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【短編】遠路の関

作者: 香坂くらの
掲載日:2026/06/02


 遠足なんて、楽しくもない。


 帰りのバスの中、僕の心は暗く、重く淀んでいた。

 眺める窓の外は朝の快晴がウソみたいに土砂降りで、窓に貼りつく雨粒が視界を遮っていて、それを眺めているとますます落ち込んでしまう。


 となりのあの子はソッポを向き、疲れたのか、すーすーと小さく寝息を立てている。

 あぁ。どうしてこうなったと悲しくなった。


 それにしても行きのバスは本当に楽しかったな。

 小気味いい揺れの車中で、握り合う手の温かさが夢心地だった。


◆◆


「なぁ、おまえら聖子と薬師丸、どっち派?」

「えー、薬師丸はよく知んないよ」

「あーオレは断然、薬師丸だな。映画観に行ったし。もー『カ、イ、カ、ン』ってな」

「ウソ、親よく連れてってくれたな」


 ……うーん。

 僕は高田みづえ、かな。歌が好き。『私はピアノ』なんてサイコーだ。


「センセー! 男子がエロ話してますー。女子同士で座らせてくださーい」

「うっせ、ブス。どこがエロいんだよ、耳遠いのかよ! 映画の話だろっ」


 今どき、クラスの女子の大半は、聖子ちゃんカット。僕ら小学生だって例外じゃない。

 もっとも、隣のこの子はショートカット、なんだが……。

 つい、グッと握り合った手に力が入ってしまった。


「どうかした?」

「いや、ごめん。なんとなく」


 するともう一方の開いてる手が重なって来た。僕ら二人のリュックがそれをうまいこと隠していて、誰も気づかない。


「ね。私はどっちとも似てないよねぇ?」


 何の話? なんて聞かなかった。もちろん彼女も周りのクラスメートの会話はぜんぶ聞こえてる。僕が強く握り返した手のワケを意識したんだろう。


「似てないね」

「――うんうん。で、それで?」

「え? えーと……」


 答えの代わりに僕は周りにバレないように、彼女のアタマをささっと撫でる。

 なにそれと言いつつ、ニカニカとカオを近付けて彼女が笑った。


◆◆


「えーダサッ、なにこれ? 【通行手形】って!」


 紅白に編んだ紐にぶら下がる、将棋の駒をバカでかくした形の木札。デンと表に【通行手形】と印刷してある。ペナントや提灯なんかと並んで、ご当地お土産の定番品だった。

 通行手形と書かれた脇に家内安全、開運招福とあり、きっとこの子の家族にも喜ばれ、密かに【恋愛成就】の文字も書き添えてあったのでこりゃ良いと、少ない小遣いで買って。せっかくプレゼントしたのに。


