その六:お船にひそむ海の魔物
潮の匂いで鼻がムズムズする。
――海の近くは空気までしょっぱいや。
クシュンッ!
小さなクシャミがでたノワは、急いで両前足を舐めて顔をクルクル洗った。
レディ・ドルリスの尻尾の上に浮かぶ魔法の守護球の中にいるから、安全なのは確信がある。でもこの守護球、空気に含まれる塩分は問題なく通過させるらしい。
下を見れば、右側はたくさんの建物がある大きな港街。左へいくにつれ建物の数は少なく、大地の端っこが大きな三日月に似た形でエメラルドグリーンの海に浮かんでいる。内陸部へ海が引き込まれた形の湾なのだ。
外海から隔てられた湾内の波はおだやかで、青空には白い海鳥が飛び交う。長い桟橋には何隻もの大型船が係留していた。
――すごいな、お船が玩具みたいに小っちゃいや。これが空を飛ぶ鳥さんが見ている景色なんだな。
すごすぎて、ノワは高い空中にいることも忘れそうだ。
停泊している船のてっぺんには色とりどりの旗が風に揺れる。もう少し強い風が吹けば、旗の模様がわかるくらいにたなびいて、さぞかし壮観な眺めだろうに!
「おう、あれだ。あの貨物船!」
マドロス船長が一直線に駆け下りていく。
三日月形の港のとがりの先端あたりに停泊する一隻の大型貨物船を目指して。
その船の前方からは太いロープが一本伸ばされ、桟橋に設置された金属製の係船柱へ巻き付けてあった。
マドロス船長は甲板に降り立った。
レディ・ドルリスが、そのすぐ後につづいた。ノワは、レディ・ドルリスの尻尾の上に浮かぶ魔法球の中で変わらずちょこんと座ったままだ。
――クラーケンと遭遇するのもイヤだし、このままお家へ帰れたらいいのになー。
ノワは進行方向に向いて猫らしく香箱を組んだ。
魔法球の中はとっても楽ちんなのだ。本能で安全だとわかる。レディ・ドルリスがときどきこっちを見るけど、居眠りしてても何も言われないし。
「しずかですわね」
「乗員は猫もみんな下船したはずだからな」
マドロス船長は船室へ入る猫ドアを右前足で押した。
「ん? 開くぞ。鍵を掛け忘れたのかな」
「当直の猫が居るのではありませんの?」
「いや、船乗り猫に当直当番はないんだ。猫に二四時間勤務はできないからな」
猫は一日一六時間寝るという。魔法猫の船乗り猫でもそこは猫なのだ。
「まさかなあ……」
マドロス船長につづいてレディ・ドルリスも猫ドアをくぐると、その尻尾の上に浮いているノワも、魔法球ごと猫ドアをするりとくぐり抜けた。
移動中、ノワは後ろ足を前にあげ、右前足の肉球を舐めてお手入れしていた。透明な球体の内側はしっかり硬い。足を伸ばせば球面の内側のカーブにお尻が良い具合に安定するので足の毛づくろいが楽にできる。
「このあたりが乗務員の居住区だよ。船倉はこっちだ」
マドロス船長は明るい通路の突き当たりの、非常灯だけが照らす薄暗い階段を降りはじめた。下るにつれ、空気がだんだん冷えてきた。
「まあ、いやな空気だこと!」
レディ・ドルリスが忌々しげに言う。
ノワは少し涼しくなったと思ったていど。どうやら魔法の守護球は温度や雰囲気もそこそこ遮断するらしい。
――まあ、いいや。レディ・ドルリスが出してくれるまで僕は黙っていようっと。
よし、そうと決まれば、お昼寝だ!
ノワは体を丸め、両手で顔を覆った。
「おおーいッ! 誰かいるかッ!」
地下三階まで降りたマドロス船長は何度か大声で呼びかけていた。
応えは無い。
「やはり全員降りているな。当番の船員は来るはずだが、いつ来るかわからん。もしかしたら当番のやつが一日一回定期点検だけ来て、すぐ帰っているのかもしれん」
マドロス船長は人間が定期点検で来ることは知っていた。しかし、船乗り猫が休暇中のことだから立ち会ったことが無くすっかり忘れていた、と悔しげに語った。
「人間に被害が出ていないなら不幸中の幸いですわ。この間にわたくしたちで退治してしまいましょう」
「と、いっても、いったいどこにクラーケンの幼生が隠れているんだ? 上陸前日まで、船内も船倉も、俺たちが念入りにパトロールしてたんだぞ?」
「あら、この船なら、船乗り猫がパトロールで入らない場所が二つありましてよ」
「え? そんなところが!?」
「あるんですか?」
マドロス船長とノワの声が重なった。
「ええ」レディ・ドルリスはファサ、と尻尾を揺らした。「大浴場と海水タンクですわ。盲点でしたわね」
マドロス船長の長い尻尾がビッと伸びて毛がブワッと逆立った。まるで大きなタワシみたいだ。
「バラストタンクか!」
マドロス船長は低く唸った。両耳を後ろへ倒して平たくしている。
「マドロス船長、お船はお水に浮かんでいるのに、お水のタンクがいるんですか?」
ノワにも大浴場がお風呂というくらいはわかる。人間とはお風呂が必要な生き物らしい。猫にはまったく必要ないのに、『猫だってお風呂は必要だ』と、全身を丸洗いされるから困りものである。
でも、バラストタンクって何だろう?
