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一六.意味がわからない

すみません。かなり修正しました。

「う……。いや、それは……」


 健一郎が見てきた中で、初めてネストル王子が表情を出した。

 いつもの冷静な王子の仮面が剥がれて、中学生らしい顔だった。

 ネストル王子は術式に興味があるようだと察した健一郎は、もう少し押してみることにした。


 なにしろ二日後には出発するのに、それまでに全部調べられるとは思えない。

 もちろん頑張ったらできるのだろうけれども、今の健一郎にはそこまで熱心に見たこともない外国語に情熱を燃やす気力がなかった。


「俺はネス王子に名前を縛られているから、ネス王子にとって不利になることはできないし、逆らえないんだろう? メラン王国になにかするつもりもないけど、もし危険を感じたら、ネス王子はその力でいつでも俺を止められるはずだ。それでも不安なら、術研究者と同じように術をかけてくれてもいい」


「そうですね……でも……」


 もう一押しか、と健一郎はさらに言葉を続ける。


「術の知識もない俺だけ知ったところでさっぱりだから、一緒に調べてもらえると助かるんだけどな」


「!」


 すっとネストル王子が無表情に戻った。

 しまった。失敗したか、と健一郎は焦ったものの顔には出さない。


「ケンの言い分はわかりました。けれども、私の一存ではなんとも言えませんので、その返事は明日まで待っていただきます」


 え。これどっちだ? うまく乗せられたのかどうかわからない健一郎の前で、ネストル王子は立ち上がった。


「もう遅いです。続きは明日にしましょう」


「あ、あぁ。疲れてるところ引き止めて悪かったな。来てくれてありがとう。おやすみ」


「……おやすみなさい」


 ネストル王子が部屋を出ると、健一郎はふぅと息を吐き出した。

 いい交換条件だと思ったんだけどな、とベッドに横になる。まぁ歳相応の顔が見られただけでもよしとしよう。


 もともとの健一郎は、目の前のことをがむしゃらに精一杯やって勝ち取るのが一番いいと思う、脳筋よりの男だった。

 体を壊す前までの健一郎なら、今からでも辞書を借りて徹夜する勢いで調べただろう。

 でも今は、自分の意思とは関係なく、以前のような『やる気』や『好奇心』や『欲』といったものが出ない。

 『なにか食べたいな』と思っても『なければ食べなくてもいいか』という冷めた感じだ。


 体を動かせなくなって家にいる頃から、どうして体を壊してしまったのか考えるようになった。


 悪いのは周囲だと周囲を恨む気持ちに襲われるダークサイドに落ちていた時期もあったけれど、恨むのにだって気力がいる。

 無気力になってしまった健一郎には、ずっと恨み続けることすらできなかった。


 動けない間、どうしてこんなことになってしまったのかとぼんやり考えた。

 自分でした方が早いから、たいした量じゃないからと、仕事を引き受けていたのが悪かったのだろうか。

 視点を変えて、自分の行動を後輩がしていると想像すると、健一郎は「手伝うよ」と手伝ったり、「一人で無理するな」と声をかけて仕事の割り振りを替えたりするだろうと思った。

 実際に健一郎が仕事をしている時には引き受けすぎている自覚はなかったけれども、明らかにやり過ぎていた。

 よくよく思い出すと、仕事場で声をかけられたことは何回もあった。

 でもそれは「手伝うよ」ではなくて、「よく頑張っているね」「助かるよ」という言葉だけで、実際に誰かが物理的な仕事量を減らすことはなかった。


 自分から助けを請うべきだったのか、と思うそばから、みんなができるようになった方がいいという気持ちからだが、初めは自分から皆に伝えていたことを思い出す。

 最初は仕事仲間に伝えたが「勝手なことはできない」と言われ、それもそうだと、すぐ上の上司に言った。でも「口頭ではどうしようもない」と言われたので紙にまとめて提出した。

 提出してからも変わらなかったので、今度はもうひとつ上の上司に提出したら「システム自体を変えなくてはいけないから難しい」と言われた。

 それならと新しいシステムを書いて提出すれば「そんなことはできない」と言われた。「だいたい今でもまわっているんだから、変える必要はないだろう」と。


 健一郎には意味がわからなかった。


 現場が混乱しないように、先回りして手を尽くしているのは健一郎だ。

 でも、それができるのは健一郎だけで、健一郎が休んだ時は困った状況になるので、健一郎はなかなか休めない。

 だから仕事を覚えてもらおうと他の職員に伝えても響かず、上司に訴えても「今は問題がないのだから」と退けられる。


 問題が起きないから聞いてもらえないのか? 問題が起きないようにしている俺が悪いのか?