「こんなの持って歩けないよ」

「それじゃあさ。部屋に飾ってよ」

「やだよー。だからダサいんだって」


 カチンときた僕はそれきり、黙り込んだ。あとは彼女が何を話しかけて来てもムシ。

 女子の輪にも行かず、根気強く絡んで来たけれど、意地を張った僕はそれでも知らん顔。最後には向こうもへそを曲げて、ツンとしたままになってしまった。


 そしてその帰り。さすがに、


 ――このままじゃイヤだ。

 ――明日謝ろう。


 そう思い詰めた時だった。


 突然、バスの前部が横揺れし、ガクンと前方に沈んだ。瞬時にフロントガラスの雨粒を払い去った景色が、ドン曇りの空から山林の木々に変わる。

 激しい上下運動とともに、ジェットコースターの降下を思わせる恐怖が襲いかかり、クラスメートの、男女の別ない泣き叫びが耳をつんざいた。


 寝ていたはずの彼女と目が合った。震えて僕にしがみついている。僕は彼女の頭ごと胸に抱え込む。何としても守りたい一心で。

 でも、今にも悲鳴を上げそうだった。

 耐え切った原因は、彼女がこう叫んだから。


「カズくん! 酷い事言って、ごめんなさい!」


 表情は分からないけど、ただ、何度もそう叫んだ。

 何か気の利いた、格好いい返しをしたかったが、出来なかった。

 そんな余裕なんてなかったのと。


 ――そのまま、僕の意識が途絶えたせい。


◆◆


 湯浅美咲さんが来る日は、朝から落ち着かず玄関の方ばかり見る。

 まったくどうにも落ち着かん。

 つい張り切って立ち上がった瞬間に目前が眩んだ。


「おっとっと……」


 壁に手をついたまま、しばらく動けず。

 そう言えば昨夜は、夜中に三度もトイレに起きた。

 そのたびに、暗い廊下で自分の足音がやけに大きく響き、気になって眠れんくなった。

 おかげで寝不足気味。


「だがな」


 それでも心だけはそわそわ、弾む気持ち。

 七十過ぎのジジイのクセに気持ち悪い。大方の人間がそう思うだろう。

 だが、若者や夫婦者には分からんだろうが、それでも、誰かが自分を訪ねて来てくれるというのは、歳を取れば取るほど嬉しく、有難く感じるものなんだよ。


 そんな風に自己弁護しながら、儂は静かに息を整えた。


「カズさん。来ましたよー」


 玄関の扉が開く音がすると、思わず背筋を伸ばした。

 ……伸ばしたところで、腰がミシッと鳴る。アテテ。


「おお……美咲さん。今日も元気そうじゃの」

「そりゃあ。元気じゃないと仕事になりませんからねえ。はい、これ買ってきました。大ボトルの食器用洗剤。――あ、重いですよ、気をつけて」


 エコバックを渡すとき、美咲さんは必ず自分の手を相手の手にそっと添える。その細かな気遣いの温かさに胸がホッとする。


 ――思えばあの子も、そうだった。

 物を渡すとき、必ず手を添えてくれた。


「落としたら危ないでしょ」なんて、ちょっと生意気な口をききながら。


「カズさん、今日は洗濯して掃除して、あとは薬の整理をしますね。そのあとにお昼を準備しますから」


 仕事の段取りを説明するときだけ、美咲さんは少し早口になる。

 その早口が、少女の背伸びした喋り方をするときににそっくりで、思わず笑ってしまった。


「なんなんですか、急に笑って」

「いや……なんでもない。にしてもよう働く。儂なんてもう歳で……何も人の役に立たん」


 タメ息まじりに弱音を漏らす。最近やたらこういう言葉を吐いてしまう。

 美咲さんがピシリと言う。


「何を言ってんですか。歳とかそんなの関係ないですよ。カズさんはちゃんと自分で歩いて、話して、私相手に笑ってくれてるじゃないですか。それって普通にすごいことなんですよ?」


 叱られた。と言うか、こんなふうに励まされるなんて。思いもしなかった。はっきり物を伝えてもらったのはいつ以来だろうと考えた。


「……そうか」

「そうですよ。それにカズさん。案外、若いところがありますよ」

「そ、そうかい?」


 一体どういうところが?

 チラと洗面所の鏡に目を遣った。

 そういや歳の割に姿勢がいい……気がした。それに毛量もある方……かもだし、老眼……ながら、メガネに頼るほどには進行してない……いや、それは気のせいだな。

 うーん?