「海水バラストってのがあってな。荷物が空っぽのときに船のバランスを取るため、海水を入れて重りにするんだよ。そのために海水を吸い上げる給水ポンプと放出口が、船体の外まで通じているんだ」
貨物船は荷物を満載した状態で安定する設計だ。積み荷が無ければ軽すぎて不安定になる。ようは転覆しやすい状態になるのだ。そこで荷物の代わりに海水でバラストタンクをいっぱいにして、船体の重量バランスをとるのである。
「海水バラストは船倉上部と船底の左右だ!」
方向転換して駆け出そうとするマドロス船長へ、
「侵入口からはもう移動していますわよ」
レディ・ドルリスはにべもない。
「じゃあ、どこだ?」
マドロス船長は苦りきった口調で訊ねた。
「ゴハンのあるところでは?」
ノワは単純に、お腹が空く生き物ならゴハンのあるところにいると思ったのだ。
「牛や豚のいるところですか? いいえ、そこにもいたでしょうが、ずっといるわけではありませんわ」
レディ・ドルリスは左肩越しにノワを見上げた。
「じゃあ、メシ以外は船体の排水口からタンクに移動しているのか?」
「あら、出入りしにくいタンクより、移動に便利な内部の大浴場ですわよ」
「だが、フロは人間用の真水だろ。あいつらは海の生物だ。いきなり真水に浸かったら死ぬんじゃないか?」
「無人の今はお風呂に水は入っていませんわ。魔物の本能で少しずつ海水を運んで貯めるくらいの時間はありましたでしょ」
レディ・ドルリスの解説に、マドロス船長はギョッと目を剥いた。
「すでに居住区へ出入りしてるってことかよ。魔法使いはいないんだぞ!?」
大浴場は上階にある。人間の乗員がクラーケンと遭遇したかもしれない。船乗り猫は全員が魔法猫だが、人間の乗員は魔法を使えない者ばかりなのだ。
マドロス船長が大慌てで来た方へもどろうとしたときだ。
ペチョ、ペタ……。
大人猫たちは、ピタリ、動きをとめた。
――なんだろ、変な音。誰かがお水をこぼしたのかしら?
ノワは下層へ向かう方向をジッと見た。
人間の乗組員がいないから天井に付いているのは非常灯のみで薄暗い。奥の暗闇から何かがやって来る。
ペチョペチョペタペタタタッ!
「あ、マドロス船長~ッ!」
濡れた足音を立てて一直線に走ってきたのは、
――あ、僕とおんなじまっ黒猫だ!
こんなところで真っ黒猫に出会うとは、なんという奇遇! 黒猫はそこらにいるようで、じつはかなり珍しい。黒猫が好きな魔法使いが多いとされる白く寂しい通りでも、ノワを含めて混じりけの無い真っ黒い被毛の猫は少数派なのだ。
「おう、クロスケ! まさか、ひとりで船に残っていたのか?」
「つい二度寝しちまったんですよ。それより緊急事態です、早くここから移動しないと!」
マドロス船長へ、黒猫は急いで駆け寄ってきた。
「船長と呼べって。うん? お前、臭いぞ。すごい汗じゃないか!」
「へへ、ちょっとビビっちまいやして……」
マドロス船長の指摘にクロスケは前足を足踏みした。
ペチョベチョッ。ひょいと持ち上げた右前足から、汗の滴がポトリと落ちる。
クロスケが来た通路の床には、点々と肉球の跡。
――え、あれが汗!? どこかで水たまりを踏んだわけじゃなくて?
