その五:怪物退治はまだ終わっていなかった!
「うおっと、ここまでだぜッ!」
猫ドアから飛び出した真っ黒猫のクロスケは、振り向きざま猫ドアの下部を右前足で叩いた。
カチリ、猫ドアの掛け金が下りる。船倉の最下層にある点検通路の猫ドアは、外側から掛け金式の鍵を掛けられるのだ。
万が一の浸水に備えた防水と、もちろんネズミ対策である。
船に乗り込むネズミもまた賢く、手先が器用な生き物のため、猫ドアをも利用して通路に出てくることがあるのだ。
「はあ、やれやれ……」
そのときだった。
カタタッ
猫ドアが揺れた。
「ひィッ!!!」
クロスケは両前足で猫ドアを押さえた。掛け金とはいえ、猫ドアも防水壁と同じ材質と構造、めったなことでは破られたりしない……はずだ。
そう、めったなことでは――。
カタ、カタタ、カタカタ、カタ……。
クロスケの、猫ドアを押さえた前足と、床に踏んばった後ろ足の肉球から、じわじわと大量の汗がにじみ出てきた。
「だ、だめだ、このままじゃ。ここから出て……」
猫ドアの表面を、肉球からにじみ出した汗が玉となってツツーッ、と、流れ落ちていく。
ふと、ネズミのことが頭をかすめた。
ネズミは自由に船内を徘徊する。
防水壁を閉めようがおかまいなしだ。猫が往き来できない狭い場所や細い通風口にも、時には壁を伝い上れるからだ。
ということは、ネズミよりは大きいが猫よりは柔軟なヤツらも、また同様にできるということで……!?
「い、いかん、逃げよう」
クロスケは猫ドアを、トンと軽く叩いた。
「〈封錠〉!」
ポワンッ!
猫ドアが光り、ピタリと揺れなくなった。簡単な魔法の錠前だ。これでしばらく保つだろう。
ドンッ!
一発、猫ドアが叩かれた。
クロスケはビクッと震え上がり、急いで猫ドアから離れた。
相手はただのネズミにあらず、まごうことなき海の魔物。ある意味、存在そのものが魔法な生き物だ。
「長くは保たねえな……」
クロスケは船倉の連絡通路の出口に向かって走った。
オレの臭いをヤツらは覚えた。ヤツらの敵はオレだ。海に浮かぶこの船にいるかぎり、オレを追ってくる。ヤツらをここより上層へ移動させてはいけない。
どこかに封じられる空間はないだろうか。
戦える十分なスペースがあって、ほかには移動できない適当な場所が……。
「くそ、こんなときマドロス船長なら……」
どこか、船内の下層のどこかに……!?
ぽたり。
前方の床に、天井から水滴が落ちた。
なまぐさい潮の匂いが、クロスケの鼻先に漂ってきた。
レディ・ドルリスを先頭に、マドロス船長とノワは白く寂しい通りを南へ向かって走った。
「あなた、会社の事務所に誰かいませんの?」
「今日は休みだからな。港湾局に連絡しても、船に事故が起こったわけじゃないし、そこから船会社に連絡がいったとして、警備員が来るまで時間がかかるぞ」
「なんてことでしょう!」
レディ・ドルリスは止まり、上を見た。
ノワも見た。
太陽は南にある。ちょうどお昼をすぎた頃合いだ。猫はお昼ご飯を食べないが、大多数の人間は昼食をすませ、いちばんのんびりしている時間だろう。
「では、わたくしが魔法使いを召喚しますわ」
レディ・ドルリスの全身がほわっと光り、光は空中へ離れて一瞬丸いボールのようにふくらんで、消えた。
「港湾局と多次元管理局へ連絡しました。わたくしの緊急連絡ですもの、誰かは駆けつけてくれますわ。わたくしたちは先に行きましょう!」
目指す港までは、人間の足なら、朝に出発して夕方に到着するくらいの距離がある。
白く寂しい通りを出て隣街に入ったところで、ノワは石畳にけつまづき、ペチョッと転んだ。
「も、だめ……」
限界だ。まだ半分子猫のノワが、大人猫二匹に遅れない速度でずーっと全力疾走なんて、無理だった。
猫は短い時間に素早く狩りをする瞬発力はあるが、長く走れる持久力はない。
そもそも猫は自分のなわばりの範囲直径一〇〇メートルくらいを、日がな一日ぐるぐる回って過ごす動物。たまに遠出する猫もいるが、たんに広めのなわばりを、のんびりゆっくり巡っているだけである。
レディ・ドルリスとマドロス船長は魔法猫。隣街へ来たくらい疲れたうちにも入らない。このまま全力疾走すれば、数時間で港に到着するだろう。
――こんな僕がのこのこ付いてきて良かったのかしら?
