その三:レディ・ドルリスの日常はヒントに満ちている
黒猫はこまっていた
猫は好奇心が強い生き物だそうだ。
ぼくは親切な人間が置いていったカリカリしたおやつを大人猫にまじって食べながら、しっかり耳を澄ましていた。
「へえ、最近引っ越してきた新しい住人がいるんだね。ふうん、魔術師、魔法使い、また黒猫を拾った人もいるの? 優しい魔女だといいな」
魔術師と魔法使いと魔女のちがいとは、なんだろう。
公園にいた大人猫に訊いてみたら、親切に教えてくれた。
その三つとも、学問体系としての魔法を勉強するのは共通なんだそうだ。ちがうところは、以下の三つだって。
・魔術師とは、主に学問として魔法を学ぶ努力をして魔力を使えるようになる者のこと。
・魔法使いとは、生まれつき魔法の才能がある者のこと。
彼らは血統によってその魔法を子孫に伝える。
・魔女は、とにもかくにも魔法が使える女性がよく自称するもの。
うーん、ぼくのご主人はどれにも当てはまらないような気がする。
どうやら他の人ほど魔法はうまく使えないみたいだから……。
レディ・ドルリスの朝は猫用ミルクではじまる。
もちろん成猫用だ。
まれに猫用調整牛乳も出されるが、レディ・ドルリスのお好みは猫のお腹に優しい山羊乳の生乳である。
朝食は、猫用皿に小粒のカリカリを一五粒。それからレトルトパウチの猫食スープを器に半分だけ食す。もちろん具材も少しは食べる。しかし、完食すると食べ過ぎになるので半分は残さねばならないのだ。
レディ・ドルリスの横では、同じ器に山羊乳と、やや少なめの子猫食を食べ終えた子猫のぼうやがせっせと顔を洗っている。
ぼうやは満一歳と六ヶ月。名前はまだお披露目していない。皆にはぼうやの愛称で親しまれている。
ふわふわした純白の毛並みの母猫に比べれば、ぼうやは小さい。まだ人間の大人の掌にちょこんと座れる大きさだ。ふつうの猫なら生後六ヶ月程度の体躯。魔法猫としても、遊び盛りの子猫期まっただ中にある。
魔法猫はふつうの猫よりも長命ゆえに成長が遅く、子猫時代が長いのだ。生後六ヶ月程度に見える子猫期は三~四年つづく。
成猫の大きさになるまで親猫の保護下にあり、独り立ちも人間との契約も、成猫になってからの話である。
そもそも魔法猫は心から信頼する人間としか飼い猫契約を結ばない。子猫時代にひとりぼっちで人間に引き渡されることはまずありえない話なのだ。
「さ、ぼうや。朝ご飯はそのくらいにして、朝のパトロールにいきますよ」
「はーい!」
レディ・ドルリスとぼうやはサンルームの猫用ドアから庭へ出た。
朝のさわやかな空気にハーブの香りがただよっている。
庭はハーブガーデンだ。ここの新鮮な香草は、白く寂しい通りで大人気のパン屋『十二の祭り亭』の惣菜パンの材料に使われる。
この邸宅の持ち主はフェスティ夫人という。レディ・ドルリスの現保護者で姑でもあり、『十二の祭り亭』のオーナーにして、町会長をも務める名士であった。
レディ・ドルリスが純白のフワフワ毛並みを風になびかせて歩む後ろを、キジトラ模様の子猫ぼうやがちょこちょこ歩く。
「おはよー、ござい、まーす!」
ノワが来た。外から出入りする裏門を入ってすぐの地面にちょこんと座る。
「では、パトロールへ参りましょう」
裏門を出たレディ・ドルリスの後ろにぼうやが、その後ろに黒猫ノワがついていく。
「あの、レディ・ドルリス」
「なんでしょう?」
「今日は謁見はないんですか?」
ノワにしてみれば、レディ・ドルリスのような優美な猫は、日がな一日サンルームでくつろいでいるイメージがあるのだろう。
「事前の予約が無ければ、わたくしの在宅時にのみ受け付けておりますの。わたくしは忙しい身ですからね」
「はあ、なるほど……」
フェスティ夫人邸の庭から出たレディ・ドルリス一行は小路から大通りへ出た。
白く寂しい通りは石畳の敷かれた街道だ。道幅は十四メートル、中央の十メートルが車道で、両サイドが二メートルずつの歩道になっている。
レディ・ドルリス一行は歩道の端っこをてくてくと、北から南へ進んだ。
天気は快晴だ。
絶好のパトロール日より。白く寂しい通りは静かで、たまに通行人を見かける程度だ。
レディ・ドルリスは左へ曲がり、細い小路へ入った。しばらく進み、ふいにノワへ振り返った。
「さ、ノワさん、パトロールの重要なチェック箇所にきましたわよ」
