一一.浄化
これは作り話です。
城の図書室に向かいながら、アントニスとレオニダスは先程の『教え』について話してくれた。
昔に『教え』をメラン王国に伝えた異世界人は、異世界術を知らなかった。
ただ、酪農業ができなくなり、産業もなく、途方にくれていた国民を励まし立ち上がらせるために、『教え』を伝えたという。
それを聞いて健一郎は、きっと他人事とは思えなかったんだな、と思った。
『教え』の内容の途切れっぷりから予想するに、昔召喚された異世界人は、おそらく初期の拳士なんだろう。
戦後の日本と似た状況のメラン王国を、とても見過ごせなかったに違いない。
『教え』のおかげで、異世界生物に対抗する気力を得たメラン王国民は、親となり、我が子が小さいうちから何度も言って聞かせるようになった。
「この『教え』はこういう意味なんだよ。『教え』は昔とても困っていた時代に異世界人から教わったものなんだよ。そのおかげで私たちは助かったんだよ」と。
そうやって教えられた子供達は、また自分の子供に伝える。
そうして今まで『教え』は連綿と受け継がれてきた。
その間に、多少はしょられたり、部分的にカットされたりもしているけれど、こめられた想いだけはそのまま伝わっていった。
まるで信仰のように。
その途中で、『教え』の内容を会得し諳んじられるようになった者が、異世界術の記述と意味を知って、メラン王国で初めて異世界術が発動した。
『教え』を諳んじることで集中できるようになったのか、今までメラン王国の誰も使えなかった異世界術を誰もが使えるようになっていった。
メラン王国民でも、まだ話せないほど幼い子供のように、教えを理解できず諳んじられない子供は使えない。
図書室で一冊の本を抜き出すと、健一郎は筆記具も渡された。
「ここに正式な名前を書くんだ」
「そうすると、この本はケンだけの本になる」
アントニスとレオニダスは健一郎が書いているところを見ないように離れて顔を背けた。
そうか。正式な名前を知られたら縛られるからか。
健一郎はさきほど指定された本の表紙に、久しぶりに日本語で『砂原健一郎』と書いた。
『砂原健一郎』の文字が一瞬光って消えた。
「では行くぞ」
「本と筆記具も忘れるな」
アントニスとレオニダスは術の訓練所だという人気のない場所に健一郎を連れて行った。
「これだ。これが、いつもお前にかけている術だ。見えるか?」
アントニスが本を開いて、なにやら書いてあるのを健一郎に見せる。
「文字……だよな?」
「そうだ。古語で『清める』『浄化』『洗浄』という意味だ」
「読めない」
「そりゃそうだろう。俺たちにだって読めない」
「え?」
「読めなくてもいいんだ。ケン、文字を見たな?」
「あ、うん」
「よし。じゃあ、やってみろ」
「は?」
「自分をきれいにするんだ」
「……って、どうやって?」
「スッキリしたい、と思うだけでいい」
「……」
そんなことで本当にできるのか? 半信半疑ながらも、健一郎はこの世界に来て何回もかけてもらった術を思い出す。
「……できない」
今まで何万回と唱えてきた教えも、今の自分には分不相応ということか、と健一郎は奥歯を噛みしめる。
「あ、忘れてた」
「そうだ。まずは唱えないと」
「え?」
「さっきのアレを口に出して唱えないとダメなんだ」
「ここに書いてあるから……あー、お前は文字を読めないんだったな。俺たちの後から少しずつ唱えていくか」
「いや、大丈夫だ」
健一郎はすぅっと姿勢を正すと結手をした。
久しぶりだったけれど、長年続けていたので馴染んだ構えだ。
「聖句」
少しの淀みもなく、健一郎の口から馴染んだ教えが紡がれていく。
続けて、『誓願』『礼拝詞』『道訓』『信条』とすべて言い終える頃には、凪いだ気持ちになっていた。
浄化、と健一郎は願った。
すると、いつもかけてもらっているのと同じように、健一郎は服ごときれいになった。
「できた……。俺にも、できた……」
ぼろぼろと健一郎の両目から涙がこぼれていた。
術が使えたことで、なにか『許された』と健一郎は思えた。
ずっと、ずっと辛かった。
誰かを助けたくて介護の道に進んだのに、思ったようにはできなかった。
もっと自分のできる限り全力でしたい!