 現場で困っているから問題が起きる前に対策を立てて欲しいと言い続けたものの納得してもらえない。むしろ言い続けることで雰囲気が悪くなるのを感じて、健一郎はなにも言えなくなった。


 あそこで諦めなければ良かったのか?


 でも、あれ以上言い続ければ、もっとギスギスした環境になっただろう。

 結局、健一郎は口を閉ざしてすべての負担を自分で背負うことにした。


 今なら、健一郎の体が壊れた直接的な原因は、仕事量が多かったからだとわかる。


 でも、他に、どんな道があったのだろう?


 健一郎は解決策を未だに編み出せないでいた。


 仕事に導院に家にと全力で応えてきたけれども、逆に言えば、健一郎は健一郎自身をないがしろにしてしまったのだろう。

 自分が頑張ればそれでなんとかなるのだからと、健一郎は周囲の助力を諦め、無意識に自分を酷使した。

 その結果が、今の無気力で動けない状態なのだ。

 もう限界だと、電気のブレイカーが落ちるみたいに、心が勝手にスイッチを切ったのだろう。


 ただ、理由がわかっても動けないから健一郎は困った。

 もう同じような間違いはおかさないから動きたい。

 そう思えるようになっても動けず、自宅待機状態で日が経つにつれ、家族からの視線が冷たくなった。 


 働けない成人男性を何ヶ月も住まわせてくれるのだから、両親には感謝していた。

 このまま少しずつでも回復していけたらと思っていたけれども、そんな時間はもらえなかった。

 「働かずに家にいるなんて」「だいたい働き過ぎだ」「あんたどんな超人のつもりなのよ」という矛盾していても正論の数々は、聞き流すことはできずに、だんだん居心地が悪くなっていった。


 だから祖母宅に住み込んで祖母の面倒をみることは、健一郎にとっては正論から逃れられてありがたかったし、両親にとってもちょうど良かった。


 他の親戚から「健一郎君がいて良かったわね」と言われて「ほんと役に立つ子で」と笑う母親の姿に、ああ、仕事場と同じだな、とぼんやり思った。

 親戚も母親も誰も健一郎の仕事を手伝ったり肩代わりしたりはしない。

 きっと誰もが自分の生活で手一杯だから、それ以上はできないんだろう。

 端から見れば、健一郎は『介護職についていて今は家にいる成人男性』なのだ。

 職場での健一郎が『よく気のつく世話好きで人好きのする介護員』だと思われていたように。

 中身が疲弊してボロボロかどうかなんて、健一郎にだってわからなかったのだ。外からもわからない。

 健一郎はだんだんと少し未来を描くことができなくなっていった。


 体を壊した直接的な原因は仕事量の多さだったかもしれないが、追い打ちをかけたのは、精神的に立ち直れなくさせたのは、周囲だ。


 いじめにあった子供が自殺したり、無理心中する老老介護のニュースを見て、健一郎はその行動を取る気持ちがわかる気がした。

 勝手な想像だが、子供だって誰かに相談したはずなのだ。でもなぜか、相談すればするほど、いじめの問題から遠ざかったんだろう。

 問題を解決したいから相談したのに、どうしてか問題の証明が求められ、問題も子供も親も否定され、相談する相手の数だけ『問題自体を正確に伝えること』が必要になったのだろう。

