準備
「紅葉が綺麗な時期」と言ったものの、Aは実は少し時期を外してしまっていた。慣れない旅行だったので仕方がない。
しかし、もしかしたら「紅葉が綺麗な時期だから京都に行こう」ではなくて「旅行に行くなら紅葉を見に京都に行ってみたかった」が本音なのかもしれない。
Aは自分の気持ちや感情、欲求を自覚することが苦手だった。そして苦手なことすらも気付いていなかった。自分の気持ちが分からないこと、気付かないことがよくあったが、そのまま気付かず忘れてしまっていた。そうして忘れ去られた感情はいくつもある。
「秋になれば紅葉が見られるだろう」と安直な発想から直ぐに宿を決めてしまったが、紅葉シーズンは十一月らしい。宿を取った後、観光地を調べている間に気付いた。いつでも何事にも慎重なAにしては、この失敗は珍しい。ましてや、最初で最後になる予定の旅行なのに。それはもしかしたら、目的が紅葉でも京都でもなく他のものだからだったかもしれない。何か、彼女を駆り立たせる何かが。
ずっと憧れだった京都の紅葉を見られないのは残念だが、この時期も緑とオレンジが混ざっていて、それもそれで綺麗だそうだ。Aはそう自分に言い聞かせて、丸めて握っていた薄めのガイドブックを持ち直しパラパラと捲った。折角、天気に恵まれたのだから、楽しまないと。肩に掛かったボストンバッグを紐のズレを直し、駅弁を買いに行く。新幹線の旅行ではこれが最初の楽しみにしていたイベントだった。
そうこうしている内に新幹線が到着した。新幹線の乗車口は二回目の筈なのだが、そんな記憶はとっくの昔に奥の方へ紛れてしまっているようで、初めて乗り込むのと全く同じだ。初めての行動にワクワクしながら、ホームと新幹線の間の溝を跨いだ。
指定席券の番号を見ながら自分の席を探すことも楽しい。まるで宝探しゲームをしている気分だった。無事席を見つけ、荷物を棚に上げたり手荷物は席の下に置いたりする。脳内でシミュレーションはしていたが、実際にとなると少し手間取った。変な目で見られていないか気になる。
無事に席に落ち着いて、窓の外を眺める。「新幹線の窓は本当に小さいんだな」Aは思った。思わずコンコンと拳の甲で軽く叩いてみると、なかなか硬そうだ。
「そっか、こんなに高速で動くから、普通の電車の窓とはこんな所まで違うんだ……」
気分の高揚と、隣の席に誰も居ないのを良いことに、Aは思わず独り言を言ってしまった。今まではほとんど、心の中で自分と会話をしていただけで実際に口に出してはいなかったのに。一瞬恥ずかしくなったが、隣には誰も居ない。新幹線の動く音で、この程度の独り言なら誰の耳にも届かない。それななら別にいいじゃないか。Aは無意識に口元を緩ませ「ふふっ」と笑った。鈍く光を反射する窓ガラスとそこに映る影、その向こうの景色を見ながら。