異世界の訪問者【3】
男性の威嚇は驚く程、効果抜群だった。
見事に走り去って行ったキッシュに、長身の男性は軽く舌打ちする。最初から素直に従ってくれれば、此方の体力も温存出来るのにと、心の中で悪態をついた。
口にしていた煙草を手に取り握り潰すと、地面に座り込んでいたアサトの元へ足を向ける。
アサトの目の前まで来ると、長身の男性は、視線を合わせるように腰を屈めた。
「……おい、ガキ」
「は、はいっ!?」
サングラス越しの鋭い眼差しに、アサトは何かされるのではないかと思わず身構える。それを見た長身の男性は小さく、フンと鼻を鳴らした。
「そう怯えんでもいい。お前には何もしねぇよ。ガキ、名は?」
「あ、アサトです。アサト・クジョウ」
「アサトか。オレはホヴィス。ホヴィエンド・リドル・スヴァレー」
「……えーと、ホヴィエンさん?」
長い名前を覚えるのが苦手なアサトは、男性の名を上手く聞き取る事が出来なかったようだ。ホヴィスは口端を緩く上げると、軽く手を振る。
「ホヴィスでいい。長い名前は、好きじゃなくてな。あと敬語も止めろ。呼び捨てで構わん」
「はい。……じゃなくて、うん」
「良い子だ。よし、怪我した方の手を見せろ」
アサトは男性――ホヴィスの言葉に軽く首を傾けるものの、言われた通りに手を差し出した。
受け取るように触れたアサトの左腕を、ホヴィスは遠慮する事無く強く握り締めた。
「……いっ、だああぁっ!?」
「痛いだろうが、我慢しろよ」
そう言ってホヴィスはアサトの負傷した腕を更に握りしめる。傷口からは血が滲み出し地面へと滴った。ホヴィスはその傷口を何度か見て、サングラスの奥にある目を緩く細める。
「……どうやら、銃弾は入り込んでいないようだな。毒もない」
手首に巻いていた布を解き、口と手を使い軽く引き裂いた。そして、それを止血の為に左腕の傷口に手早く巻いていく。
痛みに耐え、朦朧としていた意識でアサトはホヴィスを見据えた。最初に芽生えていた恐怖心は今は無い。初対面だというのに、怪我の手当てをしてくれる彼は一体何者なんだろうか。
「あ、ありがとうございます」
「……敬語」
「あ。違っ! えと、ありがとう!!」
「フン。面白い奴だな。ほら、足も出せ」
「うん」
思考とは裏腹に口から出たのはお礼の言葉だった。疑問には思うが、今は治療が先だろうとホヴィスの指示通りに右足を彼に預ける。
だが、やはり疑問は疑問で息を吐くのと同じようにそれは外に吐き出された。
「……何で、俺の手当てをしてくれるの?」
やんわりと降ってきたアサトの問いに、ホヴィスは治療する手を止めた。そして、自分を見つめるアサトを真っ直ぐに見据える。
見つめ合う事、数分。沈黙に耐えきれなくなったのか、アサトはぎこちない笑みと共に軽く右手を振った。
「いや、あの、別に、手当てしてもらうのが嫌とかそういうんじゃなくって……。えっと、その、どうして……」
聞きたい事は山程ある。あの小猿の事や、軍人達が襲ってきた事、ディバスリーという言葉。そして、光輝く不思議な鍵。
分からない事だらけなのだ。何が起きているのか何が起こったのか。一体、軍人は何の為に行動していたのだろうか。
ホヴィスなら知っているかも知れない。そう思って口を開いたのはいいが、どうやって聞けばいいのか。質問が、言葉が、上手く繋がらない。何かを言おうとして、項垂れ黙り込んでしまったアサトにホヴィスは息を吐いた。
「知りたいんだろ?」
「え……」
「何故、こんな事になったのか分からないって顔しているぞ」
「うん、あの……」
今なら言えると確信したアサトは、息を吸い込み口を開く。が、それはホヴィスに手で制された。
「話せば長くなる。悪いが、先ずは怪我の応急処置が先だ。良いな?」
有無を言わせないホヴィスの言葉に、アサトは黙然と頷くしかなかった。
夜の帳が辺りを包んでいく。
始まりの音が少しずつ近づいて来ていた――
◇◇◇
周囲は既に闇に包まれ、灯りが街を照らす時間だ。だというのに、アサトが一向に帰ってくる様子はない。
一体、どうしたというのだろうか。
リテアは深々と息を吐いて、リビングにあるソファへと目を移す。其処には水色の髪をしたあの少女が横になり、寝息を立てていた。
あの後、リテアは少女を連れて自宅へと戻ってきた。少女の身元が分からない以上、病院にも何処にも連れては行けない。という訳で無難な自宅へと連れ帰って来たのだが。
「全っ然、目を覚まさないんだよねぇ……」
あれから数時間は経つというのに、少女が目を覚ます様子は見られない。珍しい金色の瞳を隠すかのように、瞼はしっかりと閉じられていた。
(ちょっと、まさか、このまま、目を覚まさないなんて事は……)
「な、ないよね、うん」