仕事を負えば負うほど、体への負担が増えていった。
それでも無理してこなしていると、ある朝、体が動かなくなった。嘘みたいに。
疲れてたんだ、休めば治る。
勤め先に電話した。
「すみません。少し体調を崩してしまって」
「はぁ? 自己管理くらいちゃんとしてくれないと困るんだよ。いきなり休まれると迷惑だ」
それでもなんとか休みをもぎ取って休んでみたものの、体は動かないままだった。
「あんた、どうしたの? ずる休み? 仕事に飽きたんでしょ?」
母親がそう思うのも無理はない。はたから見ればそうなんだろう。
でも、自分でも、動けない理由がわからないのだ。
全く動けない間に、仕事はクビになっていた。
導院にも行けなくなっていたので、導院長とその息子がお見舞いに来てくれた。
長い間通って、導院長と息子は、もうひとつの家族のような存在だった。息子は副導院長、健一郎は補佐の役割をしていた。
導院長が引退した後は息子が導院を継ぐ。
手狭なので、もう一つ導院を作ろう、そこの導院長となればいい、と言ってもらっていたところだった。
「気づかなくてすまなかった。無理をさせていたな。いつでも戻ってこい」
いつもは某亀仙人を地でいく、エロくてお茶目で強い小柄な白髪の導院長が、しょんぼりとした様子だった。
「待っていますから」
息子も、いつになく真剣な様子だった。
導院長の息子と健一郎は歳が近くて、良い弟子仲間だった。
二人で導院長になったら一緒に合宿に行こうと話していたのに。
健一郎が回復する前に導院長が儚くなり、お通夜やお葬式の手伝いもしたかったけれど動けなかったので、参加だけさせてもらったら、周囲の雰囲気から、なぜか息子と敵対していることになっているのに気がついた。
息子と話そうにも、周りに阻まれてかなわず。
どこかでなにかが違ってしまった。
それだけがわかった。
「いい加減、だらだら家にいるのやめてよね。おかあさんの具合が悪いみたいだから、昼間はあんた見てよ。あんたプロでしょ?」
家にいるのにも疲れてきていたので、勧められるまま祖母の家に行った。
祖母は想像以上に重度の状態で、すぐに住み込みで世話をするようになった。
少し持ち直すと嬉しかった。懐かしい話をたくさんできるのも良かった。
でも、別人になったような祖母の対応は、しんどかった。
祖母は大事な家族だ。長生きしてほしい。
でも、いつまでこのままなんだろう?
ゴールが見えない中だと、つい、黒い考えが膨らんでしまう。
仕事で体を壊したのは俺のせいなのか?
仕事の多さより人が少なかったからじゃないのか?
ずる休みってなんだ? 飽きたってなんだ?
俺だって休みたくて休んでるわけじゃない。
もっと長生きしてくだされば。
なんで話もできないんだ?
大好きなばぁちゃんなのに。
どれだけ世話しても壊れていくのが止められない。
それだったら、いっそのこと俺がこの手で……。
いや、それは違う。
それだけはやっちゃダメだ。
長年の心の支えであった『教え』も、唱えることができなくなった。
導院がない日は家で稽古していたのに、できなくなった。
こんなに黒い考えの自分は、もう『教え』にふさわしくないんじゃないか。
誰かの死を願うような自分は、自分こそが消えてしまった方がいい。
でも、もし自分がいなくなれば、祖母はどうなる?
祖母を見捨てることはできない。
誰かを恨んで、慌てて否定する。そんな自分が嫌だった。
「死ねばいいのに」を「そんなこと思ったらダメだ」と否定するうちに、「そうだ。自分が死んだら楽になるんじゃないか」が混ざるようになった。やがて「死にたい」と思うようになって「死んだら祖母が困る」と否定するけれども、「死んだらすぐに楽になれる」と思ってしまう。
容赦なく毎日は続き、健一郎は日常を送るしかない。
地獄のような日々を続けるしかないのだ。
そうして、健一郎の心は砕けていった。
健一郎はただ淡々と毎日を送るロボットのような生きる屍になった。
ロボットだったら、機械だったら。
心が無ければラクなのかもしれなかった。




