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前半戦

 あるところに普通に不幸な人間がいた。名前をAと言った。Aは思った。そうだ、自殺しよう。今まで何回も思ったことはあったが、今回は本当に死のうと決意した。目標は来年の春。

 

 早速、Aはテレビを購入した。昔から最も憧れていたものだった。配線を終えてリモコンのボタンを押すと、鮮やかな画面がぱあっと映った。今まで言葉でしか聞いた事のない画面が、目の前できゃっきゃと踊っていた。

 次に、Aはエアコンを買った。今は夏だった。計算上では死ぬ予定の春まで持つはず。夏は涼しく、冬は温かい部屋で過ごせる素晴らしい機械だった。これもまた、嬉しげにAはボタンを押した。過剰な湿気を含んで、頭が痛くなるぐらい暑い鬱屈した空気がさあっと晴れていった。

 次に、Aは小さなテーブルを買った。グレーとオフホワイトがランダムに混ざった小さなテーブルだった。それに合せるように可愛らしい薄いピンクのクッションも買った。ずっと欲しかったフリルが付いている。テーブルをワンルームの部屋の真ん中、テレビの前に置いた。 

 他にも、麦茶、そうめん、めんつゆ、ネギ、わさび。そしてカップアイスを買った。ついに憧れの生活が揃った。Aはクッションに座ってテーブルでそうめんを食べ、涼しい部屋でテレビを見た。デザートはアイスだ。とても幸せなひとときだった。

 

 自殺を決めた後も、きちんとAは仕事に行っていた。Aの仕事はビルの清掃だった。自殺の決意なんて特に誰にも気づかれず、いつも通りに仕事をこなす。休憩時間には仕事仲間とも普通に談笑する。「お疲れ様です」と笑って会釈をし仕事場を離れると、その足で颯爽とスーパーに向かう。それが日課になった。今日は何を作ろう。ワクワクしながら夕方の道を急いだ。

 自殺を決めてからAは残務を引き受けることをやめた。今までは他の人の残った清掃も引き受けていた。例えば、「今日は孫のご飯を作るから」と帰って行った女性などの、だ。Aは帰っても特に用事もないので快く引き受けていた。

 スーパーに着くと初めに向ったのは野菜売り場だ。ここにも、色とりどりの鮮やかな野菜が並んでいた。パプリカ、オレンジ、ズッキーニ。見ているだけで楽しくなる。レタスは水滴を付けてキラキラしていた。そのレタスをカゴに入れ、あとは目についたおいしそうな野菜、食べてみたい野菜をひょいひょいと入れていく。デザートはオレンジが良いか、リンゴが良いか。オレンジにしてみよう。どのオレンジがいいかな。オレンジを手に取って、明るい照明の下でくるくると色んな方向から見てみる。傷があるのは避けたいな。身が詰まっているのはどれかな。食材を選ぶのはとても楽しかった。

 家に着いてもまだ夜の八時。これから料理に取り掛かる。買ってきた野菜と魚介を使って海鮮チャーハンを作る。本当はもっとオシャレなメニューを作りたかったのだけど、今はこれが精一杯。ふふっと苦笑しながら涼しい冷房の元でテレビを見ながら作ったチャーハンを食べた。

 シャワーから上がった後には、ぐいっと冷たい麦茶を飲んだ。美味しい。Aはテレビを点けて今日も買ってきたアイスを食べる。買ってきた雑誌をバサッと床に置いた。料理雑誌を広げて、「次はこれを作りたい」と楽しげに眺める。キラキラ輝いた皿の写真は見ているだけでワクワクする。夏野菜のカレー、カルパッチョ、リンゴ酢の夏バテ予防ドリンク。優しくて明るいふんわりした、憧れた世界がその中にはあった。チャーハンの次はカレーなら作れるかも。歌番組を見ながら雑誌をめくった。昔は見られなかった流行りの歌も今は聞ける。幸せに包まれながら、Aは布団に入った。明日はトーストに目玉焼きに、サラダを作ろう。


 買ってきた雑誌の中にはファッション雑誌もあった。今までずっと買ってみたかったものだ。大学の同級生たちがキャッキャしながら見ていたのを羨ましく眺めていたものだった。あれから少し年代は上がってしまったので、その雑誌を買う事は出来なかったけど(後で「別に気にせず買えばよかったな。どうせ死ぬのだし」と気付いてAは笑った)二十代後半の女性がターゲットの雑誌をいくつか買った。