意味の無い自問自答を繰り返しながら、リテアはソファに近付き、少女が眠る反対側のソファへと腰掛けた。
少女の姿を見る度に首を傾げてしまう。あの時、何を言おうとしていたのだろうか。顔を見て、とても驚いていたような気もする。
(……うーん、何であんな反応されたのか全然分からないんだけど……)
リテアの疑問に答えてくれる者は誰もいない。この少女が目覚めない事には何も分からないまま。無駄に時間が過ぎていくだけだ。
自然と溜め息が漏れる。リテアがそのままソファにもたれかかろうとした時だった。
『……срк……』
微かな息と共に、吐き出された小さな呟きにリテアは慌てて顔を上げる。視線の先には、待ち望んでいた少女の金の瞳があった。
「良かった! 目が覚めたのね。気分はどう?」
『живб……?』
やはり、言葉が通じない。少女もリテアの言葉が分からないのか、首を傾げている。
言葉が伝わらなくては意志疎通の仕様が無い。どうしたものかとリテアが腕を組んで考え始めた時、リテアの額に少女の手がゆっくりと伸びてきた。
「えっ、何!?」
前触れもなく触れた小さな手。それに戸惑うリテアに少女はにこりと微笑みを返し、耳に入らない程の声量で何事か呟いた。すると、リテアの頭に金属音のような音と痛みが全身に走る。
「いっ!?」
我慢出来ない程の痛みではない。身体中を駆け巡ったそれは少女は手を離したと同時に、ピタリと止まった。ソファから上体を起こし、リテアに視線を向けると少女は再び言葉を紡ぐ。
『……私の声が、聞こえますか?』
「あっ! えぇっ!?」
リテアは驚きの表情で少女を凝視する。先程まで全く理解出来なかった少女の言葉がすんなりと理解できたからだ。自国の言語、とはまでは言えないが近いニュアンスに聞こえる。
不思議そうに何度か首を傾けた後、リテアは再び少女へと視線を戻した。
「どうして、急に分かるようになったの?」
『貴女の脳に、私の言語を教え込んだのです。言葉が通じなければ、話すら出来ませんから』
少女は音も無くに立ち上がると、スカートの両裾を持ち上げ一礼する。
『この度は助けて頂き、有り難うございました。私は、ヴァーチェといいます』
少女――ヴァーチェの丁寧な挨拶に、リテアはギョッとして慌てて両手を強く振った。
「いっ、いやいや! そんな畏まらないで!! アタシは当たり前の事をしただけだし。困った時はお互い様、でしょ?」
『でも、貴女のお陰で怪我せずに済みましたし。お礼を言わずにはいれませんよ。そうだ、お名前は何と?』
「リテアよ。リテア・クジョウ」
『リテアさんですね。本当に助かりました。有り難うございます』
再び深々と頭を下げると、ヴァーチェは困ったような表情を浮かべ小さく息を吐いた。
『友人と逸れてしまい必死に捜していたのですけど、あの方達に絡まれてしまって……』
「あー、成程ねぇ」
地理も分からない上に言葉も通じない。しかも年端もいかない、可憐な少女。奴等にとっては格好の良い獲物だっただろう。
「アイツら、日頃の鬱憤とか何だの言って悪さばかりするから……。って、ちょっと待って。友人を捜してるって言った?」
『はい……』
ヴァーチェはソファに座り直すと、記憶を辿るように首を軽く横に傾ける。
『この世界に来た所までは良かったんですけど、ちょっとしたトラブルがあって離れ離れになってしまったんです。今、何処にいるのか……。無事だといいんですけど』
友人である相手の事を心配しているのか、ヴァーチェは表情を曇らせ両手を握り締めている。それを一瞥しリテアは同じように眉を下げ、ヴァーチェの苦労を労うように頷きを返していた。
「そっかそっか。色々と大変だったんだね。……って、んん?」
リテアはヴァーチェの言葉に引っ掛かりを覚え、その動きを止めた。
(……ちょっと待って。聞き間違いかな。今この世界って聞こえたんだけど)
普通、街の外から来た人間ならこの街と表現する筈だ。しかし、ヴァーチェは何の躊躇いも無く平然とこの地をこの世界と表した。
リテアの思考はある1つの結論に辿り着く。
「ね、ねぇ、ヴァーチェ。貴女は、もしかして月から来たの?」
――そう、月だ。月の住人ならば、こちらを1つの世界と位置付け、口にしてもおかしくはない。月とこの璃球。それぞれ独立した1つの世界なのだから。
だが、ヴァーチェから出た言葉はリテアの予想を遥かに超えたものだった。
『……ああ、すみません。実は、私はえヴァルスケーヴィという所から来ました。この世界ではない、数ある世界の星の1つから』
「……は?」
人間、誰しも驚くと言葉を上手く発せなくなるらしい。聞き慣れない単語に眉を寄せ、漸く紡げたのはたった一言だけだった。
