その四:怪物退治の時間
――なんか生臭い。
ノワはヒクヒクと鼻を動かした。
風は吹いている。なのに生暖かい嫌な臭いが、ずっと風に混じっている。
と急に暗くなった。
「はれれ?」
ノワの上に、影が落ちてきた。
甲板いっぱいを覆い尽くす巨大な影が。
「え?」
ノワは上を見た。
船縁から何かが昇ってこようとしている。
大きな丸っこいシルエット。
「う、わ、わ、あわわわ……」
赤黒い頭は巨大。
ギョロリと動く真っ黒な目玉。クチバシから頭頂までは三階建ての家の屋根よりも高く、その顔面の左右の幅は、そんな家二軒がすっぽり入るほどであろう。
甲板の上で、船縁から伸びてきた二本の触手が、ゆらりゆらりと揺らめいている。三本が巨大な頭部の後ろでチラチラと動いている。触手はたくさんあるのだ。それを使って船の外壁を登ってきたのだろう。
ノワは、へちょ、と腰を抜かした。
逃げたいけど、動けない。
怖いから見たくないのに、目を逸らせない。
ここまで来て、まさに目の前にして、これからどうなるのかを見届けない方が、余計に怖い。
そうか、これが怖い物見たさというやつか。
ノワはガタガタ震えながら納得した。
「ん?」
ノワの真正面に触手が一本、立っている。
1の字みたいな形のそれが、まさにノワの方へと振り下ろされた!
「あぶねえッ!」
「ぴゃッ!?」
知らない声がして、とつぜんノワの首の後ろが痛くなり、体が宙に浮いた。
次の瞬間、ノワはブワッと生臭い風に包まれた。
触手が甲板を叩いたのだ。だが、触手はノワに触れず、ノワは空中を飛んで移動していた!
ノワは両前足を突っ張った。
肉球が触れる足場は無い。
「ぴギャーッ!?」
子猫みたいな悲鳴を上げた。子猫みたいに首の後ろを咥えられている。
ノワは空中をぐんぐん上昇した。空中を移動しながら、甲板を眺め下ろしていた。
真下で三本の触手が甲板を叩き、バシンと痛い音をたてて大きく跳ね返った。
あっという間に甲板が遠くなった。
もうだめだ、と思ったとき、お尻がストンと固い床面に当たった。
「はれ?」
甲板が見下ろせる場所に、下ろされた。
「おい、あんな所で座り込んだらあぶないぞ!」
右にヌッと猫が顔を出した。サビ柄の猫だ。マドロス船長と同じくらい大きな体格の、濃い灰色地のキジトラ模様に、藁みたいな濃い黄色の毛が目立つ。
「おいこら坊主、だいじょうぶか。ケガでもしたか?」
「いへっ、だい、じょうぶ、でふ……」
噛んだ。
視界が涙でにじむ。猫だって泣く。とくに泣き虫な猫はよく泣くのだ。だって猫だから。
ノワはプルプル震えた。このすべてはレディ・ドルリスが見せている幻影……だとわかっていても、怖いものは怖いよぉ~。
「ははあ、さては海の魔物を見るのは初めてか」
怪物はゆっくりと甲板へ上って来ようとしていた。
あれが海の魔物? でも、どこかで同じ生き物を見たことがある。
「あの、もしかしてあれは、猫は食べちゃいけないって言われる海の生き物の、イカっていうやつの、大きいのでは?」
「子どもなのによく知ってるな。はは、たしかにイカに似てるぜ。これが魔の海の怪物〈クラーケン〉さ」
海の怪物はシーサーペント。その中でも、タコやイカみたいな怪物はクラーケンと呼ぶそうだ。
「初めて見ました……」
できれば一生お目にかかりたくなかった。嫌な予感が大当たりだ。
ノワはつくづくサンルームから逃げられなかったことを後悔した。
「あれ?」
でも、なにか変だ。
ここにいる理由はレディ・ドルリスの仕業で間違いないけれど、いま、なんだかものすごくおかしなことが起こらなかったかしら?
ノワは震えが止まった。前足で急いで涙を拭う。
「いま、僕に話しかけてきたおじさんッ!?」
「おう、なんだ」
まだいたサビ柄猫がノワへ顔を向けた。
てか、ふつうに返事された!
「いえ、その、なんで僕と話ができるんですか? これはマドロス船長の記憶の中の幻影ですよね?」
「なにをいってんだ坊主。マドロス船長ならあそこにいるじゃないか」
また坊主って呼ばれた。気のせいではなく、しっかり認識されている証明だ。
「え? あ、ほんとだ」
マドロス船長は甲板にいた。頭を低くして、怪物が船縁を登り切ったら飛びかかれるよう、待ち構えている。
「いや、それはそうなんですけど、おじさんはどうして僕とお喋りできるんですか。だってここは過去の記憶の中ですよね。つまり、変更できない時間の中ですよね?」
「坊主、お前、さっきからなにをごちゃごちゃ言ってんだ。さては、猫狩りにむりやり攫われてきた陸の子なのか? やれやれ、こんな子猫を誘拐してくるとは、とんでもないスカウトがいたもんだな。マドロス船長に言ってすぐ親元に帰れるようにしてやるからな」
「いえ、あの、ちがうんですけど」
「いいからさがってろ。こいつ、やけに凶暴だからな――ほら来た!」
ドシン!
