その一:猫の女王とボス猫事情
『レディ・ドルリスに会いたければ白く寂しい通りのパン屋へいらっしゃい』
これは猫の女王たるレディ・ドルリスの保護者フェスティ夫人の口癖である。ご町内の会合などでレディ・ドルリスへ接見を求める町の人々には耳慣れたセリフだ。
フェスティ夫人は白く寂しい通り唯一のパン専門店『十二の祭り亭』のオーナーにして町会長を務める名士。
フェスティ夫人がなぜレディ・ドルリスの保護者かという理由は……――レディ・ドルリスはフェスティ家の『嫁』だから、である。
レディ・ドルリスはサンルームの、金色の飾り紐が付いた緋色のクッションで優雅に寝そべり、長く白い毛並みの毛繕いをしていた。
宝石のエメラルドにも喩えられる緑の目を細め、ゴロゴロ喉を鳴らしている。
とても満足な気分なのだ。
今朝の謁見はうまく片付いた。一〇時のティータイムは、ウェッジウッドの皿に入れた猫に優しい軟水のミネラルウォーターに、おやつは大好物のカリカリしたささみ味のドライフードだった。
サンルームの日差しはほどよい日陰に遮られ、庭で満開のラベンダーの香りが微風に乗って吹き抜ける。
完璧な午前とはこういう日のこと。
庭に続く猫用ドアがキイと音を立てた。
トテトテと肉球の足音。
真っ黒な猫が近づいてくる。大人の猫というには子猫期を抜けきれていない小柄な黒猫ノワだ。
「レディ・ドルリス、僕、見たんです!」
金色の目をくりくりさせ、たいへん興奮した様子で駆け寄ってくる。
「あら、朝のご近所さん声かけご町内パトロールで何かありましたの?」
ちなみにご町内パトロールとは、この街に居住するすべての猫が負うべき尊き義務、毎朝の規則正しい日課であるべしと定められたもの。猫だけど。
ただし、街の猫を統治する女王レディ・ドルリスにおいてはその限りではない。
もちろん、民の上に立つものとして率先してご町内のパトロールは行っているが、今日のように朝から謁見がある日はお休みすることもよくある。
というわけで、レディ・ドルリスは、本日朝起きてからは、ずっとフェスティ夫人邸のサンルームにいたわけだ。
「キズだらけで顔が大きくて、体も大きな猫なんです! 濃いネズミ色の毛はバサバサした感じで、とっても汚れていました!」
ノワは興奮さめやらぬ様子。よほど印象に残る、体格の良い猫だったのだろう。
「まあ、そう。彼を見かけたのね。そうですわねえ、そろそろ戻ってくる時期だったかしら……」
レディ・ドルリスはふっと目を細め、視線を遠くへむけた。
「あれ? ということは、レディ・ドルリスはあの大きな猫をご存じなのですか?」
「ええ、もちろんです。よく知っていますもの」
レディ・ドルリスはにんまり微笑んだ。秘密を知るもの特有の、楽しげな笑みである。
「ええ~、僕はてっきり謎の他所猫だと思っていました」
見かけぬ他所猫をいちばんに見つけたノワは、すごい大発見をした気分だったのだろう。
「この街では古株の猫ですのよ。ここへ帰ってきたら紹介しますわ。でも、ノワさんが見た様子から察すると、わたしたちが会えるのは明明後日ごろになりそうですわね」
「え? 今日はもうこの街に居るのに、どうして三日後なんですか」
この街は猫の女王レディ・ドルリスが治める縄張り。謁見に来られない理由でもあるのだろうか。
「オホホ、それはわたくしの推理ですわ。楽しみにしてらっしゃいな」
レディ・ドルリスはほがらかに笑った。
「ところで、ノワさん、いつまでも他人行儀だこと。あなたもぼうやのようにわたくしを『まま』と呼んでいいのですよ」
「え、いや、それはちょっと恥ずかしいです」
ふつうにおかあさんではダメなのだろうか……と、ノワは考えていたが、
「あら、そうですの。最近の若い子は照れ屋さんですのね。なんでしたら、『ママン』でもよろしくてよ」
これでノワの心は決まった。
「僕、まだ若いですが、一応自立しているつもりなので、やっぱりレディ・ドルリスとお呼びします」
「あら、そう?」
レディ・ドルリスはものすごく残念そうに目を細めた。
謎めいた予見を最後に、レディ・ドルリスは次の謁見待ちをしていた猫を呼んだ。
ノワは午後のパトロールへ出かけた。
その日はもう、キズだらけの大猫を見かけることはなかった。
そして三日が経ち。
夜明けの朝靄ただよう涼しい庭に、レディ・ドルリスの言った通り、キズだらけの大猫が現れたのである。
青味がかった毛色。大きな体躯はキズだらけ。いかにも歴戦の野良らしい、ふてぶてしい風貌。街の『ボス』と呼ばれるにふさわしい貫禄だ。
サンルームの猫ドアをくぐろうとしていたノワは驚いて固まった。
大猫がふり向いた。
「ん、君は新顔だな。どこの子だい?」
優しく訊ねられたのに、ノワは驚きすぎて、すぐには声が出なかった。
すごいケンカキズの痕。一目で圧倒されるような迫力あるご面相は、もしかして!?
「えと、あの、初めまして。僕はノワです。おじさんがこの街のボス猫なんですね!」
そうとしか思えない! とノワは自信を持って訊ねたが、
「いや、ちがうよ」
即座に否定された!?
――いや、ほかの猫たちのように、謁見に来たのかもしれない。
「あ、そうか、レディ・ドルリスに謁見ですか?」
「いや、ちがうが」
また否定された!
