第1話:港の小さな異変
港はいつも、薬の色と潮の光が混ざり合っていた。
小さな薬箱の蓋を開けると、そこには世界の半分ほどの事情が整然と収まっているように見える。量り、刻み、煮出す。順序を誤れば薬は薬でなくなり、順序を守れば人を救う。
私は、少しだけ順序を誤った人を見ただけだった――それが事件の始まりだった。
「雫、ちょっと来てくれ」
父の声に促され、私は店の奥へ歩いた。棚には乾燥薬草、ガラス瓶、すり潰された粉末が並ぶ。
「これ、今日入荷の薬材だ。珍しいものもあるが、扱いには気をつけろ」
箱を開けると、中には色とりどりの粉と液体が並んでいた。赤い結晶、淡緑の粉、黄金色の液体――それぞれが独特の匂いではなく、色と粘度で存在感を主張する。
「量を間違えると、飲んだ人は吐き気や発熱、最悪の場合、命に関わる」
父は真剣な目で説明する。私は頷き、さっそく量りを手に取り、粉を秤にかける。
その日の夕刻、港に来航した王都の使節団が、突如倒れたとの知らせが入った。
「症状は……高熱、関節痛、全身の倦怠感……ただの流行病ではないかも」
港の衛生係は慌てていた。私は父の手を借り、症状の詳細を聞き取りながら、心の中でチェックリストを作る。
発症のタイミング
共通して摂取したもの
倒れた順番
症状の進行速度
目の前の症状はただの疫病ではない。微妙に異なるパターンが見える――巧妙に仕組まれた“薬の痕跡”がそこにある。
「雫さん、ちょっとよろしいですか?」
声の主は、港町で噂の海商・柳だった。情報網を持ち、船ごとの荷物や人物の動きを把握している。
「使節団の医療記録を見せてもらえませんか?」
柳はうなずき、古い羊皮紙を手渡した。文字や符号に混じる薬の名――私はすぐに気付いた。これ、王都由来の特殊な調合の痕跡だ。
「面白くなってきたな」
思わず呟くと、柳が笑った。
「港の薬師さんは、いつもそんな顔をするね」
だが、この“面白さ”は甘くはなかった。港の交易ルートに絡む薬の秘密が、王都の権力構造に繋がっている。私の推理は、この小さな港町から、大きな陰謀へと向かう第一歩にすぎなかった。
港町の夕暮れが、静かに波打つ。
私は薬箱を閉じ、明日の朝に備えた。
王都の毒は、まだ私の知らぬ場所で動いている――その影を、港の薬師は見逃すわけにはいかない。