「ほんとです。だから『もう歳だから』は禁止です」


 そう言って眉を寄せる表情。わかったと言わざるを得ない。

 儂は急に【若いところを見せなければ】と妙な使命感に駆られ出した。


「わかった、美咲さん。今日は自分で掃除機をかける」

「えっ。いいですよ。急に無理しようとしなくても」

「無理じゃない」


 掃除機を引っ張り出す。だが掃除機をかけ出すとすぐに息が上がった。踏ん張って乗り切ろうとして大股になるが、本体のコードに足が絡まってコケかける。

 必死に堪えたが腰がグキッと鳴った。


「い、いててて……!」

「あーもおー! 言わんこっちゃない! カズさんってば……!」


 美咲さんは呆れつつも、どこか嬉しそうに笑っていた。

 その笑い方――左の口角だけが少し上がるクセ――がどうしても、昔の少女と重なってしまう。


「……ちょっとエエとこを見せようとつい……。すまん」

「もう……でも、そういう子供っぽいところ、イヤじゃないですけどね」


 そう言ってまた笑い、手際よく家事をこなしてくれた。そしてその合間にも、都度都度冗談を言って和ませてくれた。

 儂は、彼女の笑顔を見るたびに、胸が温かくなるのをはっきりと感じていた。


「さっき引っ掛けた足の具合はどうですか? それに腰は? まだ痛いですか?」

「いーや全然。もう何ともない」

「そうですか! あぁ良かった」


 安心したように背中を向け、家事を再開した彼女を眺め、ふと、窓の外に目を転じた。

 そして、ゆっくりと流れる雲に吐息する。


 ――あれから六十年以上経った。


 儂は事故後、丸二年間意識が戻らなかったようで、目覚めた時には勝手に中学に上がっていた。

 しかもそれからも長期入院を余儀なくされる。幾らリハビリを頑張ってもなかなか元通りの体に戻らず、中学卒業間際の年齢になってようやく退院にこぎつけたものの、高校受験の機会などとっくに逃していた。


 ただそれよりも儂は、退院後に真っ先にしたい事があった。

 あの、例の事故現場に赴く事。

 退院した翌日、早速儂は事故現場に向かった。


 あの事故。

 行方不明者は一名。それは彼女。

 その事を除けば、幸いにも、【怪我人は一名】しかいなかった事故。それでも儂にとっては約五年という月日は長すぎた。それにその歳月は、人の気持ちを散々弄んだ挙句に跡形もなく惨事の痕跡を消し去るのに十分な時間だった。世の中からしたら過去、そう言わんばかりに、あの事故を無情に風化させていた。


 それからも足繁く通ったが、居なくなってしまった彼女の手がかりなど、何ひとつ無かった。


 一体彼女はどこに行ってしまったのだろうか。

 自分の目で確認し、調べ、直に現実を突きつけられた儂は深く傷つき、失意の底に沈んだ。


 心を置きざりにした自分に戸惑っていると、やがて足早に進んでいく世間から取り残された。いまさら勉強にも友達にもついていけず、それからの儂の人生は、静かにしんしんと、孤独の淵へと追い込まれ、流れ過ぎていった。


