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ヒーローの残像

作者: jin kawasaki
掲載日:2026/06/04

駅前商店街のアーケードは、夕刻の買い物客で賑わっていた。

 七十を過ぎた俺——。本名よりも、かつての役名である「獅子堂烈」の名で呼ばれることの方が多かった人生だ。今では、膝の皿が湿気るたびに疼き、階段の上り下りだけで息が切れる、ただの隠居老人である。

右手に下げたビニール袋には、特売の卵と豆腐。左手には、最近手放せなくなった樫の木の杖。

「……よっこいしょ、と」

 独り言が漏れるのは、老人の証拠だ。かつて銀幕の中で、数千の怪人軍団を相手に大立ち回りを演じた男の面影など、どこにもない。

 四十年。いや、もうすぐ五十年前になるのか。

 『超光戦士レオン』。

 当時、子供たちの圧倒的な支持を得た特撮番組の主役。それが俺の絶頂期だった。変身ポーズを真似る子供たちに囲まれ、サイン攻めにあった日々。だが、特撮ヒーローという肩書きは、時として残酷な呪いになる。役のイメージが強すぎて、その後の俳優人生は鳴かず飛ばずだった。いつしか俺は表舞台を去り、小さな劇団の裏方を経て、静かな余生を送っていた。

その時だった。

「待て! 泥棒ッ!」

静寂を切り裂くような叫び声。

 反射的に顔を上げると、十メートルほど先、人混みを縫うようにして全力疾走してくる男が見えた。手には、いかにも場違いな女物のハンドバッグ。

 ひったくりだ。

(……こっちに来るな)

俺は本能的に、壁際へ身を寄せようとした。

 今の俺は、悪を挫くヒーローじゃない。転べば骨折、打ちどころが悪ければそのままあの世行きもあり得る、脆弱な一個体に過ぎない。

 頼む、あっちへ行ってくれ。若い奴はいくらでもいるだろう。警察を呼ぶくらいなら協力してやるから、俺に構わず通り過ぎてくれ。

だが、運命というのは皮肉なものだ。

 ひったくりの男は、最短距離を駆け抜けようと、俺の目の前を一直線に突進してきた。男の目は血走り、邪魔な老いぼれを突き飛ばしてでも強行突破する構えだ。

(来る——!)

その瞬間、思考が消えた。

 脳が命令を下すより早く、細胞に刻まれた記憶が、強制的に回路を繋いだ。

五十年近く前、血の滲むような稽古で叩き込まれた「殺陣」の呼吸。

 