「ええ、その顔でふつうの猫ですか!?」
「なんだい、その顔ってのは?」
大猫が困惑した表情で、首をやや右へ傾げる。
ノワの脳内でパニックと疑問がどんどんふくらんだ。ご近所パトロールの合間に聞いた怪しい噂話が耳によみがえる。
いわく、この街のどこかには、境海世界の密輸団の一員が潜んでいる。その協力者はきっと悪い魔術師だ。――などなど、都市伝説めいたややダークな噂である。
このキズだらけの大猫は、いったい何者なのか。
なぜレディ・ドルリスの家へ勝手に入ろうとしているのか……。
――どうしょう、僕が先にサンルームへ入って、レディ・ドルリスに警告した方がいいのかしら!?
大猫のうしろでノワがオロオロしている間に、大猫はさっさと猫ドアを右前足で押し開けた。
「わあ、おじさん、勝手に入っちゃダメですよ!」
「ハッハッハ、気にするな」
猫ドアをくぐっちゃった!
あんなに大きくてもくぐれるんだ!……そこは猫だから。
「いや、気にしますって。不法侵入ですよッ」
ノワも、大猫のあとからいそいで猫ドアを入る。
「おう、ただいま!」
大猫は、サンルームの床をトットットと軽快に進んでいく。
レディ・ドルリスはサンルーム奥の棚の上の、緋色のクッションから、ポンと飛び下りてきた。
「おかえりなさいませ。いつもより遅かったですわね」
「え、レディ・ドルリスのお知り合いなんですか!?」
どうみても美女と野獣。二匹の見た目の格差が激しすぎ、ノワの脳はすみやかな理解を拒否した。
「そんなにキズだらけなのに、レディ・ドルリスとはどういうご関係なんですか?」
「キズは関係ないだろう。レディ・ドルリスは俺の奥さんだよ」
「つまり、レディ・ドルリスと結婚している旦那様ですよね!?」
「ええ、ぼうやの父親ですわ」
レディ・ドルリスの旦那様の見た目が野良の中の野良、すなわちキングオブ野良だなんて、ノワは夢にも想像していなかった。
「えーと、おじさんは……いえ、その」
ノワはどう呼びかけるべきか、迷った。
いちいち「レディ・ドルリスの旦那様」では長すぎる。
「俺は『マドロス船長』だよ。キャプテン・マドロスでもいいし、ノワくんならパパと呼んでくれて良いんだぞ?」
「あ、マドロス船長とお呼びします」
ノワの半生でこれほどすみやかに決断できた問題は少ないと言えよう。
さすがにパパとは呼べない。
というか、心情的に呼びたくない。
なんか恥ずかしいし。
レディ・ドルリスの旦那様は、野良猫ではなかった。フェスティ夫人邸の正式な飼い猫であった。
そもそも、フェスティ夫人の飼い猫はもともとマドロス船長である。そこへレディ・ドルリスが嫁入りしてきたのだ。
マドロス船長は、じつにワイルドな大猫である。一見して、一般家庭の飼い猫には見えない。野良の中の野良、ザ・ベストオブ・野良猫といっても過言ではない。
そんなマドロス船長が上品な淑女猫の代名詞のようなレディ・ドルリスといかなるきっかけがあって知り合ったのか、ノワの疑問はふくれあがるばかりである。
「信じられないや。ほんとにぼうやのパパなんですか!?」
「あら、わたくしが浮気をしたとでも?」
無邪気なノワの失言に、優しく微笑むレディ・ドルリス。目だけが笑っていなかった。
ノワはゾゾッと震え上がった。なんかよくわからないけど、とんでもない地雷を踏んだような気がする。
「ふわわわわ、ごめんなさい。そういう意味ではないんですうッ!!! あの、つまり、その、立派なお顔から、てっきりこの街のボス猫さんだと思ったんです!」
よし、言い抜けた。
「あら、そうでしたのね。間違える方は多いですから」
レディ・ドルリスは納得したようだ。
ノワはひとまず直面した恐怖と危機から逃れたのを感じ取った。
「ボスは奥さんだよ」
「あなた」
レディ・ドルリスは穏やかに呼びかけた。
そう、この街のボスはレディ・ドルリス。しかし、麗しの猫の女王は「ボス」と呼ばれることを好まない。猫のボスとはこの大猫のようなイメージだからだ。
マドロス船長もそれを思い出したのか、ビクッと尻尾の毛をフワッフワにふくらませた。
猫はビビると尻尾の毛が全部逆立ち、フワッフワに大きく膨らんで見えるのだ。それは普通の猫も魔法猫も同じらしい。
「あ、いや、まあ、ボス……じょ、女王の仕事は、ほら、忙しいだろ。だから、この街のふつうの猫の問題は、俺が代理で片付けたりもするから、俺がボス業の代理執行猫みたいなものかな。だから初対面の君が俺をボスだと思ったのも、あながち間違いではないよ。ハハハハ……」
尻尾の毛はまだ膨らんでいる。いかつい顔をした大きな猫でも、奥さんは怖いらしい。
「ほほほ、この子はノワと言いまして、つい先日、わたくしの養子にしましたのよ。あなたの新しいこどもですわね」
パニクるノワを、レディ・ドルリスは華麗にスルーし、マドロス船長に話しかけた。
「あー、うん。そんなとこだろうと思ったよ。ということは、通算二〇三匹目の子だな。俺が航海に出ている間にいろいろあったようだね。休暇の間にゆっくり聞かせてもらうとするか」
マドロス船長の名は伊達にあらず、レディ・ドルリスの旦那様は本物の船乗りらしい。
その頃、白く寂しい通りから二番目に近い港で、船荷の荷下ろしが行われていた。
港湾管理局の検閲も終わった。
これで港の倉庫へ一時保管できる。
船員達は次々と船を下りた。
そして、船は無人になった。
一匹の猫以外は。