つけ、記憶の中の男と同じ顔をしたヒースを見つけたのだ。
初めて目が合った瞬間、彼女の胸は強く締めつけられた。
会いたかった。
ただそう思った。
目の前の男をもっと知りたいと思った。
彼の声を聞きたかった。
触れてみたかった。
彼女は直ぐに同じ街に引っ越し、毎夕、店を訪れるようになった。
小瓶を眺め、ヒースを見つめ、何も買わずに帰った。
ヒースは、知らなかった。
彼女の愛情がエマ由来のものだとは。
目の前の女が注いでくれる穏やかな愛の奥底に、かつて自分を愛し、憎み、泣き叫んだ嵐のような女の記憶が眠っていることを。
もし、ヒースが注意深ければ違和感に気づいたかもしれなかった。
初めて朝食を作った時と初めてお店を手伝った時、彼女は手際が良すぎたのだ。
どこに何があるかを最初から知っている迷いがない動き。
ヒースに評価されたくて彼女はやり過ぎた。
*
「愛しているわ、ヒース。永遠に」
彼女は囁いた。
かつてエマが、激しい涙と接吻の嵐の中で何度も口にした呪いと同じ言葉だった。
けれど今、その声はどこまでも穏やかだった。
「僕もだよ」
ヒースは微笑み、彼女を抱きしめた。
女も微笑み、目を閉じた。
愛されている。
その幸福に、疑いはなかった。
ヒースは久しぶりにエマのことを思い出した。
かつて自分を傷つけたあの嵐のような女も、どこかの街で、今の自分のように穏やかな幸福の中にいるといい。
ヒースはそんな身勝手な願いを抱きながら、寝物語で妻になるとうなずいてくれた美女を抱いた。
その時美女もエマのことを考えていた。この幸福とヒースを彼女にさらわれないかと。
でも杞憂ねと思った。
だって、かつてヒースの愛したエマも、エマの愛したヒースも、もう私の中にしかいないのだから。
あなたが退場した物語の感動のフィナーレは私とヒースで描くわ。