とある家屋の裏口らしい。三歩で上る石段に黒いドア。石段の右横には縦横1.5メートルくらいの水色の箱形ゴミ箱。でもイヤな臭いはしない。あたりの空気には新鮮なコーヒーの、ほのかに甘い香りすら漂っている。
ノワが鼻をひくつかせた。
猫はコーヒーの匂いが嫌いだ。猫にカフェイン入り飲料は毒なのである。こればかりはレディ・ドルリスとて猫だからしょうがあるまい。
「はい! ここでは何を?」
ノワはキリッと口をむすんだ。なにやらやる気に満ちているようだ。
レディ・ドルリスは、石段をピョンと上り、黒いドア下部にある猫専用の小さなドアを、右前足でグッと奥へ押した。
「あの、レディ・ドルリス、勝手に入る気ですか!?」
ノワは、レディ・ドルリスが猫ドアへ頭を押し込むまえに慌てて訊ねた。
「ええ、ここは表通りの喫茶店エクメーネの裏口ですの。今日は定休日なので、表玄関から入ったのでは気づいてもらえませんのよ」
レディ・ドルリスのあとにぼうやが入り、ノワもおっかなびっくりつづいて猫ドアをくぐってきた。
猫ドアがパタンとしまる。
どこかでチリンチリンと鈴の音。
ノワは、ビクッと斜めに飛び上がった。
「この音、防犯ベルでは? レディ・ドルリス、ぼくらは不法侵入ではありませんか!?」
「オホホ、あれは呼び鈴の音ですわ。お客さまが訪れると魔法で鳴りますの。洒落たお店でしょう。それにこの白く寂しい通りでは、どこの家だろうと猫ドアをくぐれたら入ってかまわないのですよ」
「ええー、何か変……」
一行がほのかなコーヒーの香りを嗅ぎながら、ちり一つ無いきれいな青タイルの床に並んで待っていると、
「おや、レディ・ドルリス!」
長身の人間の男が奥から出てきた。粋な口ひげを生やしている。
レディ・ドルリスは男の顔を見上げた。
「ごきげんようマスター。何もかわりはありませんこと?」
「うん、とくには無いね。今月の治安係は例の事件で忙しいみたいだけど。ところでその黒猫さんは新顔かな」
喫茶エクメーネのマスターは真性の魔術師だ。猫が喋るのをおかしいとは思わない。
「ええ、この子はノワ。以後お見知りおきくださいませ」
レディ・ドルリスに紹介されたノワはぺこりと頭を下げた。
「こちらこそよろしく。お行儀のいい子だね。みんなおやつをたべるかい。ミルクは飲む?」
「ありがとうございます。わたくし、ミルクは朝いただきましたので、白いアイスクリームを所望します。今日は日差しが少し暑いですからね。ぼうやとノワにも同じものをお願いしますわ」
すぐに床の一角に清潔なリネンのランチョンマットが敷かれ、白いアイスクリームを入れた陶器の器が並べられた。
マスターは「ごゆっくりどうぞ」と奥へ引っ込んだ。
「ノワさん、ここの食器は特注のマイセン製ですのよ。気を付けて召し上がれ」
「え、なんですか、その注意は?」
「この食器は、人間の作り出した上等な陶磁器なのです。こういった特別な名称付きで呼ばれる皿や花瓶を、人間はとても大切にするのですよ。もしも猫がうっかり欠けさせたり割ったりすると、人間は恐ろしく青ざめて嘆くことがあるのです」
「ふうん、そんなことしないのに人間は心配性ですね!」
一口目を恐る恐る舐めたノワは、二口目からは夢中になり、お皿がピカピカになるまで舐めた。レディ・ドルリスはさっさと大さじ1杯分のアイスクリームを舐め終え、ノワが食べ終えるのを待った。
「ぼく、アイスクリームなんて食べたの、生まれて初めてです」
ノワは口のまわりについた溶けたアイスクリームも、何度も前足でぬぐってきれいに舐め取った。
「このアイスクリームはさきほどのエクメーネのマスターが、わたくしのために猫用ミルクで特別に作ってくださいますの。これはここでしか食べられませんわ。さ、ノワさん、お口を拭くのはそれくらいにして、次へ参りましょう」
レディ・ドルリスは石畳の道行く猫たちと優雅に挨拶を交わしながら、どんどん進んだ。
こんどはスーパーマーケットの裏にある、従業員用出入り口だった。
レディ・ドルリスがかわいらしくニャアと鳴くと、すぐに満面の笑顔を浮かべた女性従業員が出てきた。白い制服の胸にデリカテッセン担当の名札を付けている。
ほどなく、細かく切られたやわらかい新鮮な鶏肉と猫用ミネラルウォーターが、美しい陶器の猫用皿で運ばれてきた。
レディ・ドルリス一行はスーパーマーケットでのおやつを食べ終えると、再びパトロールにもどった。
「あの、レディ・ドルリス」
「はい、ノワさん」
「パトロールを始めてからおやつを食べてばかりいるような気がするんですが……」