 二十代。三十代。四十代。そして五十になり、六十を超え、とうとう七十になった。

 それでもずっと。

 あの少女を忘れられないまま、自分だけが息を止めたまま、時だけが淡々と過ぎていった。


 そして。


 儂は奇跡に出会った。

 その人は湯浅美咲と言った。彼女は訪問介護士、いわゆるホームヘルパーだが。


 初めは何も感じなかった。入れ替わり立ち替わり変わる、世話焼き担当の一人でしかなかった。

 しかしある時、彼女がこう言った。


「カズさんって、好きな食べ物は何ですか?」

「――は? 今何と?」

「あ、すみませんっ。カズさんってのは、あまりに慣れ慣れしかったですよね」


 カズさん……か。

 その時になって初めて、彼女の顔をまじまじと見た。


「昔……どこかで会ったりは、……無いですわな?」

「ええ? どうでしょうねぇ。白石さんとは、もしかして、何か謎めいた因縁があったりして。ふふ」


 年寄りの冗談と受け止めた彼女は、屈託なく笑いかけ自分も冗談で返して来た。だが当人には通じない。真に受けた儂は、年甲斐もなく、食い気味に答えてしまう。


「カズ。いやむしろ、そう呼んでくれ。お願いだ。頼むよ」


◆◆


「最近歩くのも面倒だ……。まあ、そういう歳だしな」


 病院からの帰り道、話し相手もないまま、独り言を赤々とした夕焼けに語りかけ、立ち尽くした。


 ――昨日、美咲さんが唐突にこう切り出した。


「白石さん……私、引っ越すことになったんです。夫の単身赴任先に、ようやく一緒に行けることになって」

「お、夫……!」


 あぁ。

 耳が遠かったら、どれだけ有難かったか。

 数秒間、沈黙してしまった後にようやく笑って答えることが出来た。


「おぉ、そりゃあ良かったな。それじゃあぜひ、引っ越しを手伝わせてほしいんだが。儂だって梱包前の食器洗いくらい出来るしな。ワハハ」


 無理矢理な申し出は、誰が聞いてもひっくり返った声だった。

 役に立てる事など思いつきもしなかったが、それでもどうにかしてこれまでの感謝を伝えたい。そんなバカな欲深かさが年寄りを口走らせた。


「随分世話になったからなぁ。せめてもの礼だ」


 いや。……違う。

 そうじゃないだろう。多分儂は、「これでサヨナラ」にしたくなかっただけなのだ。

 彼女からすれば、むしろ邪魔かもしれない。いや邪魔でしか無いだろう。

 なんと情けないし、恥ずかしい。

 未練がましくもあり、とにかくみっともない。


 しかし、儂は前言撤回の勇気が持てなかった。厚かましい親切で押し切った。未練がましくて結構だ。

 そんな男なんだよ、儂は。


 美咲さんは明らかに困惑気に「うーん」と唸って考え込んだが、やがて「そうですね」と頷いた。


「……まぁ、旦那も赴任先にいたまんまで戦力になんないし。……それじゃあ御言葉に甘えることにします。どうか頼みますね、カズさん。――あ、でも、くれぐれも無理をなさらないでくださいよ?」


◆◆


 引っ越しの当日。

 儂は一生懸命、手伝った。

 とは言っても、引っ越し作業自体は専門業者が受け持っている。

 儂もさすがに重い物を運ぶのは遠慮し、宣言通りキッチンに居座っての食器洗いに専念する。


「……ん?」


 茶碗に箸、湯飲み、マグカップ。ぜんぶ3つずつある。

 来客用……。違うな。

 ……あ、そうか。美咲さん、子供がいるのか……。

 そりゃ当然だろう。結婚してりゃ、子供がいたって不思議じゃない。


「ムリしてませんか? 休み休みお願いしますよ?」

「バカにするな。これくらい、なんてことない」


 なんと、落ち込んでいるらしい自分に腹が立った。ついぶっきらぼうに答えた。

 美咲さんは肩をすくめ、苦笑を残して引き下がった。


 その時だった。

 美咲さんと入れ違いに、二階から中学生くらいの少女が、沢山の本を抱えて下りて来た。

 危ないなと思ったのと同時にひた、と目が吸い寄せられた。


 黒髪を肩くらいの高さで結び、落ち着いた目をした少女。

 その目が儂を見るなり、わずかに揺れた。


 刹那。

 時間が音を立てて止まる。


 いや。止まったのでは無く。

 巻き戻った。


 六十年。

 その長い歳月のページが、まるで紙のようにパラパラとめくれ、風に舞い散るように。


 予告なく現れたのは、【あの日】のままの姿をした少女。少しだけ成長した……。


 胸の奥で、それまで吹き溜まっていた何かが、音も無く破裂した。


「ど……どうし……?!」


 声を出したかったが、喉がひゅっと縮んで息ばかりが漏れた。


「……っ……あ……?」


 それ以上続けられなかった。

 全身の震えと噴き出す汗。


 肩。指先。膝も。

 まるで、長い長い冬の奥底に沈んでいた身体が、急に陽の光に晒されたみたいにおののき、硬直した。


「ひっ」


 少女が後ずさる。一歩、二歩。そして反転。

 バサバサと、本の山を足元に落とし。


 再び階段を上がろうとする。


 ――待ってくれ!


