その二十二:ルビーの本当の名前
女王レディ・ドルリスとレディ・エルデリットは棚からスタッと飛び降りてきた。
ルビーはレディ・エルデリットから目を外せなかった。
猫の生活では、鏡で自分の姿を見る機会などあまりない。けれど、何度も赤い目と言われているうちには、やはり気になって、人間の家にいたときなどにはときどき鏡を見たものだ。
レディ・エルデリットはルビーと顔立ちが似ている。レディ・クラリッサとはちがう、ルビーと同系統の猫の顔だ。
近くで見ればなおさらよくわかる。
特徴的な赤い目は血族の証と言われれば納得できる同じ色合い。木イチゴの実のように赤く、光に透ける紅玉のように美しい。光を受ければ細くなる瞳は、色が濃い赤褐色であるところまでうり二つなのだ。
ルビーを見つめるレディ・エルデリットの紅玉のような目から、またポロリと涙がこぼれた。
「顔立ちもその赤い目も、わたくしの母猫にそっくりだわ。女王陛下、まちがいありません。この方は三年と半年前、生後一ヶ月で攫われたわたくしの娘猫です」
「ええッ!? ルビーさんはエルデおばさんのこどもだったの!?」
ノワは耳を倒して尻尾をブワッとふくらませた。めちゃくちゃ驚いたのだ。
だって毛色がぜんぜん似ていない。
レディ・エルデリットは、淡い茶・白・黒の毛色がきれいな三毛猫だ。伴侶猫は茶トラ系と聞く。その組み合わせからほとんど白いルビー嬢が生まれるなんて、魔法猫の遺伝子のいたずらってものすごい。
「そっか。ルビーさんは迷子だったんだね。本当のおかあさんに会えてよかったね」
ノワがほにゃっと笑う。
つられて微笑みそうになったが、ルビーはとうてい納得できなかった。
「ノワさん、どうしてわたしが迷子になったと思うの?」
「ほら、子猫はよく母猫からはぐれて迷子になるでしょ? そのまま遠くへいっちゃって、行方不明になるんだよ。ね、レディ・ドルリス?」
「ええ、そういうのは普通の猫の世界では珍しくないそうですわね。けれども、魔法猫の世界では、非常に稀なことですけれど」
レディ・ドルリスが説明をそえる。
「そう……なのでしょうか。わたしにはわかりません」
ルビーは魔法猫の子猫なのに実の母猫からはぐれ、とても珍しい魔法猫の迷子になっていた?
そこをレディ・クラリッサに保護されたと?
もしそうなら、レディ・クラリッサはルビーの命の恩人だが……。
そう考えて感謝するには、あまりにも、暗く澱んだ思い出が多すぎるのだ、あのレディ・クラリッサには。
「ルビーさん」
女王に呼ばれ、ルビーはぐるぐると渦巻く暗い思考の海から浮上した。
「はい、女王陛下」
女王はルビーにとってとてつもなく重大なことを話してくれている。一言も聞き逃すわけにはいかない。ルビーは気を引き締めた。
女王はレディ・エルデリットへふり向いた。
「このレディ・エルデリットはわたくしの昔からの親友です。腹心の友といっても良い方ですのよ。わたくしたちの関係は遠く、神話の時代にまでさかのぼることができるのです」
それはいまからずっと、ずーっと昔のこと。
この世界が創造されてまもなく、いまだ神話の神々が大地を歩かれていたころ、月の女神の化身である魔法猫の女王エンデンドリスが人々を苦しめる闇の怪物と戦った。
そのとき女王のそばでいっしょに戦ったのが、レディ・エルデリットの先祖。彼女は赤い瞳の魔法猫だった。
「ですからレディ・エルデリットの家系には、ときどきルビーさんのような赤い瞳の強い魔法の力を持つ子が生まれますのよ。先祖返りというやつですわね」
赤い瞳の、魔法の力が強い子?