「ん? ノワくん、どうした?」
ノワが石畳にうずくまっていたら、マドロス船長が戻って来てくれた。
「あら、どうされましたの?」
かなり先を走っていたレディ・ドルリスは、ひとっ飛びでノワの前にもどってきた。
「あの、僕はここで置いていってください。お家に帰っておやつを食べて、毛づくろいして、ふかふかのおふとんで眠って、おふたりのお帰りをお待ちします」
さすがにこの場で即寝落ちするほど幼猫ではない。が、ノワは自分に「僕はまだ子猫だから」と心の中でリピートした。
だからここで脱落しても恥ずかしくないもん。
お家へ帰っておやつを食べて、明日の朝はふつうのパトロールにいく。
ノワの日常はそれでいい。海の怪物退治はいらないのだ。
「しょうがないなあ、ここから一人で帰れるか?」
マドロス船長はノワが疲れたのを理解してくれた。さすがは魔法猫の船員をたばねる船長さんである。
「はい、帰れま……」
ノワはよろこんで方向転換しようとした。
「何を言っていますの、ノワさん!」
しゅたッ! と、レディ・ドルリスが高速でノワのそばに移動してきた。
「クラーケン退治を実地で学ぶ絶好の機会ではありませんか。そうですわね、あなた?」
「お、おおう、そうだなー。海猫とちがって陸の猫は、めったに遭遇しないもんな。本物を見ておけば良い経験になる、ね。ははは……」
奥さんに逆らわないマドロス船長。
そうか、船乗り猫は海の猫でうみねこなのか。現実逃避しそうな頭でノワは、なんとなく新しい単語を覚えた。
でも、ウミネコって、海の近くにいる鳥のことじゃなかったかしら?
僕のあたま、疲れて回らなくなっちゃった?
もうっ、やだ!
ノワはふたたびペショッと石畳にお腹をつけた。
「うう、すいません~。僕はもう、足が痛くて、これ以上走れないんですぅ~」
かたい石畳を走ってきたので肉球が痛い。きっと明日は筋肉痛で一日中動けない。
だって小さい猫なんだもん。
「あら、それもそうですわね。あなた、時間が惜しいですから、『上』を行きますわよ」
「おう、行くぜ!」
レディ・ドルリスとマドロス船長は石畳を蹴り、たちまち空へ駆け上がった。
「ええええッ!!!」
レディ・ドルリスとマドロス船長が空中に浮かび、ノワを見下ろしている。
「さ、ノワさん、早くしなさい。非常事態ですのよ」
「むむむ、むり、無理ですよおッ! 猫は空を飛べませんッ!」
「なにをおかしなことを。ご存じでしょ、魔法猫が空を駆けるのを」
「あッ!」
そういえば、クラーケン退治の時間の中で、マドロス船長達は空中を駆けていた。
魔法猫の常識は猫の非常識、でたーッ!