 そう絞り出したい。でも出ない。

 おまけに足も。まだ、ちっとも動かない。


 突如、有無を言わさず放免された囚人の様。

 無期刑で長年拘禁されていた男が、諦めた心の果てに重い牢獄の扉を開け放たれて「出ろ」と言われ。

 どうしろと言うのか。


 とにかく、急く気持ちだけが必死に少女へ伸びていく。


 だが。

 少女は背を向けてしまった。

 その顔には恐怖しか浮かんでいないように思えた。

 儂とは真反対の反応だ。


 儂は。

 そのおかげで正気を取り戻した。

 あぁ。遂に儂はおかしくなってしまったのだ。結局、美咲さんに迷惑をかけてしまっただけだ。


 すると踵を返したはずの少女が、儂を二度見して止まった。


 三度目に、今度はゆっくりと振り返った少女が、儂をじっと見つめる。

 その、彼女のわななく視線に、儂の胸がまた変な騒ぎを始めた。


 どれくらいの時間か。

 長い間、少女は儂を凝視した。


 縋る気持ちを堪えながら。やっと喉の動きを感じながら。儂はようやく息を吸いだす。

 そして、口を開く。


「……(はるか)……か……?」


 少女の目が大きく開かれた。


「……なんで……。どうして……」


 さっきの儂のセリフをそのまま呟く。

 その、少女の声を聞いた瞬間、儂はガクガクと膝を崩した。


 あぁ。あぁ。……良かった。

 ――生きてくれていたのか。


「あうぅ……。ああぁ……!」


 近付く少女の姿が歪み、滲んで、視界がゆっくりと斜めに揺れた。

 おぼつかない背中に、そっと当てられた手のぬくもりが心強かった。


「この椅子に座って。ちょっと待ってて」


 少女がドタバタと。二階に駆けて行った。


◆◆


 落とさないように慎重に。

 そう思いながら階段を降りると、キッチンにお年寄りがいた。


 唐突!


 美咲さんから聞いてはいたけれど、まさかこんな風に鉢合わせするとは思わなかった。

 だって二人暮らしの家に、知らない他人が急に居たらフツー驚くでしょ。


 さすがに失礼だと思ったし、悲鳴を堪えただけでも良しとして欲しいところ。


 だってしかも、その人の手元を見ると、私のお茶碗を持っていたし。

 何……この人?! ってなったわけで。


 ゾクっとして腕と膝がブルッとした。

 この人、ジッと私を見たまま、固まってるし、何か怖い!


 お年寄りはゆっくりとした足で、まるで古いロボットが急に動き出したみたいに、私のほうに近付いてきた。


 混乱した私は、抱えていた物を床に……置けずに、全部投げ出すようにすべり落とした。

 もうそんな事、どうでもいい!


 理由なんて分からない。

 ただ、目の前のお年寄りの目が、私を見たまま動かなくなって。

 その目から私も逃げられなくなった。

 本当にどうしてか。


 その人の肩が震えだす。

 指先も、膝も。顔全体まで震えだして、それを見てると私は頭が混乱しだした。


「……っ……あ……」


 何か言いたいらしい。私に。

 なのに声が出せない感じ。私たちの間で、時間が止まった感じ。

 不思議で。

 怖い。

 さっきと違う怖さ。

 知らない人なのに、どうしてこんなふうに。


 胸がざわざわして、息がうまく吸えない。


 とにかくこの場から離れよう。

 この人から逃げなきゃ。


 そう思ったとき、後ろで足を擦るような音が聞こえた。

 右足をかばってる。少し外側に向けて踏み出す歩き方。


 ……え?


 手を伸ばしてるお年寄りの目元が。

 困ったときに眉を寄せるクセが。


 知っている記憶が。


 胸の奥に何かが、ゆっくり浮かんでくる。

 まさか。


 ――カズくん?