 当事者は問題を解決したいだけなのに、なぜ問題の前に『相手に問題を理解してもらうという難題』が増えるのか。

 それなりに歳をとった健一郎でさえ「意味がわからない」と思うのだ。心の柔らかい子供なら絶望するのも早いだろう。


 「わたしの言葉は誰にも届かない」と。

 それは「この世界にいないのと同じこと」だ。だから死に向かってしまうのだと健一郎は思う。


 実際、健一郎も何度も考えた。

 祖母と自分で無理心中すれば早いんじゃないか。その方が簡単じゃないか。もうこの世界に希望が持てないんだから。

 解決や快方が望めない状態で現状を維持し続けることは、魂を削るような心地だ。


 健一郎がもっと若ければ勢いで行動できたかもしれない。「こんな家出て行ってやる」と飛び出せたかもしれないし、さくっと死ねたかもしれない。

 もっと年を重ねていれば諦められたかもしれない。「このまま余生を送ろう」と穏やかに過ごせたかもしれない。


 健一郎は、飛び出すには分別があり、諦めるには自分の人生を捨てきれなかった。

 導院長になる夢が、細い糸で、生きる方へと健一郎をつなぎとめていた。


 それでも「死ねばいいのに」「死にたい」という波が定期的に襲ってくるようになっていて、まだその波にのまれていないだけで、心情的には早いか遅いかの違いだけだった。


 異世界に召喚されてからは、直接的な問題から離れたので、精神的にはずいぶん楽になった。

 ここでは誰も健一郎を責めないし、毎朝早くに起こされ、体を動かし、栄養のある食事を定期的にもらえて、ゆっくりと眠れる。そしてなにより疑問に答えてもらえる『誠実な会話』ができるのだ。

 無意識に意識の裏で考え続けていたことから解放された感じだ。

 この機会に無気力から脱出できればめっけものだ。

 ブレーカーが落ちたのならスイッチを上げればいい。ヒューズが飛んだにしても交換すればいいのだ。

 そうは思うものの、まだ無気力状態の健一郎ではイメージも考えもまとまらず、形を結ぶ前にふわふわと頭の中で霧散してしまう。

 以前のように、心の底からなにかを感じることができないでいる。

 分厚い透明の膜に包まれている感じだ。見た目は変わりないのに中身はスカスカ。

 無意識からの自衛で、使える感情は上の部分だけで、下はロックされている。


 どうすれば回復できるんだろう? 


 健一郎は楽観的な人間だったけれど、今回ばかりは自分のハッピーエンドへの道筋が思い浮かばない。


 とりあえず、まったく動けない状態には戻りたくないので、無茶な仕事量は引き受けないようにしようと決めた。

 有限の時間の中で仕事は無限にある。

 健一郎は自分一人で背負おうとしていたが、物理的に一人で全部の仕事をすることは不可能だ。

 緊急度を見極めて随時順番を並び替えながら、自分でする仕事、他の人にまわす仕事、先送りにする仕事と振り分けることに決める。

 誰がするかが問題ではなくて、期限までに仕上げられるかが問題なのだから。


 自分でやらなくてはならないことは自分で、その他は遠慮無くできる他人に頼ろう。

 そのバランスが大事なのかもしれない、と今の健一郎は思うようになった。


 健一郎がメラン王国に召喚されたのが水曜日なら、今日は金曜日(正確には土曜日未明)だ。

 今回のネストル王子の嫁取り旅行の出発日は日曜日と決まっている。

 旅行の用意もまだできていないのに、旅行前日を調べ物だけでつぶすわけにはいかない。

 ネストル王子は、「調べきれなかったのなら辞書を持っていけばいいのです」とか言いそうだけど、旅行に大荷物は勘弁してほしい。

 聞けば答えられるネストル王子がいるのだから、この問題はさっさと終わらせて次の問題に取りかかりたい、というのが健一郎の出した結論だった。


 出発日が一週間後か、せめて三日後ならば辞書と格闘したかもしれないが、そもそも健一郎に求められているのは「召喚の媒体」「国で行う産業のヒントとなる知識」で、術の研究じゃない。

 打算的で嫌な大人だと思わないでもないけれども、今の健一郎ができる精一杯だ。


 そう考えて、今回ネストル王子に交換条件を提示してみたのだけど、王子の方もなかなか頑固そうだった。


 仕事に溺れて頑なな様子は、体を壊す直前の自分と重なって、薄い感情しか持てない今の健一郎が見ていても辛い。

 ガチガチなネストル王子をもっと楽にしてやりたい、というのが、32年も生きて動けない状態になっている健一郎の老婆心だった。


 まぁ失敗しててもいいさ。今日聞いた術の中だけでも組み合わせたら大魔法っぽくなりそうなのがあったから、今度はそれを話してみよう。

 いつか心の底から話し合えるようになればいい、と思いながら、健一郎の意識は途切れた。

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