怪物の触手が数本、甲板の上を這い回り、平たい頭部の半分が、甲板へ乗った!
マドロス船長が、ヒュッと長い尻尾を振り立てたのが見えた。
「やろうども、いくぜ! 存分に引き裂いてやれ! ただし絶対食うなよ」
猫は軟体動物を消化できないのだ。
「おう!」
猫たちがダダッと甲板を走った。
ダンッ! と力強く甲板を蹴り、マドロス船長が、猫たちが、つぎつぎ宙へ駆け上がる。
いまやクラーケンは、その全容を甲板の上にさらしていた。海水に濡れた全身は月光を浴び、赤黒くぬめぬめと光っている。巨大な頭とその下の大きな目玉と猛禽類にも似たクチバシ、そこから下には首も胴もなく、太く長い一〇本の触手が甲板の上でうごめいている。
ギョロリ、怪物の黒目が動き、月光を反射して艶やかに光る。
マドロス船長を目で追っている。
触手が数本、宙を探るようにさまよった。
空中を駆けるマドロス船長はすばやく触手を避け、クラーケンの頭の後ろへ回り込んだ。
ノワからマドロス船長は見えなくなった。
クラーケンが前後に頭を動かした。
空中を駆け回っていた猫たちが、甲板へと駆け降りてくる。
「おらおらおら、こっちだぜ。どこ見てやがる!」
空中をさぐる触手が振られ、急降下した猫たちを追って甲板をあちこち叩いた。
が、もちろん猫は一瞬たりととどまっていない。触手はむなしく空気を掴む。その隙を狙って空中から駆け下りた猫が、こちらでは前足で押さえつけて爪で引き裂き、あちらでは牙をたてて食いちぎった!
その間にも、マドロス船長が空中高く飛び回るのをクラーケンは目で追い、二本の触手を振り回して捕まえようとしていた。
「フシャアアアッ!」
あちこちで猫の雄叫びが上がった。
他の猫たちは甲板に近い低空飛行で、個別に触手を攻撃していた。
クラーケンがマドロス船長を捉えようとしている間に、一本、また一本と、触手が食いちぎられる。するどい爪で引き裂かれ、細かく分断された触手は、たちまち甲板上に散らばった。
ぶおぉおぉおおおおーッ!
クラーケンの咆哮が大気をふるわせた。発した声というより、空気を吐く音のようだ。
ひときわ空中高くから、一匹の猫が風よりも速く飛来した。
もっともクラーケンの近くを飛び回っていたマドロス船長が一度高く高く飛び上がり、急降下してきたのだ。
気づいたクラーケンがグワッと開けたクチバシを躱し、まだ残っている触手の隙間を縫うように飛び抜けていく。
ザシュッ!
そんな音が聞こえたような気がした。
クラーケンの赤黒い頭部に、真横に走る青い裂け目ができていた。そこから青く光る液体がだらだらと流れ出した。クラーケンの体液だ。
ぶぉおおおおおおーッ!!!
不気味な唸りが大気を震わせる。
クラーケンは怒っている。憤怒の息を吸い込み、吐き出しているのだ。
「ふわあ、すごい……!」
ノワはいまや興味津々で、目を見張って眺めていた。
マドロス船長たちが勇戦しているから強気というのもある。
なによりノワのいるこの場所は船の真ん中の、人間の居る建物の屋根の上だ。すなわち甲板のクラーケンが暴れたとしてもいちばん遠く、安全なのである。
本来ならば『当直』という役目の人間の乗組員が、夜の間も起きて見張っているのだが、今夜は皆床に倒れて眠っている。
起きているのは猫たちばかり。
魔法猫の船乗り猫たちは振り回される太い触手に取りつき、食いちぎり、引きちぎっていく。
何本もの食い千切られた触手の断片が、甲板の上をビチビチ跳ね回り、動かなくなる。
ドカッと、太い触手が降ってきた。
「ひえええッ!?」
ノワは腰が抜けた。触手は動かなかった。食いちぎられ、投げ捨てられたいきおいで、ここまで飛んできたのだ。
ぶおお、ぶおおおおおおーッ!
周囲を飛び回る猫を捕捉することをあきらめたクラーケンは、頭の上以外が青黒い体液にまみれ、動きはあきらかに鈍くなった。
「引けッ!」
マドロス船長の声が響き渡り、クラーケンの周りを飛び交っていた猫たちは、いっせいに離れていった。
ゴウ!
