その九:もどってきた魔法猫のごくふつうの日常
ノワが目を覚ますと、ふかふかクッションベッドの上に寝かされていた。体もきれいになっている。
――あ、僕、お家に帰ってる。
フェスティ夫人邸の、ノワの部屋にあるノワのベッドだ。
――たぶん、レディ・ドルリスが魔法で連れて帰ってくれたんだよね。
毛はふかふか。背中を舐めると猫用シャンプーの匂いがする。
――寝ている間にお風呂に入れられちゃったみたい。
ノワは、ふだんお風呂を好まない。
猫は汚れたら自分で体を舐めてきれいにするものだ。だが、今日は特別。お風呂にいれてくれたフェスティ夫人へ、心からの感謝をささげる。
小っこいクラーケンと戦っ……もとい、クラーケンの幼生に踏んだり噛みついたりしたノワは、クラーケンの青黒い体液でベトベトに汚れた。毛色が黒いから目立たず、お腹の激痛で思考停止していたため、そこまで気が回らなかったのだ。
あのすさまじい悪臭にまみれた自分の毛づくろいをするのだけは、何があっても御免こうむる。あの臭いを真剣に味わうくらいなら、お風呂に頭からドボンとつけられる方がうんとマシだ。
お風呂に入れられて感謝する日が来るなんて、ノワも大人猫になったものだ。それもこれも、レディ・ドルリスに貨物船へ強制連行されたおかげ……?
――あれれ? ということは、僕のいまのこの状態は、ぜ~んぶレディ・ドルリスのせいってこと?
ふと、「怪物退治は魔法猫のお仕事ですわよ」という、レディ・ドルリスの言葉が耳によみがえった。
連想して思い出すのは、どこを見ても小っこいクラーケンがウゴウゴうごめき這いずり回る、魔界のごとき光景……。
「うえっぷ! だ、だめだ、思い出さないようにしなくちゃ!」
見物するだけならなんとか耐えられた。だが、アレは、あんなものは。ノワのような平凡な猫が関わるべきものではない。
クラーケンに囲まれたとき、レディ・ドルリスはノワに「しばらく見学していてくださいな」と言っている。
レディ・ドルリスは、ノワには見学させるだけのつもりだったのだ。
それをすこんと忘れ、小っこいクラーケンを見つけて勝手に狩ろうとしたのはノワだ。
猫は、都合の悪いことは、都合良く忘れるものである。
猫に限らず、たいがいの人間だってそうだけどね。
「僕、船乗り猫にはなれないや……」
ノワはそもそも船乗り猫になりたいと思ったことは無かったのだが……。
――ん? ということは――
ノワはガバッと跳ね起きた。
「船乗り猫ではない僕は、クラーケンを退治しなくていいってことだよね」
僕はいったい何を悩んでいたのかしら?
となると、残るはレディ・ドルリス言うところの「怪物退治は魔法猫のお仕事です」という理屈の方だが……。
――もしかして、陸上でも怪物退治があるとか……?
ゾゾゾッ!
形容しがたい戦慄が、ノワの頭のてっぺんから尻尾の先まで駆け抜けた。
まさか。
まさかね。
ブルブルブルッ、と頭を振る。
「やだやだ! あんな怖いの、もう、やだよー……」
海だろうが陸だろうが、怪物退治はノワの仕事ではない。怪物と遭遇するような場所へは、絶対に行くもんか。たとえ朝のご近所パトロールでも、怪物のいるような道には絶対に踏み込まない!……と、ノワは心にかたく誓った。
「僕、とうぶんゴハンとトイレ以外はベッドから動きたくありません!」
「あらあら、それはしかたがありませんわね。気がすむまでのんびりしてらっしゃい」
すっかりふてくされて寝込んだノワを、レディ・ドルリスは叱りもせず、かいがいしく世話をやいてくれた。
そして三日後。
ノワは寝るのに飽きた。一日に一六時間寝る猫だけど、退屈を感じるのはしょーがない。
ゴハンとおやつはフェスティ夫人が運んできてくれるし、レディ・ドルリスは朝昼晩と様子を見に来て、お母さんらしく毛づくろいまでしてくれる。
朝一〇時と午後三時には、レディ・ドルリスの息子のフワフワ子猫、淡いキジトラ模様のぼうやが訪れ、ノワと一緒に昼寝していく。
平穏無事この上ない、至れり尽くせりの生活とはこのことだ。
それは、言い換えれば、何も変化が起こらない、退屈な日常ということである。
――明日は朝のパトロールにいこうかな。