 ひったくりが俺の肩にぶつかる直前、俺は半身に構えていた。

 杖を突いていた左手は、すでに自由になっていた。膝の痛みなど、神経の奥底に押し込める。

まず、左足。一歩踏み出し、男の進行方向を「壁」として遮る。

 驚愕に目を見開く男。

 俺は右手に持っていたビニール袋を、無意識に、しかし正確に男の顔面へ放り投げた。中身の豆腐と卵がクッションになり、視界を奪う。

「邪魔だジジイッ!」

 男が振り下ろした拳を、俺は首をわずかに傾けてかわした。レオンの第一話で怪人の攻撃を避けた時の動きだ。

そして。

「——はあッ!」

気合と共に、右の手刀が男の手首を打つ。バッグが地面に落ちる。

 続けざまに、左手で男の襟首を掴み、腰を落として、男の勢いを利用しながら円を描くように投げ飛ばした。

 柔道の投げ技ではない。カメラ映りを意識した、派手で見栄えのする、あの「レオン投げ」だ。

ドサッ、という鈍い音。

 ひったくりの男は、地面に転がり、何が起きたのか分からないといった顔で天を仰いでいた。

「ぐ、うぅ……」

 俺は、自然と男の背後に回り、腕を取り、膝で制圧していた。

 周囲が静まり返る。一拍置いて、ワッと歓声が上がった。

「すげえ! じいさん、強え!」

「誰か警察! 警察呼んで!」

俺はハッと我に返った。

 息が切れている。心臓が壊れたドラムのように胸を叩いている。膝が笑い、視界がチカチカする。

 なんだ、今の動きは。

 俺はただ、平穏に卵を抱えて帰りたかっただけなのに。

「……大丈夫ですか、お父さん!」

 被害者の女性が駆け寄ってくる。

 ほどなくして、パトカーのサイレンが聞こえてきた。


数時間後。警察署での事情聴取を終えた俺を待っていたのは、数台のテレビカメラと記者たちだった。

 どうやら、野次馬の中に『レオン』の直撃世代がいたらしい。SNSで「レオン降臨」「獅子堂烈がひったくりを撃退」というワードが爆発的に拡散されていた。

「獅子堂さん! あの見事な技は、やはりレオンの時のアクションですか?」

「現役時代と変わらぬキレでしたが、秘訣は?」

「一言、当時のファンにメッセージを!」

眩しいフラッシュ。向けられるマイク。

 本当は、こう言いたかった。

「たまたま身体が動いただけだ。膝は痛いし、卵は割れたし、散々な気分だよ。もう放っておいてくれ」と。

だが。

 レンズの向こう側にいるだろう、かつての「子供たち」の顔が浮かんだ。

 俺がここで、弱気な老人の顔を見せていいのか?

 彼らが夢中になったヒーローは、五十年の時を経て、無様な姿を晒すべきなのか?

俺は、無意識に背筋を伸ばした。

 樫の木の杖を、まるで聖剣のように脇に抱える。

 そして、かつての獅子堂烈が持っていた、不敵で、少しだけキザな笑みを浮かべた。

「……大したことじゃない」

カメラを真っ直ぐに見据え、低く、響く声で言い放つ。

「体が勝手に動いただけだ。悪を前にして、足が止まるようでは……レオンの名が泣くからな」

記者たちが「おおっ」とどよめく。

 俺はそれ以上語らず、一礼して、迎えのタクシーに乗り込んだ。

 ドアが閉まった瞬間、緊張が解け、激しい膝の痛みが襲ってきた。

「痛たた……。あー、無理しなきゃよかった。明日、絶対起き上がれないぞこれ……」

 シートに沈み込みながら、俺は誰に聞かせるでもなく呟いた。


翌朝。

 案の定、全身筋肉痛で布団から出られない俺のスマホが、けたたましく通知を鳴らし続けていた。

 恐る恐るニュースサイトを開くと、昨日の映像がトップニュースになっていた。

『伝説のヒーロー・レオン、現実でも悪を成敗!』

コメント欄には、溢れんばかりの書き込みがあった。

《動きが完全にレオンの第12話のやつ! 鳥肌立った!》

《もう70過ぎでしょ? あんなに足上がるの化け物すぎる。かっこよすぎ》

《「大したことじゃない」って……。あんなの、惚れるわ》

中には、鋭い指摘もあった。

《よく見ると、インタビューに答える時、獅子堂さん少し足震えてない?w》

《無理して格好付けてるのが見え見えなんだけど、そこがいいんだよな。ヒーローがヒーローであり続けようとしてる。その心意気が、一番かっこいい。》

その書き込みを見た時、不意に視界が潤んだ。

無理をしている。ああ、その通りだ。

 もう若くはない。体はボロボロだ。

 それでも、俺の中にいる「獅子堂烈」が、俺に背筋を伸ばせと命じる。

 それは滑稽で、無駄な抵抗かもしれない。

 だが、誰かが俺をまだ「レオン」として見てくれるなら、最後の一歩まで、俺はヒーローを演じきってやる。

俺は痛む体に鞭を打ち、ゆっくりと這うようにして布団を出た。

 台所へ向かい、冷蔵庫に残った、割れなかった方の卵を一つ取り出す。

今日から、またトレーニングを始めようか。

 とりあえず、近所の散歩から。

 ただし、変身ポーズを決めながら歩くのは、やめておくことにしよう。

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