猫が汗をかくのは手足の肉球と鼻先のみ。
ノワも緊張して肉球から汗を流すことはあるが、床に水たまりが出来るほど大量なんて、ありえない。
クロスケは異常な緊張状態にある。
「すいやせん、船乗り猫がなさけねえや。じつは船に魔物が出たんで」
「クラーケンの幼生を見たんだな」
「親分、なぜそれを!?」
マドロス船長の指摘に、クロスケはしおれていた尻尾をブワッと逆立たせた。膨らんだ尻尾は大きな黒いタワシみたいだ。
「あー、うちの奥さんの推理だ。あと、俺のことは船長と呼べ。それで状況は? どこでヤツらと遭遇したんだ?」
マドロス船長はレディ・ドルリスの方をあごで指した。この仕草は人間だと少々お行儀が悪く見えるが、猫は指させないのでしょうがない。
「見たのは牛のいるコンテナです。港に入る直前まで、ヤツらは小麦の船倉を食堂にしていたみたいですぜ」
「というと、牛か豚のコンテナの床に小麦の粒でも落ちていたか」
この貨物船は元来は穀物輸送船。米や小麦は粉にされる前の粒の状態で運ばれるものなのだ。
「さすが親分。小麦の船倉を覗いたら、三頭分の牛の頭蓋骨を見つけました」
「眠りの魔法を掛けられた牛は、出発時には三十頭いたはずだ」
輸送される家畜の頭数は、あたりまえだが厳格に管理されている。
穀粒コンテナの片隅にあるはずのない牛の骨の残骸を見つけたクロスケは、すぐに牛と豚のいるコンテナを確認しに行ったが……。
「俺が数えたら牛は全部で二三頭でした。七頭は確実に喰われたでしょうね。豚は未確認です」
「そして喰ったヤツらは喰った分だけデカくなっているってわけか。それでクロスケ、ひとりでどうするつもりだったんだ?」
「こっから下の、船倉に続く隔壁をぜんぶ閉めたんですがね、やつらも魔法生物だ、集団で破ってきやがるんです。だからこれから艦橋へいって、会社へ非常事態の連絡をするつもりでした」
話し終えたクロスケとマドロス船長が、耳をピクリと動かした。
レディ・ドルリスは、じっと通路の奥を見つめている。
「時間がないな。ここで止めるぞ。来い!」
マドロス船長はクロスケをしたがえ、クロスケが来た方へ走った。
レディ・ドルリスが追いかける。
疾走すること10秒足らず。
大きな金属製のドアに突き当たった。
アイボリーホワイト色のドアは船の通路や要所要所に設置されている隔壁となる扉、『水密扉』だ。もしも事故などで船体のどこかに穴が開いて水がたくさん入ってきたら、船は沈没してしまう。だが、その穴のある場所に通じる水密扉さえきっちり閉めれば、水を通さない隔壁となり、浸水による沈没を防げるというわけだ。
ズル、ベチャリ……。
ザワザワザワ……扉越しに、うす気味の悪い音が聞こえる。
――あっちに何かいるんだ……。
ノワはもっとよく聞こうと、耳をその方向へ向けた。
音が消えた。
マドロス船長が、レディ・ドルリスが、クロスケが、頭を低くしてかまえた。
そして――。
「……来ますわよ」
レディ・ドルリスが尻尾を揺らした。
カタタ。
猫ドアが小さく震えた。
「はは、さすが、小さくても海の魔物だ。ベテラン魔法猫の魔法錠をこうも丁寧に壊しやがるとは……」
クラーケンは海の魔物。その身に生来の魔法を持つ。そしてその触手は、ときとして人間よりも器用に動くのだ。
こちら側から魔法で完全ロックされたドアは、解錠も魔法でなければ開けられないはずが……。
猫ドアは、パカッと上に開いた!
細い触手が数本ニョロリと出て、引っ込み、また出た。こんどはもっと太めの触手が三本、同時に出た!
つづいて、てらてら光る丸いフォルムの頭も。大きな頭部は左右に広がった平たい耳つきの団扇みたいだ。
全体はイカに似ているその姿は。
――あ、クラーケンだ!
ノワも見覚えがあるその姿。レディ・ドルリスの魔法により、過去の怪物退治の時間で見せられた巨大クラーケンが、ミニチュアサイズになっただけ!
「来た!」
マドロス船長とクロスケが高く上げた長い尻尾をゆーらゆーらと揺らしだす。いつでも獲物に飛びかかれる猫の臨戦態勢だ。
案の定、クラーケンのミニチュアどもは歩を止め、空中で揺れる尻尾に目を引かれた。
こうして尻尾へ敵の注意を引きつけておきその隙に攻撃するという、猫特有の戦法だ。
たかが猫の尻尾と侮るなかれ。
この戦法で猫は、世界最凶といわれる猛毒の蛇コブラをも狩る。
マドロス船長がバッと前におどり出た。
「おらああああッ」
マドロス船長が右前足の一撃を喰らわせると、ノワくらいの大きさの幼生は吹っ飛ばされ、すごい勢いで通路の端へ飛んでいった!
ベチャッ!
そいつは壁に叩きつけられ、グチャッと潰れて青い体液を飛び散らせた。いったん壁にへばりついていたが、一拍おいて、床にべチョリと落下した。
――うえっぷ、気持ちワル!
ノワは両前足で顔を抱えた。でも、隙間からチラチラ見ちゃう。怖い物見たさだ。
そうこうするうちに、
パタパタパターン、パタパタパタ……!
猫ドアが連続して開閉する。
小さなクラーケンどもがぞくぞくと這い出てくる。まるで終わりの無い行列のように!
「うお、出た! 親分、出ましたぜ!」
「うわ、多い! くそ、このやろめッ!」
マドロス船長とクロスケは目にも留まらぬ早業で、右に左に猫パンチを振るう。
ガッ、ビシッ、バシッ、ドガッ!
ベチャッ、ベチョッ、グチャラッ!
「うう、音も気持ちワルイ!」
クラーケンの幼生は猫ドアからぞくぞくと出てくるが、ノワのところまでは来ない。
ノワは、マドロス船長たちが順番にやっつけてくれるのを見物していれば良いようだ。……だが。
――ん? 何もしないでいいなら、僕はここへ来る必要があったのかしら?
ノワの心のかたすみに、そんな疑問が湧いた。