女王の言葉はとても信じられないことばかりだ。
ルビーも少しなら魔法は使える。しかしそれは、自分の瞳の色を一時的に変えるていどだ。それですら、わずかにオレンジ色や茶色っぽい色合いや、ようは赤系統色にしか変えられない。
かつて遠い町で、暴力的な野良猫の集団を一撃でなぎ払ったレディ・クラリッサに比べたら――ルビーの使える魔法なんて、無きに等しい。
レディ・クラリッサはいったいどうして、ルビーを見つけて育てたのだろう。
疑問はふくらむばかりだ。
「あの、女王陛下。わたくしはいまの母猫を実の母猫だと信じて生きてきました。その方がわたくしの本当の母猫なら、どうしてわたくしは別の母猫に育てられたのでしょうか」
「ルビーさん、あなたの育ての親猫のお名前はなんとおっしゃるの?」
「レディ・クラリッサです」
「レディ・クラリッサ」
女王は記憶を探るように一点を見つめて考えていたが、
「……いいえ、わたくしは知らない名前だわ。レディ・エルデリット、心当たりはありまして?」
「いいえ、ぞんじません。女王陛下の側近の親族にはおりませんわ。その『クラリッサ』というのは家名ではなく、そのものが自分でつけた通り名ではないでしょうか」
「そうでしょうね。わたくしとあなたが知らないなら、わたくしの民ではない。あるいはみずから臣下からはずれたものでしょう」
さて、どうしたものかしら、と、女王とレディ・エルデリットは顔を見合わせている。
「そうだわ。レディ・エルデリット、あなたの子にはなんと名付けたのですか」
女王がチラリとルビーへ視線を走らせた。
「わたくしは末の子に『メルティエール』と名付けましたわ」
「よかったわ。やはりそうなのね」
女王陛下はルビーをやさしく見つめた。
「メルティエール・エルデリット。それがあなたの本当の名前ですよ、ルビーさん」
「わたしの、なまえは……メルティエール?」
ルビーは自分がうれしいのか、そうではないのかさえ、わからなかった。
そもそもいまこの淑女猫ふたりが話している「レディ・エルデリットのいなくなった娘猫」の話が、自分のことだとも信じられないのに……。
「ねー、ルビーさん。あ、ちがった、メルティ? エールさんと呼ばなきゃダメなのかな?」
「え!?……いいえ、あの、ルビーでいいわ」
ノワに応えて、ルビーはハッとした。
女王陛下とレディ・エルデリットが気を悪くしたのでは、と焦ったが、おふたりはニコニコしている。
「じゃあ、ルビーさんのお願いはなあに?」
ノワが無邪気に訊ねる。
「え?」
「そうですわ、ルビーさん。いまいちど訊きましょう。あなたのお望みはなんですの?」
女王陛下に優しく訊ねられた。
「え? あの……わたくしの望みとは?」
なぜルビーの望みを訊かれるのか、ルビーはさっぱりわからなかった。
「あれ? 僕、言ってなかった? 魔法猫の女王さまの謁見にきたら、望みを何でも叶えてもらえるんだよ」
「え!?」
ルビーは目をまん丸くした。
謁見にきたものの望みをなんでも叶えてくれるなんて、そんなすごい魔法、聞いたことがない。
それがほんとうなら、どれほど魔法に長けていようと、ただの魔法猫が魔法猫の女王になるのは不可能ではないか。
――いいこと、ルビーや。あたくしは運が悪くてなれなかったけど、おまえが次の魔法猫の女王になるのよ。
レディ・クラリッサが話していた魔法猫の女王とは、ただ魔法猫たちの上に君臨し、数多の臣下に傅かれる君主の姿だ。
「ルビーさん。信じられなくても無理はありませんわ。しかし、ここへ謁見に来られたのは、わたくしに何か叶えて欲しいことがあるからでしょう。なんでもよろしいのですよ。言ってご覧なさいな」
ルビーの望み?
「あの、わたくしは……望みなんて……」
そんなの、少しでもマシな状態で明日も生き延びることだ。明日まで生きていられたら、それだけで今日よりマシだと思っていた。
いつかはレディ・クラリッサから離れて独立したいと。自由になりたいと……。
でも、いまは……。
いつしかルビーは、レディ・エルデリットに視線を移していた。
なんだか懐かしいと思うのは気のせい?
そのもやもやした不可解な気持ちを、しっかり確かめてみたいと思うのは、なぜだろう……。
「ほんとうのおかあさまといっしょに、暮らしてみたい……」
心で思ったことが、口からポロリとこぼれ落ちた。
「その願いを叶えましょう」
女王は、レディ・エルデリットをうながした。
レディ・エルデリットはルビーへしずかに歩みより、そっとよりそった。




