その二:魔法猫が船乗りになる方法
さて、その真っ黒な猫は、起き上がると大きなあくびをして、体をぐーんと伸ばした。
船内はシンとしている。
「ありゃ、だれもいねぇ」
朝メシを用意してくれる船員は下船したようだ。猫もみんな下りたと思ったのだろう。
船室のドアは鍵が掛かっていたが、下部の猫ドアは開いていた。
乗員の居住区から外甲板へ通じるドアにも専用猫ドアがある。こちらの鍵も開いていた。
船が無人・無猫となる際には施錠される決まりだが、船長が上陸しない猫のために開けておいてくれたのだろう。これなら自由に外甲板まで行き来ができる。
「しょうがねー、船倉でネズミでも獲るか」
船倉につづく階段を下りていくと、暗闇でかすかな音がした。
猫は耳が良いのだ。
でも、この音は――――聞いたことが無かった。
少なくとも、いままでの船倉では。
そろそろ太陽が昼の高さになるころ、朝ゴハンの後の三度寝から目覚めたぼうやが、室内の猫ドアからサンルームに入ってきた。
「あ、ぱぱーっ! お帰りなさ~いっ!」
体の大きさもまだまだ子猫なぼうやは、素直に『ぱぱ』と呼んでいるようだ。ほんとの赤ちゃん猫だからおかしくはないけれど。
ぼうやは、お尻を床につける猫座りをしているマドロス船長の胸めがけ、頭から突っ込んだ。
マドロス船長はびくともしない。大きな猫だけあって頑丈である。
「やあ、ぼうや。元気がいいな」
ぼうやはマドロス船長の尻尾にじゃれつきながら、床をコロコロ転がりはじめた。前足と後ろ足を全力で振り回し、「てい、てい!」と、けんめいにじゃれつくのを、マドロス船長は右前足だけでチョチョイと軽くあやしている。顔に似合わず、こどもの相手がとても上手だ。
なんとも微笑ましい一家団欒の光景である。――マドロス船長の、微笑んでいてもいかついご面相をのぞけば。
でも、猫なのに、なぜ『船長』なんだろう。
「あの、マドロス船長は、猫なのに、お船の船長さんなんですか?」
ノワだって、船長という仕事くらい知っている。
船で一番えらい人のことだ。
でも、ふつうの猫は船に乗らないし、船長にはならない。
「商船の船長が契約主なんでね。船長の猫だからマドロス船長と呼ばれているのさ」
なるほど、普通の理由だ。
「ということは、マドロス船長に名前を付けたその人間の船長さんが、最初の保護者だったんですか」
「まあな。若い頃、港で魚をもらおうとしていたら、釣りをしていた貿易船の船長にスカウトされて、そのまま船に乗ったんだよ」
それはマドロス船長が、魔法猫の親猫から親離れして間もない、ノワくらいに若かりし頃のことだ。
さてどこへ行こう。
手始めに隣街へ行ってみるか。
もっと遠くへ、気のむくままに、旅へ出ようか。
そんなことをとりとめもなく考えながら、港で野良猫に混じり、気の良い釣り人のくれる魚を目当てに堤防をうろついていたら。
いきなり首の後ろをむんずと掴まれた。
立派なあごひげを生やした背の高い釣り人のおじさんは、顔の高さに持ち上げたマドロス船長にむかってこう言った。
「よお、おまえ。さっきから俺の後ろでやけに礼儀正しく待ってるじゃないか。その目つきが気に入った。腹が減ってんならオレの船へ乗れ。三食昼寝付きで猫だって給料も出るし、おやつにネズミが獲り放題だぞ」
三食昼寝付きのおやつ付き。
猫にとっては極楽の条件だが――?
「えーとぉ……? 三食昼寝付きのおやつ付きなら、ここでの暮らしも同じなのでは?」
だって猫だし。
ふつうにきちんと世話をしてくれる飼い主のもとにいれば、どこでもそうなのでは?
「世の中、そう良い人間に出逢える猫ばかりじゃないんだよ。陸地で毎日ゴミ箱をあさってまずいメシを探す野良暮らしより、ほどほどに世話してくれる人間に囲まれ、ネズミ獲り放題で暮らしたいと考える猫もいるものなのさ」
マドロス船長のいう野良猫の暮らしは、ノワには想像もつかなかった。船に乗りたいと思い詰めるほど餓えるような、ひどい目にあった経験はないからだろう。
「でも、船に乗っていたらずっと潮風に吹かれるし、パトロールできるのはそのお船の中だけでしょう?」
「まあな。いったん外洋船に乗り込んだら最後、揺れる船上で毎日ネズミに警戒しなければならないとわかれば、たいがいの野良気質な猫はイヤになって逃げてしまう。だから初航海を我慢できれば、船乗り猫の素質は十分あるってことさ」
人間に用心して普通の猫のフリをしていた若いマドロス船長は、首の後ろを掴まれてぶら下げられたまま、しばらく無言でじたばたしていた。
それでもおひげの船長さんはマドロス船長を放さず、港に停めてあった小型船にさっさと連れ込んだのである。
「ええ、ひどい! そんなの、誘拐じゃないですか」
ノワが憤慨すると、マドロス船長は首をすくめた。
「いや、まあ、昔は猫が攫われて船に強制連行されるなんざ、珍しくもないことだったんだよ」
いまでこそどんな船を見たって動じないベテラン船乗り猫になったマドロス船長だが、当時は独立まもない若輩もの。
小さくて揺れのひどい船に乗せられ、ギョッと目をむいた。
こんな小さな船でねずみ獲りだって?