雑誌によって載っているファッションの傾向が少し違うんだな。面白い発見だった。自分はどんな服が好きなのだろう。全ての雑誌を何回も読み直した。上質な紙に、綺麗な写真の雑誌は何回眺めても面白い。載っているモデルの笑顔はこちらまで楽しい気分になる可愛らしい笑顔で。ひらりとふんわりと揺れるフレアスカートからすっと伸びる素足。背景にはその子が所属している会社と思われるビル。こんな風になれたらなあ。思わず望んでしまって、ちくっと胸に針が刺さる。一瞬でも現実に戻ってしまった。これは自分が悪い。すぐさま思考を元に戻した。夢の中に。次のページの「休日ファッション」でハツラツとした白パンツとボーダーTシャツ、つばの広い麦わら帽子を見る頃には、すっかり忘れていたと思う。たぶん。

 ファッション雑誌の影響で服も買うようになった。自分はスカートがいいのかな、パンツがいいのかなと店で悩んだりもした。

 雑誌に載っているようなオシャレな店に行こうと思ったこともあったが、今の自分が着ている服を見てやめてしまった。まずは、近所の店で似ている服を買おう。スーパーの洋服コーナーでも良かったが、折角だから専門店に行ってみたい。そういえば、近くにCMで見た格安ファッションのチェーン店があったはず。

 仕事が休みの日曜日にその店に行ってみた。ガラスの自動ドアをくぐると自宅の冷房以上に冷房が効いていて涼しい。炎天下に歩いてきた汗が一瞬で引いた。店内はとても広かった。

 広くて、ここも色に溢れていた。ピンク、黄色、エメラルドグリーン。向こう側にはグレーの塊のスーツコーナーもある。中学生と母親だろうか、一緒に服を選ぶ親子を横目で見ながら、十代向けの服が並ぶ少し隣のコーナーに行った。雑誌で見た服と似ているものがいくつもあった。雑誌で見ていない服でも、可愛くて気になるものも沢山ある。初めてのことに心の中ではしゃいだ。一人でニヤニヤしてしまう。思わず全部買おう! と思ってしまったが、これからの予定を考えると足りなくなりそうなので、財布の口と自分の口元をきゅっと締めた。こんなときまで躊躇しなくていいのになあと、またふふっと笑いながらスカートを選んだ。

 

 新しく買った明るい服を着ると、急に髪型も変えたくなった。服に合うように、髪も明るい色にしてみたい。次の日曜日には美容室の予約を入れた。郵便受けに投函されていたタウン雑誌を見て電話をしたのだが、写真の店内はやはりというかオシャレだった。でも今回は大丈夫、服もちゃんと着られているし。バッグも買ったし。当日、美容室に着いてみると外観もオシャレ、ガラス越しに見える店内もオシャレ。Aはバッグの肩ひもをぐっと握ってドアを押した。

「あの、すみません。今日予約したAなのですが……」

慣れない雰囲気にオドオドしているのを気づかれないように、何気ないフリをして軽い笑顔で言った。

「はい! Aさんですね、ではこちらで少々お待ちください」

 爽やかな男性美容師が丁寧に対応してくれた。ちょこんと店内の隅にあるソファに座り、店内を見渡す。「ここも明るいなあ」Aは思った。そうこうしている内に呼ばれて、鏡の前に。「やっぱり地味な顔だなあ」と鏡を眺めていると、さっきの美容師に声を掛けられた。

「今日は僕が担当します。よろしくお願いします! ところで、カラーということですが」

「はい、なんか気分を変えたいな~って」Aもニコッと笑いながら返した。

「へー! いいですね! 最近はずっと黒髪で?」

「そうですね、結構」

「じゃあ久々ですね! 今日はどんな髪色にします? いきなりすごく明るくしたらびっくりされちゃいますかね」美容師も冗談を言いながら笑った。

「あはは、そうですよね。なので少し明るめに、でも重たくない感じにしたいなー」

「そしたらパーマもかけてみますか? カラーと一緒にやると傷んじゃいますから、また来ていただくことになりますが……」

「そっか、パーマもいいかも。じゃあ来週にお願いできますか?」

あっさり決まりAはパーマにカラーデビューを果たした。

 

 服に髪型と来れば、次はメイクを覚えよう。今までも多少の化粧はしていた。清掃の仕事とはいえ、ノーメイクは周囲の小言が痛いので、見よう見真似でやっていた。雑誌を読んでから憧れはあったのだが、メイク道具は後回しになっていた。