「……(はるか)……か……?」


 老人の声が私の名前を呼んだ。

 かすれていて、小さくて、自信なさげな問い掛けが。

 それなのに確かに、しっかりと私の耳に届いた。


 ――あの頃と同じ呼び方が。しっかりと届いた。


「……なんで……。どうして……」


 ふと、お年寄りが号泣していた。

 大人でもこんなに泣くものなのか。


 よろけた彼を慌てて支えた私は、とにかく傍の椅子に座らせると、『あれ』を取りに部屋にダッシュした。

 彼の目は、まるでお祈りするみたいに私を見つめていた。


「――これ、通行手形! 憶えてる? 遠足でくれたヤツ」


◆◆


 通学カバンにぶら下がった遠足のお土産は、いかにも古臭く、いかにも不格好に、元気に揺れていた。


 (はるか)は「ニッ」と、とても嬉しそうに、歯を剥きだして儂の手を取った。

 皺の寄った手に温かなぬくもりが確かに伝わった。


 長い長い小学五年の遠足が、ようやく終わった気がした。


◆◆


「うちの子と……何かあったんですか?」


 心配げな美咲さんの横で、全部の皿を詰め終わった段ボール箱を持ち上げた儂は首を振った。


「あの子……部屋に籠城して『引っ越したくないって』駄々をこねるんですよ。理由を訊いたら。……カズさんと離れ離れになりたくないって。いったいどうたってのかしら」

「――儂ゃな。それこそ何度も何度も現場に足を運んだ。どんな手掛かりでもいい。とにかく必死になって生きていたあの子の痕跡を探した」

「? ……何の話をされてます? カズさん?」


 引っ越し業者に段ボールを預け、トントンと腰を叩く。


「実に長い、本当に長い旅だったよ。あの子に、ジジイはまだまだ死なんからと、そう伝えてくれ」


◆◆


 ――遥は、今までの経緯を話してくれた。


 事故の直後――彼女は、六十年先の未来に。見知らぬ街に。

 たった独りで立っていた。


 オロオロと彷徨う中、警察に保護され、児童相談所に連れていかれ。

 そこで何度も身元を尋ねられたらしい。


「生年月日は、昭和五十年五月……。遠足の帰りに事故に遭って……気づいたらこの街に」


 だが。

 何度説明しても、当然ながら誰も信じん。

 彼女の言う住所に家など存在せず、話した両親は、もう何十年も前に病気で亡くなった故人だった。


 第一、彼女が本人だと言い張る人間は七十歳をとうに過ぎた老人のはずで、しかもその人物は幼少期に行方不明になっている。


 更なる追及をされた遥は覚ったらしい。

 見知らぬ未来に来てしまった事を。

 たった独りになってしまった事を。


 遥も、儂が事故の時に手を離したばかりに、孤独の世界へ投げ出されたわけだった。


 警察も、児童相談所の職員たちも、遥の証言を、何らかの事故に巻き込まれたことが原因の「記憶の混乱」だと結論づけた。

 タイムリープなど、ファンタジーの中だけの非科学な妄想。そんな推測をする者などいない。

 心無い者の中には彼女の悲嘆は芝居だ、単なる家出少女の虚言だと一蹴する者もいたらしい。


「私。髪の毛取られてDNA鑑定? とかまで受けたのよ。なのに『科学的に説明がつかない』って。結局最後は『戸籍上存在しえない人間だ』って説明されたわ」


 それでも遥は、泣きもせず、怒りもせず、大人たちが下す処断に従った。

 ただ一点、儂があげた、妙にでかい通行手形をグッと睨みつけながら。気丈に。健気に。


 その姿を見ていた美咲さんの夫――児童福祉司の彼が声を上げた。


「あの子は嘘なんてついてないと思う。施設行きの決定は早計過ぎます。身元が分かるまで、何なら湯浅家で預かります」


 美咲さんに相談した彼は、二つ返事で彼女から快諾を得た。


「うちに来なさい。大丈夫。私がいるから」


 その後、美咲さん夫婦の里子になった遥は、未来での新しい人生を始めた。


 そんな遥が、再び儂の前に現れた。

 あの日のままの姿で。


「私だって随分探したのよ。でももう、会えないのかなって……」

「再会のときに落とした参考書の間に、スクラップブックがあったな」

「あれ、見たの?」

「……あぁ。遥のご両親と儂がビラ配りしている新聞記事とか、の」