「しょうがないですわね」
レディ・ドルリスがフワフワ尻尾を一振りした。
キラキラ、光の粒が降ってきてノワを包み、空中へと持ち上げた。
「ひきゃあああッ!?」
ノワは空中に浮かんだ。光の粒々がノワの回りでキラキラ輝く。手足をジタバタ動かしたら、突っ張った肉球が、まるみを帯びた外殻らしきものに触れた。目には見えない頑丈な水晶玉の中に居るような感じだ。
「ほええ~?」
ノワはちょこんとお座りした。すごく護られている安心感がある。この中にいれば絶対に落ちないし、何が襲ってきても、たとえクラーケンがきても、大丈夫な気がする。
「さあ、行きますわよ」
レディ・ドルリスは出発した。
空中を駆け上がる。
体を丸めたノワは、レディ・ドルリスの尻尾のすぐ上に浮かんでいて、レディ・ドルリスが走る速度で運ばれていく。ノワが入っている透明な球をレディ・ドルリスが引っ張っていくみたいだ。
雲がどんどん大きくなってくる。
白い雲のすぐそばをレディ・ドルリスとマドロス船長は駆け抜ける。
巨大なわたあめみたいな雲のかたまりが、ビュンビュン横を流れていく。
――あ、僕、走ってさえいないや。
こうなったら、ここで落ち着くしかない。
ノワは目には見えない球体の中でお尻を落として座り、せっせと毛づくろいをはじめた。困ったり、焦るような気分になったとき、たいがいの猫は毛づくろいをして落ち着くのである。
「なあ、クラーケンは俺たちが退治したはずだ。いったい船の何があぶないのか、そろそろ説明してくれないか?」
マドロス船長は走りながら、レディ・ドルリスへ話しかけた。
「雌でしたのよ」
「なんだって?」
マドロス船長は驚きのあまり、両耳をピピッと動かした。
「その種のクラーケンは、雄より雌のほうが体が小さいのですわ」
レディ・ドルリスは前を見すえたまま、さらに走る速度をあげた。
「なるほど、そうか。しかし、いつもより凶暴なやつだったぞ?」
「問題はそこですわ。アレらは餌を狩るのに雄も雌もないはずでしょう。たまたまひどく餓えていた可能性もありますけど、高速で進む人間の船を狙った理由があるはずです」
「船を、獲物の鯨とかんちがいして襲ってくるという説があるが……?」
「アレとて魔物の一種。魔物なりの知恵がありましてよ。船には人間をはじめ、食料になるものが大量に積んであるのを知っているのですわ。何の貨物船でしたの?」
「んー、通常は穀物輸送船だよ。主に小麦と米だ。今回は珍しく繁殖用の生きた雄牛と生きた雄豚を三〇頭ずつ積んでいたが。でも、魔法で冬眠状態だったぞ。静かなもんだ」
「あらあら、すごいご馳走ですこと。生きた牛と豚の匂いならば、魔物でしたら、海上からでも嗅ぎつけられるでしょうね。手軽に豊富な栄養を取れると感激さえして」
「そうだな、クラーケンは肉食だ。しかし、そいつは海にいるときに、俺たちが仕留めたんじゃ……?」
「そこがおかしいのですわ。海の怪物といえども野生生物、弱肉強食は自然界のことわりとはいえ、戦況不利になった時点で海へ逃げるという選択肢はありますのよ。なぜズタズタになって死ぬまで戦ったりしたのでしょう。魔物にも生存本能がありますのに」
「いや、でも、港に着くまで平穏だったぞ。甲板に散らばっていたやつの肉片は魔法で始末したし、いまになって俺たちの船にどんな危険があるっていうんだ?」
「あなた、生きた牛と豚は、まだ全部が上陸していないのではありませんか?」
レディ・ドルリスの指摘に、マドロス船長の尻尾の毛がブワッと膨らんだ。
「そうだ! まだ眠りの魔法がかかっていて、船に乗ってるやつがいた!」
「マドロス船長、お船は無人じゃないんですか?」
ノワは、前足で抱えていた後ろ左足の肉球を舐めるのをやめて訊ねた。
「つまりな、人間と猫の乗組員は下船したが、積み荷の生きた家畜はまだいるんだ。だから人間の乗組員が、交替で当直しているはずだ」
「お船は目的地の港に着いたんでしょ? なのに積み荷はそのままなんですか?」
「検疫があるんだよ。俺も上陸してから帰宅まで時間がかかっていただろう。検疫期間は特定の場所にとどまって、航海の間に病気にかかっていなかったか、船会社の専門医の検査を受けていたのさ」
大型の生きた家畜は、無機物の船荷よりも検疫期間がうんと長い。
いったん船で待機、それからコンテナごと船から下ろすが、所定の場所に移動して、そこでまたしばらくの待機期間がある。
その間に専門の検査官や獣医によって、危険な害虫が付いていないか、伝染病の保菌家畜ではないかなど、何度も検査をするのだと、マドロス船長は説明した。
「それですわ。これから成長するクラーケンにはすばらしいご馳走ですわね。しかも眠りの魔法で動けないんですもの。食べ放題だわ」
レディ・ドルリスの発言に、マドロス船長は空中でピョンと跳び上がった!