二、三匹獲れば終わりじゃないか。明日からのメシはどうするんだ……と。
じつは、その船は、湾内に入ってくる大型船の水先案内をするタグボートで、外海には出ない船だった。
タグボートに乗って一〇分後、おひげの船長さんと若いマドロス船長は、沖合に停泊していた大型の貿易船へ到着した。
若いマドロス船長は、初めて乗った小さなタグボートで軽い船酔いになり、ふらふらしながらも、またおひげの船長さんの小脇に抱えられ、大きな貿易船へ運ばれた。
貿易船はそのまま外洋航路へ出発した。
若いマドロス船長は毎日大きな貿易船で、船荷を荒らすネズミ退治に励んだ。
マドロス船長にとってネズミ退治は簡単な仕事だった。
ただ、食事がネズミだけでは、栄養のバランスが悪い。
さいわいにしておひげの船長さんが猫飼いのベテランであったので、一日二回、栄養バランスの取れた猫用ゴハンをきちんともらえた。おかげでネズミを主食にしないですんだ。
それがマドロス船長の初航海であり、船乗り猫人生の始まりであった。
初航海は一年半におよぶ長期航海となった。航海中は保護者であるおひげの船長さんに連れられ、見知らぬ国へ寄港すれば上陸し、初めて見る異国情緒たっぷりな街で様々なものを見聞した。
初航海を終え、かつて出航した港に戻ってきたマドロス船長は、一人前の船乗り猫になっていた。
そのころにはマドロス船長が魔法猫というのはすっかり周囲にバレていたので、おひげの船長さんの推薦で船会社と正式に雇用契約を結んだ。
そこでわかった事実があった。おひげの船長さんは、初対面からマドロス船長が魔法猫だと見抜いていたことだ。
魚をもらおうとして礼儀正しくもおとなしい様子から、飼い主がまだいないか死別したと察し、自分の船の猫になってもらおうと考えて、強引に船へ連れてきたらしい。
貿易船は遠い国々へ旅をした。
マドロス船長はおひげの船長さんといっしょに、たくさんの街を訪れた。
「境海世界はとても広かった。そのおかげで、いまの俺があるってわけさ」
それから数年後、立派な船乗り猫になったマドロス船長は、船会社との契約更新のために白く寂しい通りを訪れていた。
レディ・ドルリスと出会ったのは、その日である。
たまたま隣街から散歩に来ていたレディ・ドルリスと、運命の出会いを果たしたのであった。
「おい、クロスケのやつがいねーぞ?」
船会社の猫用食堂で、定番の新鮮な猫用刺身定食を食べていた船乗り猫は、ふと、周囲を見回した。
仲間の顔はほとんど揃っている。マドロス船長は奥さんが待っているからと早々に帰宅している。
キジトラに茶トラ、クリームブラウンにサビ柄の猫たちは、刺身とカリカリの入った皿から顔を上げ、お互いの顔を確認した。
食事を終えて床に寝転がっていた白地に黒ぶちの猫が、体を起こした。
さほど広くもない室内だ。猫用に滑りにくい床は掃除が行き届いて清潔で、ゴミクズのカケラも落ちていない。
「ん? あいつ、もしかして船を降りていなかったのか」
船と乗組員の三日間の検疫は済んだ。会社で給料を受け取れば、三ヶ月間の休暇だ。
久しぶりに帰宅できる機会を逃すようなバカな猫は、ここにはいない。……はずなのだが、クロスケと呼ばれる黒猫は、ときどきふらりとどこかへ出かけて帰ってこないこともあった。
猫らしい猫といえばそれまでだが、船乗り猫になる魔法猫の基準からすると、少々遊び猫気質なところがある。仲間の猫はそれをよく知っていた。
「でも、おかしくないか。いちばんにここのメシを食いに来るといってたやつがよ」
「いまごろ熟睡してんだろ。久しぶりの上陸だからってんで、昨日の夜は興奮して寝られなかったんだろうぜ」
「起きたらすぐ来そうなもんだが……。忘れてんのかな」
「どうせ人間の誰かは当直に残ってんだろ。メシがもらえて腹が膨れりゃ、また眠くもなるさ。明日になりゃ、クロだってここへメシを食いに来るだろ」
皆はこのあと街の家へ帰宅する。
六ヶ月の航海を終えたあとの、待望の休暇だ。人間の乗組員も条件は同じ。三ヶ月の休暇を消化するまで船に戻るものはいない。
猫も人間も、誰ひとりとして。