(……ヴァルスケーヴィ? って、聞いたこともない地名。そんな街聞いた事も見た事もないわ。しかも、何なの。この世界じゃない世界? それって……)
アサトから聞かされる、話の中によく出てくるアレだろうか。リテアは眉を寄せたまま、ヴァーチェを見据えた。
「い、いわゆる、異世界から来ましたーって、こと?」
『まぁ、簡潔に言えば、そういう事になりますね』
頬に軽く手を当て、ヴァーチェは苦笑を溢した。そして何処か切なげにその瞳を細める。
『私達はある目的の為、各地を転々としているんです。全てを元に戻す。それがあの方の、マスターの願いだから……』
見た目の幼さとは違い、その声はしっかりとしていた。ヴァーチェは余程の覚悟を持ってここまで来たのだろう。彼女のことをよく知らないリテアもそれは直ぐに分かった。
「来た理由は分かったわ。……で? その友人とは連絡つけないの? この街、意外と広いから連絡取れないと苦労するよ」
リテアの言葉にヴァーチェはハッとしたように立ち上がるが、ある事を思い出しそのままソファに腰を下ろした。そして、小さく息を吐く。
『あるにはあるんですけど……。あれは、あの子がいないと役に立ちません』
「あの子?」
『はい。小猿のキッシュ。あの子と鍵を介してなら、何とかなったでしょうが……』
そう言ってヴァーチェは懐から小さな鍵を取り出した。緑に淡く輝く不思議な鍵。それを掌に乗せ、リテアにもよく見えるように目の前へと差し出す。
目の前に差し出された鍵を見たリテアは妙な違和感を感じた。
心が騒つくというか、胸がジンと熱くなる。その感触を確かめるように胸元を手で押さえる。
(……何なの、この鍵をアタシは知ってる……?)
戸惑いを浮かべるリテアの様子に、ヴァーチェは心当たりがあるような表情を見せる。そして、鍵を乗せた掌をもう片方の手で強く握り締めた。
『……とにかく、この鍵とあの子が共にいないと意味がないのです。あ、でも、彼が鍵を持っているのなら――』
ドォォォンッ!!とマンションが揺れる程の地響きに二人は息を呑む。突然の轟音に驚きながらも、リテアはベランダから出て現状を確認しようと駆け出す。
状況はよく分からないが、見た所、此処から随分遠く離れた路地街で煙が上がっている。どうやら巨大な爆発が起きたようだ。
「ああー、もう。一体何なのよ……」
アサトも帰宅せず、非日常な事ばかり起きると流石のリテアもぼやかずにはいられない。
そんなリテアの呟きを聞き流しながら、ヴァーチェもベランダへと足を伸ばす。気配を探るように、煙の出ている方をジッと見つめていると、次第にヴァーチェの表情が青ざめていく。
『……ッ、ホヴィス!』
ヴァーチェは軽く首を振ると、ベランダの柵に手を掛ける。
煙の立ち込める方角へ目を向けていたリテアも、ヴァーチェの動作が視界に入り、慌てて声を上げた。
「え? ちょ、何を……!?」
次の瞬間、ヴァーチェは躊躇う事なくベランダから飛び降りた。
「うえぇぇっ!? 此処、12階だってばっ!!」
リテアが階下を覗き込むとヴァーチェは難なく下へと降りていた。地面に激突する事もなく、風に乗るようにフワリと着地する。乱れた衣服を軽く整えると、そのまま煙の上がっている方へと走っていった。
それを半ば呆然と見送っていたリテアは、理解出来ないと言わんばかりに目を数回瞬かせた。
「あ、有り得ない……」
この高さから飛び降り、無傷のまま走っていくなんて人間には出来ない所業だ。半信半疑だったが、ヴァーチェが異世界の人っていうのは本当の事なのかもしれない。
先程まで言葉も何も通じなかった。何より、彼女は見たこともない金の瞳を持ち、不思議な服装をしている。
様々な思いが頭をよぎるがどう判断して良いものか。リテアの脳内では、既に処理出来ない次元へと踏み込んでいた。
リテアは眉間に皺を刻むと深々と息を吐く。兄貴ならこの状況を喜ぶかもしれないが、リテアにはそんな余裕は一切ない。
アサトのこと思い出し、リテアの脳裏に嫌な予感が過る。
「……まさか……」
まさか、あの爆発にアサトも関わっているのではないだろうか。普通なら帰ってきている時刻だというのに何の音沙汰もない。いくらなんでも遅すぎる。
兄貴のことはそんなに好きじゃない。何かに巻き込まれようと自業自得だと、無関係を装いたい。
――――だけど。
「いないと困るしねぇ……」
リテアは何かを決意したように顔を上げ、ベランダから部屋へと戻る。そしてソファに置いていた上着を取り羽織ると、勢い良く部屋を飛び出した。
詮索するのは後でいい。まずは自分の目で何が起きたか確かめないと。
そうでなければ、何も分からない。
漆黒に浮かび上がる、1つの月。
その月明かりに導かれるように、リテアは歩調を早めた。