その十九:彼女の名前はルビー・キャット
かわいい甘え声でひとしきり鳴いてから、数分後。
勝手口のドアが開いて、人間が出てきた。右手には大きなお皿。左手には陶製の器。それを地面にそっと並べると、また家の中へ入っていった。
ほら、やっぱり今日も置いていった!
大皿には、四つ足で立っているルビーの顔に届くくらい、こんもり盛られた猫用ドライフード! しかもとても良い匂いがする上等なフードだ。
ルビーはクンクン鼻を利かせた。大皿の横に置かれた陶製の白い器には、きれいな水がなみなみと入っている。
ひかえめに見ても、猫数十匹分を想定した量だ。
――やったわ! 今日はわたしが一番乗りよ!
まだ他の猫は来ていない。
ルビーは、猫用ドライフードの大皿へ突進した。
そして、ドライフードに口がとどく寸前。
「こらあッ!!!」
横からドシンと体当たりされた!
「きゃあッ!」
小柄なルビーは大皿の前から吹っ飛び、ズザザーッと地面をすべっていった。
「おまえなんか、あっち行けッ!」
すさんだ目つきの年配の雄猫が、シャーッ! はげしく威嚇する。
負けるもんか。
ルビーは急いで起き上がった。
こんどは後ろから、お尻をバシッ! と叩かれた。
「いたいッ!?」
ルビーは左横向きに、ペチョッとお尻を地面につけた。叩かれたところがヒリヒリしてる。ツメまで立てた猫パンチだ。これだけ痛いのは傷がついてる。ルビーの母猫ならこのくらいのキズは魔法で治すけど、ルビーは母猫みたいには魔法を使えない。
――どうしょう、怖い……。
危険を感じた。ツメが出るというのは相手に怪我をさせる気があるということ。脅しではない、本気のケンカの前兆だ。
ルビーを排除した野良猫たちは大皿をかこみ、猫用ドライフードにたかっている。彼らの隙間から、茶色や赤のドライフードの粒が飛び散らかった。
野良猫たちはルビーにお尻を向けている。今ならルビーの猫パンチもとどくだろう。
だが、食事中の猫に手を出すのは、猫のケンカの厳重なマナー違反だ。
――でも、ここですごすご退散したら、何も食べられない。
なにより、おかあさまが――。あとで言いつけ通りにしなかったとわかったら、きっと、ものすごくきつく叱られてしまう。機嫌が悪くなったら、わたしをまた、暗闇に放り込むかもしれない……。
ルビーは意を決して牙を剥いた。
「フシャーッ!!!」
必死で身構えたら、振り返った野良猫のおじさんに、ルビーの何倍もの声量で怒鳴りつけられた。
「バカヤロウッ! 子猫のくせに、殺されたいのか!? お前みたいな余所猫が食べられるのは、いちばん最後と決まってるんだよ。俺たちみんなが食べ終わるまで、あっちへ行ってろ!」
それは限られた狭い土地を、複数の猫が共同で縄張りにして生活するための、厳格なルールであった。
ルビーはとぼとぼと離れた。
待った。
地元の猫が何匹もやってきては、ゴハンを食べていく。
ルビーは地面の一点を見つめて、待った。
三十分くらいしたら、新しい野良猫が来なくなった。やっと地元の皆が食べ終わったようだ。
大皿の猫用ドライフードはほとんどなくなっていた。残っているのは、大皿の周囲にこぼれた、数えるほどの粒だけ。
ルビーはそれを拾って食べた。
なにも食べられないよりマシだから。
ルビーのうしろで、地元の意地悪な若い猫たちがはやし立てている。
「やーい、赤い目のルビー・キャット! ウサギの目をしたルビーは猫じゃない! 拾われっ子の変なウサギ猫~! 猫の親にまで捨てられた、哀れな捨て猫だーい!」
ルビーは泣いて、逃げ出して、そして……。
ハッと目が覚めた。
なんて嫌な夢。
ルビーがまだ小さな子猫だった頃の。
レディ・クラリッサが遠出して留守の間、ルビーがひとりでいた数日間。
ルビーはまともにゴハンにありつけなかった。レディ・クラリッサからはいつものゴハン置き場で食べておくよう言われていたが、野良のボス猫を力で追い払った強い母猫レディ・クラリッサがいなければ、地元の野良猫たちはゴハン場所からさっさとルビーを追い払った。
ルビーはお腹が空いて、つらくて。近所の野良の悪ガキ猫たちにいじめられ、からかわれて、追いかけ回された……。
――思い出したくもないのに……。きっと公園のベンチなんかで寝たせいね……。
昨日はけっきょく、ルビーとレディ・クラリッサを保護してくれそうな人間の家は見つからず、やはり公園で野宿となった。
ルビィは横で丸まって眠る母猫レディ・クラリッサを見つめた。
魔法猫の子猫時代は長い。
ただの猫なら一年以内に成猫になり子猫も生めるが、魔法猫は成猫になるまで軽く四~五年かかる。
しかも成長は個体差が大きい。同じ歳でも大人猫みたいに大きくなるものがいる反面、三年経っても生後半年くらいの子猫なみに小さな魔法猫もいるという。
ルビーは前者だ。レディ・クラリッサから聞かされたルビーの生まれ年が正しければ、ルビーはもうすぐ四回目の誕生日を迎える。
魔法猫の年齢換算ではまだ子猫期。だが、ルビーの体格はレディ・クラリッサに負けないくらい成長した。
はやく大人の魔法猫として独立したい。
親離れした魔法猫は、親猫の保護者とは異なる新しい人間の保護者を探すか、独立した大人の猫として、宛ての無い放浪の旅に出るものもいる。
かつて母子で放浪していた街で、優しい人間が毎日エサをくれたことがあった。
ふと気づくと、母子ともども家の中に入れてもらえて、すてきな猫用ベッドを与えられた。飼い猫にしてもらえたのだ。
運良く、猫の世話をきちんとできる善良な人間に巡り会えたのである。
ルビーはすっかり安心して、保護者に甘えた。安楽な生活が始まった――……はずだったが、何週間か経ち、ルビーがすっかり落ち着いた生活に馴染んだ頃になると、レディ・クラリッサが決まって言い出すのだ。
『はあ? ここで落ち着きたいだって? とんでもないわ。あたしはこんなあばら屋で一生を終える気なんてないわよ! お前は魔法猫の女王になるんだからね。あたしたちはなにがなんでも、魔法猫の女王が住む街へ行かなければならないのよ!』
魔法猫の女王がいる街なんて、野良猫たちは誰も知らないのに。
だが、母猫レディ・クラリッサの言うことは絶対だ。
だから――可愛い飼い猫を逃がさないよう、至れり尽くせりの世話をしてくれる優しい保護者をまんまと欺き、ある日突然こっそり夜逃げして行方をくらました。
そんな危うい不安定な生活を、これまで何度もくりかえしてきたのである。
ルビーは、いいかげん落ち着いた生活がしたい。
すてきなお庭のあるお家に住み、あの大きなガラス窓の向こう側でくつろいでいた猫たちみたいに、なりたいのだ……。