 いつも行っているドラッグストアの、あまり行かない化粧品コーナーをしっかり見てみた。「こんなに種類あったんだな」いつもは百円のメイク道具で済ませていたAだった。百円のそれよりずっと高級そうなコンパクトとその下の値札を見る。これからはこれを買えると思うとワクワクする。雑誌で見たもの、今までの自分には似合わなそうな明るい色のアイシャドー、薄い桃色のリップに艶々のグロス。つけまつげは……次にしようかな。

 道具を買いそろえて、雑誌を見ながら「メイク研究」をした。高校時代にクラスメイトがこの言葉を言っているのを聞いたがこんなに楽しかったのか。毎週、毎週、Aは充実した日曜日を送った。


 ふと思って、Aはついにスマホを買った。今まで持っていたのは二つ折りの携帯電話だった。電話もメールも主に仕事の連絡に使っていた。インターネットを使ってみたかったのだ。学生時代は学校のパソコンで使っていたが大学卒業以来ネットはずっと使ってない。パソコンも欲しかったのだが、これから死んでいくことを考えると一旦やめておいた。契約や設定も面倒だし。とりあえずスマホだ。スマホならすぐに使える。みんなが使っているあの手帳型のケースも欲しい。

 今日は都市部まで出て、大型電気量販店でスマホの契約後に同じフロアにある周辺機器、アクセサリーのコーナーで自分好みのケースを買った。クラシックで落ち着いたブラウンデのケースだ。Aはとても嬉しかった。隣にはイヤホンなども売っている。そういえば、ここに来るまでの電車の中でみんなスマホで音楽を聞いていたな……そう思ってイヤホンも買った。色々種類がある中で違いが分からなかったのだが、折角だし「高音質」とやらで聞いてみたい。Aは音質に違いがあることを知らなかった。少し値は張ったが「高音質」を買った。

 帰りの電車の中で音楽をダウンロードしイヤホンをしながら帰った。そっか、こんな風に自分の世界が出来るんだな。自分と同じことをしている車内の若い人達を見て思った。スマホは初めてだったが使いやすく、すぐに様々なアプリとネットを楽しんだ。


 Aがすっかり別人になる頃、季節は秋になっていた。外には爽やかな秋風が吹き、そろそろ紅葉が始まる街路樹は夏の緑が少しくすんできていた。

 ひと夏でこんなに変化すれば、周囲の人間はさすがに噂をする。職場では同僚の女性によく言われた。

「Aちゃん、最近変わったねぇ。何? 彼氏でも出来たの?」床のモップ掛けをしているときにもまた聞かれた。

「違いますよ」

 Aは困ったように笑って返す。同僚から見れば、その反応がそのまま返事になっているようで、「えぇ、ホントにぃ」と囃し立てた。普通に考えれば、女性がいきなり見た目が変わったらそう思うのが一般的だろう。

「だって、Aちゃん可愛くなったし、表情もイキイキしてるじゃない。前みたいに猫背じゃないし、ハキハキ喋るようになって動きもなんだかテキパキしてる」

 遠慮なくものを言う人だなとAは思ったが、別に気にはしない。この反応は予測の範囲内だった。

「あはは、そうですか? 確かにそうかもしれませんね」


 自殺の予定は春頃にしようと計画していた。今は秋。計画は順調に進んでいた。あとは、春まで満喫しよう。やりたいことを精一杯やろう。そして。

 テレビ、エアコン、食事、お菓子。雑誌、服、髪型、化粧。ネットに音楽。あと、欲しいものは、体験したいものは。

 最近買ったベッドに寝転びながら、スマホで色々検索してみる。CMを見て気になったものは本を読んだりもしていた。旅行とかどうだろう。友達を作って、ショッピングや遊園地に出掛けてみるのもいいかも。もっとインテリアに凝ってみてもいいし。

 色々思い浮かんだが、ふと、今死にたくなってしまった。なんか、もう満足だ。もう死んじゃおうかな。

 スマホをぽいっと横に放って、仰向けになって天井を眺めながらぼんやり思った。予定では春なのだ。ここで変更するのはなあ。できることはできるけど。「うーん」と唸り声を上げて、「よし!」と勢いよく起き上がって思った。取り敢えず旅行に行ってから考えよう。それで一石二鳥だ。

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