「お父さんとお母さんのお葬式にも来てくれたんだよね。めちゃくちゃ小っちゃな記事だけど、載ってた」


 儂はご両親にも固く誓っていた。

 絶対に遥を見つけます、と。

 なのに。


「済まん。御両親に会わせてやる事が出来んかった」


 首を振る遥。

 その瞳に、胸が締めつけられる思いがした。


「……よう、頑張ったな。遥」

「カズくんだって……」


 泣くなよ、儂。

 泣くなよ、遥。


 腹に力を込めた瞬間、腰がグキと鳴った。


「お、いてて……」

「……やだ……」


 歪みかけた目で遥が笑う。

 儂も口角を精一杯上げた。


「もういなくなっちゃイヤだよ、頑張ってよ」

「儂だって。やっと会えたのに……。いなくなりたくないぞ」

「……ごめんね。私はここにいるから。もうどこにも行かないから」

「おぉ。もうどこへも行くな」


◆◆


 とは言え、現実的に彼女はまだ中学生の分際。

 今は親の引っ越し先へ着いて行くしか選択肢が無い。

 それはどうしようも無い。


「中学を卒業したら……会いに行きます。絶対に」


 余りの真顔に思わず苦笑した。


「おー。それまで頑張って長生きする」


 クッと悔しそうに腕組みし、考え込む遥。


「そーだ、LINEするから! 毎日!」

「スマホかあ。悪いが、手紙か電話で勘弁してくれ」

「わかった、じゃあ、毎日電話します。ウザかったら言ってね」

「ウザいわけ、あるかい」


 それからの遥との電話でのやり取りは、はっきりと儂の人生の生きがいになった。


「ねえねえ、今日ちゃんとご飯食べた?」

「リハビリ行った? 行ってないでしょ!」

「カズくんおじいちゃん、なんだか声が元気ないよ?」


 昔の彼女そのままの、気さくで優しい声。

 儂は電話を切るたびに笑い惚けた。


 そーいや、半年前に医者から言われた、老化が進行している話をふと、思い出した。


「……そう簡単に死ねるかい」


 今回、薬を貰いに行くと今度はこう言われた。


「……いや、驚きました。体力測定の数値ですが、格段に向上してますよ!」


◆◆


 中学卒業の翌日。

 遥が家のインターホンを鳴らした。


「来ましたよ。約束通り」

「おうおう。よく来たな、ずっと待っとったぞ」


 グスと鼻を啜る遥。


「死んだらどうしようって思った……」

「死ぬかい。縁起でもない。儂は生きるって決めたんだ。なので、生き続ける」


 何それと笑った彼女は、美咲さんから教わったばかりらしい、年寄り向けの料理を作り始めた。はずが、立てたスマホ画面には、高血圧やら血糖値やらの文字が強調されたレシピ動画が踊っている。


「色々研究してくれたのは有難いが、ちと情報が多すぎじゃあないか? 一体何を作るつもりだい?」

「美咲さんのレシピ通りに作るのはあまりに悔しいから、私なりにアレンジするの。ちょっと黙ってて」

「……おうおう。それは有難い事だ」

「それより、ちゃんと病院行ってる? 薬飲み忘れてない?」


 まるでジジイと孫の会話。

 それが、この上なく楽しい。


「高校の入学式は来月だし、春休みの間はしっかりと介護したげるから感謝してね」


 ん?

 何か、癪に触るな。


「儂ゃ、まだまだ若い! 侮るな」

「春からもまた毎日、電話するから」

「……儂の返し、無視か」

「私も七十過ぎですから耳遠いのかも」

「あーそうかい」


 彼女の、腰から垂らした通行手形を眺めつつ、儂は目を細めて畳に胡座をかいた。

 そんな儂に振り返った遥は、その通行手形を両手のひらで包み込み、にっこりと微笑むのだった。


 ――了――

前からちょびちょびと書き進めていた物でしたが「いい加減に完結させなきゃ」と奮起して完成させました。地味な物語ですが終わらせることが出来たのでじゅうぶん満足です。

ホントはもう少し暗い展開になるはずでしたが、やっぱり書けなかった。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。



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