「でも、こうしてパトロールをしていますでしょう?」
「……そうなのかなあ」
それ後、ぐるりと街を一周したら太陽は中天を過ぎ、午後も半ばになっていた。
帰り道、レディ・ドルリスは猫の姿を見かけると、こまめに挨拶した。
「ごきげんよう、皆さま」
「ごきげんよう、レディ・ドルリス」
屋根の上から、塀の上から、歩道の隅を歩きながら、通りすがりの猫のご婦人方が挨拶を返してくれる。みな上品で優雅な猫の貴婦人だ。
「レディ・ドルリス、今日も相変わらずお綺麗ですわね。ぼうやもかわいいですわ」
「ありがとうございます、皆さま。なにかニュースはありまして?」
ついでにちょっとした立ち話がはじまる。そのため、来た距離を同じだけ戻るのに、行きの三倍くらいの時間がかかったが、これも大切なご近所付き合いの一環である。
「では、今夜の大集会の時間まで良い一日をお過ごしくださいませ」
街道を南から北へ戻ったレディ・ドルリス一行は、行きとは異なる脇道に入った。
左に高い石塀がそびえている。
こういった塀の上には、猫やドロボウよけに尖った装飾が施されているものだが、この石塀の上は猫が歩きやすい平らな造りになっている。
「さあ、こちらですわ」
レディ・ドルリスは、石塀の上へ跳びあがった。
塀の向こう側はとあるお屋敷の広い庭だ。大きな樹木が枝を張り出していて視界をさえぎっている。
ぼうやはまだ塀に上れない。レディ・ドルリスは一度飛び降り、ぼうやの首の後ろをガブリと咥え、ふたたび塀の上へ跳びあがり、ぼうやを横に下ろした。
石塀の上を歩くこと一分半後――。
大きな樹木が途切れた地点で、レディ・ドルリスは色鮮やかな草花が咲き誇る庭へ飛び降りた。
池がある。向こう岸まで三メートルはありそうだ。薄緑色の水の中にオレンジ色の魚が泳いでいる。池の周囲では紫や白の蝶々がヒラヒラと飛び交う。まるで楽園のような風景であった。
「ごきげんよう、みなさま」
レディ・ドルリスは声を掛けた。
草花の間を、猫がたくさん闊歩している。この広い庭は一般の猫たちに開放されているのだ。
「やあ、レディ・ドルリス、今日もおきれいですね」
近くの木製ベンチで寝そべっている黒猫が応えた。その周りにも猫たちは寝転がったり足を伸ばしたりして、思い思いの姿勢のままで挨拶した。
「まあ、オホホ。事実を述べてもお世辞にはなりませんことよ。ところで最近、この辺りで変わったことはありまして?」
「例の空き巣事件のことなら、白く寂しい通りの担当警官が捜査中ですよ。手掛かりとなる証拠が何も無くて困っているそうですよ」
「まあ……。捜査は難航していますのね。人間は犯人の証拠をまだつかめませんのね」
「なにしろここは魔法使いの街。証拠を消したのはもっとすごい魔法使いの仕業だろうという、もっぱらの噂ですよ」
「まあ、そうですの。ではあなたも今夜の大集会にはぜひいらしてくださいね」
レディ・ドルリスが世間話に花を咲かせていると、いつのまにやらこの家の人が出てきて、いくつもの器にきれいな水とゆでてほぐした鳥のささみを盛った皿を並べていった。
レディ・ドルリスの前には白地に金模様の陶磁器の器が置かれていた。言わずと知れたレディ・ドルリス専用だ。
レディ・ドルリスが食べ始めると、見ていた他の猫たちも食べ始めた。
食べ終えたレディ・ドルリスは数匹の猫と挨拶を交わし、皆にノワを紹介した。
もうすぐ日が暮れる。
のどかな午後が終わろうとしていた。
黒猫はなやむ
「猫が好きな人だといいな。美味しいおやつをくれる人ならどんな職業でもいいや」
「先月引っ越してきたのは何をする人だっけ?」
「水道業者に音楽家、捜査官に専業魔法使いも! 占いする人もいたって」
「ペットは小鳥とウサギ、イタチに犬に、黒い猫!」
「たまたま出張先で拾った猫だってさ。この街には黒い猫が多すぎないかい?」
「魔術師も魔法使いも黒猫が好きなんだよ」
「そういえば、泥棒に入られたのはペットのいない家だってね」
「バカだなあ。猫を飼えばいいのに!」
「防犯には猫だけで良いのにね!」
「きっと欲張りなご主人が昔話みたいに宝物に魔法を掛けて護っているんだよ」
「そういう人いるよね。サールバント金貨が大好きで宝物にしてる人を知ってるよ!」
「うわ、しぃーッ! そんな宝物の話を外でしちゃいけないよ!」
「だいじょうぶだよ。だってここは『白く寂しい通り』だもの!」
猫たちはどっと笑った。
ぼくは笑わなかった。何がおかしいのか、さっぱりわからなかったからだ。