激しく燃える音がした。
クラーケンの背後がすごいオレンジ色に輝いている。ノワのいるところにまで熱い空気がぶわっと吹き付けてきた。
「火ッ!?」
クラーケンの頭の後ろですごい炎が燃え上がり、消えた。
また、ゴウッ!、と炎が上がった。クラーケンの後頭部を光炎のごとくに包み、あかあかと燃えあがる。
クラーケンは、まだそんなに動けたのかと思うくらい、激しく頭を動かしてから、急に動きを止めた。
そして、甲板へ……――細かく分断され撒き散らされた自分の触手の残骸の上へ、ドウ、と倒れた。
わずかに残された触手もズタズタで、もはや体を支える役に立たなかったのだ。
ぶおぉ、ぶおー……。
クラーケンの吹き出す生臭い呼気が甲板に漂った。ノワの居る建物の上にまで、生臭い風が波のように移動してきた。
ぶ、おおー……。
クラーケンの音が、止んだ。
ぶっしゃあああーッッッ!!!
「な、なに、いまの音!?」
クラーケンの頭部が破裂した音だった。
横の裂け目が大きく広がり、クラーケンの中身がぞろぞろとあふれ出て、甲板へぶちまけられていく!
ぐじゅるじゅるじゅる、ぐじゅじゅ……。
クラーケンがもがくように動くたび、青黒く光るグチャグチャなものが甲板に広がりゆく。生臭い空気がモワッと、ノワのいる高い場所にまで押し寄せてきた。
とっさにノワは息を止めた。
「ぷはーっ! はー、はー……だめだ、苦しい。う、うげえッ!?」
臭い、臭すぎる。とんでもない臭気に全身を包まれている。もう一回息を止めてみた。やはり一秒ともたない。だって猫だし。そんな器用な芸当はできなくて当たり前だ。
ノワはあきらめ、ふつうの呼吸を再開した。
「うええええ、生ゴミと海水が混ぜ合わされて腐りきった臭いだ~~~」
くちをぱかーっと開けた。きつい匂いを嗅いだときに猫がするフレーメン反応だ。それでも足りず、ノワは両前足の肉球で鼻を押さえた。
「うまいこというな、坊主」
サビ猫が降りてきた。
「ふがぁ、おじさん、だいじょうぶですか?」
「おお、あんがとさん。触手が落っこちてきたようだが、だいじょうぶだったか?」
「ふわい。とってもくちゃいですけど」
「もうだいたいカタがついたからな。そろそろマドロス船長がとどめをさして終わりだ」
マドロス船長と猫たちが、甲板に近い場所に浮かんでいた。
メチャクチャになって倒れているクラーケンの頭の真正面だ。
カッ! と雷鳴にも似た音がした。
魔法猫たちがまばゆい光を発していた。
光に押されるように、クラーケンの死骸が甲板の上で動いていく。
やがてそのほとんどが、船縁から押し出され、海へ落ちていった。
バッシャーンッッッ!!!
海面に落ちた音は存外に小さくて、ノワは拍子抜けした。
「ほら、終わった。なんか、いつもより軽かったかな?」
サビ猫が言った。
ノワは急にクラッとした。
景色がぐーるぐーる回り出した。
たちまち視界が小さく狭まり、横にいるサビ猫が見えなくなった。
サンルームの床に、ノワはべちょっと横たわった。
「ぼへええぇええ…………」
体は床に寝転んでいるのに、景色はまだ回っているみたいだ。頭もクラクラする。
「ノワさん。シーサーペント退治の方法は学べまして?」
「ふわあ、はい……」
学びたくもなかったが、あのものすごい怪物とマドロス船長たちの戦いは、記憶に焼き付いた。一生わすれないだろう。
「触手が、触手がビチビチッって……さいごはグチャグチャでした~……」
ようやくクラクラが治ってきたノワは、何度も顔を洗い、体の毛繕いをした。猫は落ち着くためにも毛繕いをするのだ。
「まあ、ノワさんにはそんなふうに見えましたのね。でも、やはりあれはそうなんだわ」
レディ・ドルリスがスクッと立ち上がった。
「さて、あなた。過去の時間を検証した結果、わたくしの疑念が当たっていたようですわ。いまは休暇中と言うことですけど、船に残っている乗組員がいれば、あぶないかもしれません」
「え、急にどうしたんだい、おまえ?」
マドロス船長は香箱を組んでくつろいでいた。ノワがトリップしている間のんびり待っていたようだ。
「あなた、急いで会社に連絡を!……いえ、クラーケン退治からすでに十日が過ぎていますわ。会社の対応を待っているのでは遅いかもしれません。わたくしたちですぐに船へ行きましょう。さあ、はやく!」
「お、おお。わかった」
マドロス船長がせかせかと猫ドアから出て、レディ・ドルリスがつづいた。
クラクラがやっと治ったノワも、慌ててレディ・ドルリスの後を追った。
ずっとあとで、このとき付いて来いとは言われていなかったと、気づいたが……。
後の祭りであった。