「そうか、船を襲ったのは、クラーケンの幼生に豊富な餌を与えるためか!?」
「あのー、ヨウセイってなんですか?」
ノワは空中で落ちない安心感から、見えない球体の中でコロンコロンと転がってリラックスしていた。
「幼生とは、幼いこどものことだ。この場合は生まれたばかりのクラーケンの赤ちゃんだよ」
マドロス船長が教えてくれた。
ノワはふわんふわんと空中を運ばれながら、怪物退治の時間を思い出した。
あの中に、クラーケンの赤ちゃんなんていたのかしら?
甲板のそこいら中で、クラーケンの一部がウゴウゴ蠢き、食いちぎられた肉塊はビクビク震えていた。ちぎれた触手の先端はどろりとした青色の体液をふりまきながら、ビチビチと跳ねていた。
あれはおもわず目を背けたくなるドロドロのグチャグチャな光景だった。
――うえっぷ、思い出しちゃった。
ノワは両前足の肉球で口を押さえた。
魔法猫たちの目はクラーケンに注がれていたし、人間の乗組員は全員が船室で眠りの魔法に囚われていた。ノワが腰を抜かしているのに気づいてくれたのは、サビ柄の猫一匹だ。
しかしあのとき、甲板上で蠢く触手の切れ端の、その先端よりも小さな何かが、あの騒ぎに紛れて船に侵入していたら。
だれも気づかなかった可能性はある。
「小さくても魔物。もし船内に潜んだ幼生が複数いたら、どうなるでしょう?」
レディ・ドルリスはチラリとマドロス船長に横目をくれた。
船はすでに港に入り、乗組員はいちど全員降船している。でも、家畜は検疫中だ。定期的に誰かは様子を見に来る。
ひとりで船内を巡回したとき、それに遭遇してしまったら?
マドロス船長は速度を上げつつ、ますます耳をうしろへ平たく倒した。焦っているようだ。
「クラーケンの幼生なら、船のどこにでも隠れられる。成長期のクラーケンの食事は貪欲そのものだ。幼生一匹なら人間だって負けはしないが、数匹集まれば、人間ひとりくらい跡形無く食い尽くせるな」
「えええッ!? 大変じゃないですか!」
ノワが叫ぶと、レディ・ドルリスは走りながらも上のノワの方へ顔を向けた。
「ですからこうして急いでいますのよ」
ビュンビュン風を切りながら、雲に近い空を駆けることおよそ一時間。
安定して運ばれるのにすっかりリラックスしたノワが、ちょっとだけと思ってお昼寝もしていたら、潮風の匂いで目が覚めた。
前方に見える緑の大地の端っこが、三日月型に大きくカーブしていて、そこからは真っ青な水の色が広がっている。
海辺の街と、港のある眺望が開けてきた。
※※※注釈:
ウミネコ……このお話では陸地にいる猫を陸の猫、船乗り猫のことを海に生きる猫の意味で海猫と言っています。また、海の近くに生息する鳥の総称としても使用しています。ようは単なるダジャレです。
実存するウミネコとは、海の近くに生息するカモメ科の鳥類の一種です。