ふてくされていた手前、すぐに起きるのが気恥ずかしい。ベッドでコロコロ寝返りをうっていたら、夕方になって、マドロス船長がきた。
「ノワくん、ほ~ら。珍しい二本の尾びれのある人魚の干物だぞ~。面白いだろう!」
おみやげは、港で売っていた珍しい魚の干物だという。
マドロス船長はノワのベッド横にそれを置いた。
カチカチに乾いた長い干物。顔がすごく不気味に歪んで怖い。その顔のある頭部の下は首も胴も無く、二本の細い足のような尾びれがびろーんと長く伸びている。
ちょっと舐めてみたら、海の香りがした。でも食べ物ではなく飾りものらしい。食べるには長い時間お水につけたり、料理するのにすごい手間がかかるそうだ。
「まー、あなた! 体調の悪い子どもにホラ話を吹き込まないでくださいな。ノワさん、これは珍しいエイの一種の干物ですわ。人魚じゃありません」
「失礼な。売ってた店の店主が、人魚の肉は不良長寿の妙薬だって言ってたぞ」
マドロス船長は、むん、と胸をはった。
「それは伝説ですわ。おおかた『東の海で人間が人魚のミイラだと言って売ってるものだ』とでも言われたのではありませんの?」
「え、どうしてそれを!?」
「博物学の常識ですわ。それにこの値札に書いてある金額。大量生産されてるお土産の干物にしては高すぎますわよ。きっちり騙されましたわね。お小遣いから引きますわよ」
「ええ~、そんな~。うう、反省するよ……」
マドロス船長は撃沈した。
その頃、ノワが大好きな日課のご町内パトロールに姿を見せないという珍事について、あちこちで心配する良き隣人の姿が見かけられた。
まず、身近なところでは、人間の保護者であるフェスティ夫人が、季節ごとのお祭りや常ならば祝日などのご馳走に出すちょっぴり上等なレトルトパウチの猫食を毎食出してくれていた。
朝のパトロールの立ち寄り先である馴染みの喫茶店からは、特別に猫用アイスクリームが一リットル届けられた。これは本来ならパトロールのお礼として喫茶店の裏口から入らねば味わうことが許されない、特別な猫用おやつである。
――ご近所さんはみんなやさしいなあ……。
ただ一点、ノワは、どうしても気になることがひとつあった。
お見舞いを持ってきた人たちが玄関口で喋っていく内容である。
――ノワちゃん、かわいそうにねえ。
三日も寝込むなんて。よほど怖かったのね。
触手を吐き出して、胃はだいじょうぶだった? そう、それは良かったね。回復するまでパトロールはゆっくりお休みしてね……。
ノワのお見舞いに来てくれたご町内の人とご近所猫の全員が。
近くのスーパーマーケットの店員さんから、散歩コースの大きなお庭でおやつをくれるお屋敷の老婦人もが。
ノワが貨物船でクラーケンの触手を呑み込み、吐き出した顛末までをも、熟知していたことである。
「……レディ・ドルリス、どうして皆が理由を詳しく知ってるんでしょうか?」
「クラーケンは危険ですもの。予防策をたてるために、船会社の関係者にはすべて報告しましたわ。もちろん今後のために、白く寂しい通りにお住まいの魔法使いの方々、ほぼ全員へ、船会社から詳細が連絡されましたから」
正論である。
ノワが、いっそう落ち込んだことは言うまでもない。
そしてさらに三日が過ぎた。
「おーい、ノワくん。君にも感謝状が出たよ」
マドロス船長の勤める船会社から、『海の魔物クラーケン退治の感謝状』と、そこそこの礼金が贈られてきた。
「え、僕の分も?」
ノワは、ベッドの前に並べられた10枚の金貨をしげしげと眺めた。金色でピカピカしていて、とてもきれい。でもそれだけ。ノワにとっては真新しい光沢をした金色の金属にすぎない。
「でも僕、クラーケンを一匹もやっつけていないですよ?」
それどころか、やっつけられかけた。忘れかけたら思い出させられる、いやな思い出になりつつある。
「俺の手伝いをしてくれたと報告したんだよ。あの現場にいて、触手を噛みちぎるほど戦ったじゃないか。初めてでなかなかできることじゃないぞ。今回は本社の会長に、良い息子さんをお持ちですねって褒められたんだぜ。いいからもらっとけって!」
マドロス船長はうれしそうだ。
