忘れ物の君を思い出す
思い出の手紙を基にサイクリングするテレビ番組があって、そこで読まれるようなエピソードとして考えました。
夫が亡くなって、もう五年になる。
家の中は静かで、季節の移り変わりもどこか遠い。最初のうちは、時間が止まったようだった。でも不思議なもので、人はどんな寂しさにも慣れてしまう。今では、一人の生活に穏やかさすら感じている。
夕方、買い物帰りに公園のベンチに腰掛けた。風がやわらかく、若い親子が笑いながら通り過ぎる。そんなとき、不意に高校時代のあるクラスメートを思い出した。
ちょっと変わった、でも妙に印象に残る男の子だった。
最初は、見た目だった。細身で、色白で、前髪が少し長くて、よく教室の窓側にひとりで座っていた。メガネをかけていて、黙っているとすごく頭が良さそうに見える。実際、成績も悪くなかったけれど、どこか不器用なところがあった。
皆と一緒にいても、声を上げて笑うことは少ない。ただ、少し遅れて笑う。輪の中にいても、ひとり離れた場所にいるような、そんな空気を纏っていた。
私は、なぜか彼のことが気になって仕方なかった。
「ねえ、遠足の班、替わってくれない?」
「え?どうしたの急に?」
「ちょっと…気になる人がいて…」
「うわ、そういうこと? じゃあ応援しちゃう!」
そう言って友人が笑いながら協力してくれたのを覚えている。彼と同じ班になり、歩くときはちゃっかり彼の隣をキープした。だけど結局、私はほとんど何も話せなかった。
心臓の音ばかりが耳の奥に響いて、声をかけるタイミングもわからなかった。
──あのとき、何を話せばよかったのかな。
チャンスはすぐやってきた。席替えだ。
「悪いけど、わたし目が悪くなってきたんで席を交換してもらえないかな?」
他にも席はあるけれど、もちろん彼のとなりの席が割り当てられた子に声をかけた。
「えっ! ラッキー! こんな前の席じゃ先生の目が届いて嫌だったんだ。ありがとう」
そんなふうに快く席を譲ってくれた友人に、今でも感謝している。
となりの席にはなったものの、彼はもの静かで、しゃべれる感じじゃなかった。
ちらちら横目で見ても、あっちは授業中は授業に集中、休み時間は自分の友人と話している。
分かってはいたもののちょっとじりじりした思いだった。
しかし、チャンスはやってきた。
彼が教科書を忘れてきて、私に声をかけてきた。
「ごめん、教科書忘れた。見せてくれる?」
「え、本当?」
「うん、しょっちゅうどこか抜けるんだよね、俺」
「……しょっちゅうなの? これで何回目?」
「うーん、カウントしてないけど…すいません…」
落ち着いてしっかり者だと思っていたのはうわべだけだったらしく
ほんとはうっかりしているみたい。
なんだか頼りないところが気になった、余計に。
毎日のように、どこかの科目の教科書を忘れてくる彼と、自然に並んでページをめくるようになった。
気づけば、授業中も休み時間も、よく一緒にいた。
実は頭は切れる方のようで、彼は数学や理科になると、とにかく先へ進みたがる。
「ちょっと、まだそこまで進んでないよ」
「いや、おもしろいし、つながりがあるからまとめてみた方がわかりやすい」
「そうかもしれないけど、勝手に先生の授業より進むのやめて」
「うーん、じゃあいったん戻ります。すみません」
教科書を見せてもらっている立場で勝手なおっしゃる。
もう教科書の内容はそっちのけで、私は苦笑しながら彼を見ていた。
英語は苦手だと言うので、ノートを見せてあげた。
そして授業のポイントを教えてあげた。
「ここね、関係代名詞の使い方がポイントだから」
「ふむふむ…ありがと」
「教えたからには、私より点とっちゃだめだからね」
「無理無理、君、めっちゃ賢いし」
……なのに、彼はテストで私より上の点数を取る。
「なんで! 私が教えたのに!」
「先生がいいからじゃない?」
「うまいこと言ってごまかさないで!」
笑い合うその時間が、今思えば、一番たのしかった。
高校を卒業して、それぞれ別の大学に進学した。
ある日、大学近くの街を歩いていたら、向こうから見覚えのある姿がやってきた。
「え……」
「……あ」
「ひさしぶり」
「うん、元気そうだね」
なんとなく同じ方向に歩きながら、いろんな話をした。
内容は覚えていないが、楽しかったことだけは覚えている。時間はあっという間に過ぎていった。
「また今度会おうね」
「どこに行きたい?」
「動物園」
(はあ)と思いながら、この美女と動物園とは何者じゃと思った。
動物園は結構楽しめた。
彼はめちゃめちゃ詳しかった。
「ライオン、ライオン、大型のネコ科で唯一家族生活。赤ちゃんはヒョウ柄のライオンです」
「ハイエナ・・・群れで狩りをするし犬みたいに見えるけど実は猫の方が近い」
「チーター・・・遺伝子解析をすると実は200頭ぐらいまで減ったと推定で来て、生きているのはみんな親戚状態」
「カピバラ・・実はヤマアラシに近いので毛が針みたいになっていて触るとすごく硬い」
「これはアミメキリンでおっぱいがついているのがすごく高いところ・・・」
やっぱり、私が美人なの分かってないのか、変なことまでうれしそうに話す。なんだかおかしい。
そこからまた何度か会うようになり、日常のできごとを話し、歩きながらコンビニのアイスを半分こして、映画を観て、時には駅のホームで電車が来るまでずっと話していた。
映画を見に行った時には思い切って彼にもたれてみた。心臓はバクバク、映画の内容は入ってこない。
でもそれだけだった、明かりがついたら自然に立ち上がって、外に出て電車で帰った。
そんなある日、二人でいるところに、偶然出くわした後輩が声をかけてきた。
「先輩たち、つきあってるんですか?」
私は、とっさに
「い、いいえ」
と答えてしまった。
彼は少し笑って、「そっか」とだけ言った。
結局それが最後になった。
あれから、連絡も取っていない。
今ごろ、どこかで暮らしているんだろうか。家庭を持って、子どももいて、毎日忙しく働いているのかもしれない。
──いや、たぶん、そうなんだろう。頭のいい人だもの。いい会社に就職して、自分の人生を歩いているよね。
ふと風が頬を撫でた。ベンチの隣には、夫が好きだった缶コーヒーを置いたままだ。
私は立ち上がり、バッグの中からスマホを取り出した。
だけど、もう彼の連絡先はわからない。あまりに時間が経ちすぎた。
──思い切って、連絡してみたいけど。
画面を見つめながら、小さく息を吸った。
こんなこと思う人は結構いるのかもしれませんね。