その十五:盗まれたノワの匂い
「あの子は、魔法猫の女王のこどもだとも言っていましたわ」
魔法猫の女王の家の場所なら、レディ・クラリッサだってすでに知るところだ。
そう付け加えたのは、魔法猫の女王の家であれば、いかにレディ・クラリッサでもおいそれとは侵入できないと思ったからだ。
だが、レディ・クラリッサの反応はルビーの予想外だった。
「魔法猫の女王のこどもだって? ほんとうに、その子はそう言ったのかい?」
レディ・クラリッサは妙に用心深げに訊ねてきた。これほど真剣な目をしたレディ・クラリッサを見るのは久しぶりだった。遠い町で、ボス猫集団との縄張り抗争をした以来だろう。
「ええ、ほんとうですわ」
ぜんぶノワから聞いたままだ。
ただし、それが真実という証明はない。
ルビーは百パーセント信じていない。
だって、伝説の魔法猫の女王がそこの角のパン屋で暮らしているなんておかしいもの。
レディ・クラリッサが教えてくれた魔法猫の歴史では、魔法猫の女王は偉大な魔法を使って建てた豪華絢爛な大理石とヒスイの宮殿で、女王の玉座に君臨している。
つねに女王の証たるエメラルドの首飾りを身に着け、何千万匹という臣下の猫たちに傅かれている。それが魔法猫の女王猫たる姿だと。
「へ~え、そうなの! あの女王の子がこの街にねえ!」
レディ・クラリッサは鼻で笑った。
とたん、ビュゴオッ! と恐ろしく強い風が吹きつけた。
「きゃあッ!?」
ルビーは横に吹き飛ばされ、道へ転がった。
「アハハ、おまえみたいな鈍くさい娘猫に、こんないい匂いは似合わないわ。ぜんぶ取らないとね」
風はルビーの体にゴオゴオ吹きつけ、空中に持ち上げて渦巻いた。
レディ・クラリッサの魔法だ。
「おかあさまーッ!?」
ルビーのまわりで空気が逆巻き、容赦なくルビーを空中へ放り投げ、もみくちゃにした。
「ふん、嘘つきめ。まるごと水洗いしないだけマシだとお思い!」
「きゃーッ!?」
ルビーは小さな竜巻に閉じ込められ、空中でクルクル回された。
もうだめ、目が回る!
目を閉じた次の瞬間。
風がやんだ。
助かった。
でも、ルビーがいたのは空中で。
「ッきゃーあッ!?」
けっこうな高さから、ルビーは真っ逆さまに落ちた!
そこは猫だから、なんとか足から地面に着地したけど。
魔法猫でなければあぶなかったかも……。
ルビーはガタガタ震えながら、なんとか四つ足でふんばり立った。
「おかあ、さま? いまのはいったい……」
なんの魔法?
それを問う前に、レディ・クラリッサはルビーにお尻を向けていた。
「おかあさま……」
泣きそうな声でルビーが呼んでも振り向きもしない。
長い尻尾を右に左に優美に振りながら、レディ・クラリッサは遠ざかっていく。
ふと、ルビーは自分の体から、ノワのいい匂いが消えているのに気がついた。
まるで幸せだった気分が踏みにじられて消されたルビーの心とおんなじみたいに。
ルビーは悲しくなった。
でも、この現象には良い面もあったと思い直した。
きっとこれでノワはだいじょうぶ。レディ・クラリッサは、ルビーをいじめて惨めな気分にできたのだ。いまごろはご機嫌だろう。
機嫌さえ良ければ、レディ・クラリッサは暴れない。万が一ノワに出会ったとしても、手は出さないだろう――たぶん。
明日はノワに会える。朝食が終わるまではレディ・クラリッサに用心しなければならないにせよ、今日よりはマシな一日を過ごせるかも知れない。
と、ルビーは期待したのだが……。
数時間後に戻ってきたレディ・クラリッサは、いっそう荒れ狂っていた。まるで大嵐の化身のように。
「なによ、何にも無いなんて、やっぱりインチキだわ。嘘つきめ。なにが王子さまよッ。この、嘘つき娘猫ッ!」
わけのわからぬ文句を聞かされ、猫パンチで吹っ飛ばされたルビーは気が遠くなった。
うすれゆく意識のなか、ノワに何かされたのかと震え上がったが、問いただすのも怖くて、ただじっとして、嵐が過ぎるのを待った。
ルビーの顔に当たったレディ・クラリッサの前足からは血の臭いはしなかった。ちょっと疲れているような動きだったので、威力がさほどでもなかったのはありがたかった。
なにか疲れることをしたのだろうが……意気消沈しているふうだから、縄張り争いや通りすがりのケンカでもなさそうだ。負けたなら怒り狂っているし、勝ってきたら高笑いするはずだし。
もしノワを襲ったのなら、レディ・クラリッサはルビーを傷つけるためにはっきりそう言うだろうから。
レディ・クラリッサの特徴として、他の猫には理解できない些細なことが気に入らず、ルビーに八つ当たりして荒れ狂うことがよくある。そう思えば、この状態はいつも通りとも言えよう。
――そうよ、心配することはないわ。
ノワさんはきっと無事だわ。
だって、ノワさんの母猫は〈魔法猫の女王様〉のような方ですもの。まだ子猫期のノワさんを護るはずだわ。
明日の朝になれば。
ルビーが朝食を探すふりをして街中を歩き回り、偶然にもばったりノワに出会ったら――……それはただの偶然なのだから。