ちなみにマドロス船長の報奨金は、当座のお小遣いを除いた全額がすでにレディ・ドルリスの口座に入金済みだという。
なぜレディ・ドルリスの口座なのか気になったけど、マドロス船長の耳がイカ耳に倒れているのでノワはそれ以上追求するのをやめてあげた。
「でも僕、お金をもらっても使いませんよ?」
「あら、お金があると便利ですわよ」
「僕、猫ですけど?」
「あらまあ、魔法猫なのに、生活への向上心が乏しいですわよ、ノワさん」
「いえ、僕はふつうの猫ですから! レディ・ドルリスこそ、どうしてそんなにお金が必要なんですか?」
レディ・ドルリスだって猫である。
ともすれば、ノワよりも筋金入りの魔法猫である。暮らしに必要なことはたいがい魔法でやってのけるし、そもそも生活はフェスティ夫人というお金持ちの保護者がいる。
何不自由ないこと、まさに女王のごとし。
本当に魔法猫の女王さまであることはべつにして。
「月に一度の美容室では、いちばん毛に優しい高価なシャンプーとコンディショナーを指定できますし、トリミングには美容室でいちばん腕の良い美容師を指名できます。それに日々の食事ですわ。自分で食費を出せれば、日本産の無添加高級レトルトパックを選べますし、お気に入りのクッションが傷めば、自分で好きな布を選んで張り替えに出すこともできますのよ」
よどみなく答えるレディ・ドルリス。
「でも僕、美容院にはいきません。そこまでこだわった生活はしていませんし、これからする気も無いです。だって猫ですから」
ゴハンは、フェスティ夫人邸で毎日出してもらえる猫食で充分満足だ。
目先の変わったおやつが欲しければご町内をパトロールで一周すれば、食べきれないほどもらえる。
お金がなくても、ノワの生活は、じゅうぶん豊かなのだ。
「まあ、ノワさん。だってもへってもありませんことよ。あなただって魔法猫なのですよ。そして、この魔法使いの街である白く寂しい通りの住人なのですわ。これを機会に、白く寂しい通りの万能銀行へ口座を作ればよろしいわ。わたくしがノワさんの母親ですから、保護責任者として銀行までご一緒しますわ。そうすれば問題なく口座が作れましてよ」
正式名を『万能銀行』、通称『オールマイティ・バンク』とも呼ばれるこの銀行は、顧客をとにかく平等に扱い、あらゆる種族に分け隔てを置かぬことが特徴という。
白く寂しい通りに本店を置き、創業一〇〇〇年以上(確かな始業年は不明)、境海世界でも有名な老舗銀行だという。
「えー……でも、僕は猫ですよう?」
「ノワさんだって立派な魔法猫ですわよ。このわたくしが身元保証猫になれば何の問題もありませんわ。さ、万能銀行までご一緒しましょう。それともお金をそのままベッドに並べておくおつもりですの?」
よくわかんないけど、こんなふうにお金をベッドに並べておくのは良くないとノワも思ったので、レディ・ドルリスに任せることにした。
どのみちノワがお金を持っていても意味が無い。
今日はレディ・ドルリスの指示通りにして、後日、フェスティ夫人に渡してノワのゴハン代にしてもらえば良いだろう。
フェスティ夫人邸で出される猫ゴハンは普通よりも豪華らしい。
すなわち、普通の猫を飼うよりも必要経費がかかっている。人間はお金を必要とする生き物だから、フェスティ夫人も受け取ってくれるだろう。
ノワは単純にそう考え、お金をレディ・ドルリスからフェスティ夫人へ渡してもらうように頼んだ。
が、フェスティ夫人は、子猫からお金を受け取るつもりはないと丁重に断ってきた。
というわけで、ノワのお金はいつか使い道が決まるその日まで、全額を万能銀行へ貯金することになった。
この出来事から数日後。
まさかノワが、人間のようにお金を必要とするトラブルに巻き込まれるなんて、誰も、あのレディ・ドルリスさえも、夢にも思わなかったから……。
その日は、朝から霧がかかることが多い白く寂しい通りには珍しく晴天であった。
そう、とても珍しい出来事が起こる日にふさわしく……。
「ここね。当代の魔法猫の女王が暮らしている町は……」
その日、白く寂しい通りに、新参の魔法猫が二匹やってきたのを、ノワもレディ・ドルリスもまだ知らない。




