第一章 1(前) 「脱走の末に着いた地で」
命からがら泳いで辿り着いたこの海岸の地で、絶え絶えにした息を整えたいと思っていたアルナイト。
いまは太陽が顔を出している、時にして朝と昼の中ほど。季節も運良く夏の時期だったが、それでも身体の筋肉が強ばっていて、アルナイトは凍えそうだった。だが、ここで躊躇して足止めを食っているわけにはいかない。たぶん、アルナイトが脱島した知らせはすでに、この近辺の自警団や駐屯兵に周知されているに違いない。もたついている場合ではない。
「この格好じゃ、すぐに衆目を集めるな」
ぼろぼろの囚人服姿のアルナイト。さらに髪もぼさぼさに伸びて、髭もみすぼらしいほど伸びている。
「いきなり自警団には見つかりたくはない」
どうすればいいか思案しながらアルナイトは、海岸沿いをなぞるように歩く。
しかしこの状況で服を手に入れるとしたら、もう手段は限りなくひとつの行動に定まる。
「どこかで、盗むしかないか……」
これ以上の罪を重ねることは躊躇うものがあるが、いたしかたない。人を殺めるよりは幾分ましだ。それに。
「殺しだけはもう金輪際しない、二度とだ」
アルナイトはそう心に固く誓った。
岬に出ると、案の定に崖の多い場所が目立ち始め、崖の上には民家がまばらに建っていた。
白い煉瓦で作られた小綺麗な民家が多く、目を惹かれるものがあるが、そんな建物に見とれている場合ではない。
このご時世、漁民や農民は着たきりで裕福でないから、余分な服を所有する余裕などない。
「小金持ちあたりが狙い目かな」
そのような企てをした後、崖の道を登り終え、しばらく平らな地面を歩いたところで、彼は服を盗むに手頃そうな家を発見した。
小さな邸で、使用人らしき女性が服を干している。華美な服がちらほらと見えるが、ご子息ご令嬢の服は望ましくない、アルナイトからすれば所作や言動ですぐに富裕層の人間でないことがばれ、身元を疑われる。住み込みで働いている使用人は自分の服を一緒に干すだろうから、その可能性に望みをかけた。
そして、籠の中から装飾が一切ない服が出てきた。庭師が使いそうな作業服っぽいが、いまの囚人服に比べれば幾分ましなほうだ。
「あれにするか」
使用人がすべての洗濯物を干し終えて邸の中に入った後、彼は四方を見回して周りの目がないことを確認して、
「いまだ!」
敷地内に忍び入り、音をなるべく立てずに足早に洗濯されたものに駆け寄り、目的物を奪い去った。
しかし去り際にやらかしてしまった。これから邸の主が優雅な時間を過ごすつもりだったのだろう。白いクロスのかかったテーブル。アルナイトは運悪く脚をひっかけて、そこにあった空っぽのワイングラスをひとつ割ってしまった。
証拠隠滅をはかるために、クロスで割れたグラスをくるみ、そのまま服とクロスを持ち去った。
それから、海岸に戻り、岩場に隠れ込んだ。この装飾のない無地の服装に着替え、海辺に向かって擦り切れた囚人服を投げ捨てた。
そして、最後にこの髪と髭だ。アルナイトは持ち逃げをしたクロスの中にある割れたグラスを見て閃いた。
割れたグラスの破片ひとつを手に取り、髪を指でつかみながらぷつんぷつんと切っていく。髭もグラスの破片をつかって剃っていく、これはかなりの慎重さが要求された。下手したら出血モノだ。しかし、贅沢を言うのも余裕をこくのも許されない事態なので、早々と髭を剃っていく。そして、二年間の身体の汚れを即席ながら、服を脱いで海に浸かって簡単に垢を洗い去り、頭もごしごしと洗った。
そして、とりあえず次の目標として、この国の脱出を試みようと考えた。
アルナイトを裁いたのはこの国の一領主だ、国外へ逃れたなら自警団と兵士の目から逃れられたも同然。罪を犯したことさえ隠せれば、当面のあいだ自由の身となる。
しかし、国を脱出する場合にあたっては北上しなくてはならない。ここは国の南端付近であり、半島の南である。
いま彼は、丘陵地から目下広がる街並を見ていた。
西には岩肌の多い険しい山岳、その山岳にも建物が多く建てられていて、街の一部と見られる。東にはまたもや海の波が、黄金色の砂地を引いては満ちることを繰り返している。その周囲にも建物が見事に建ち並ぶ。
引き返して船を使おうにも路銀はない。船に密航してこっそりと降りたところを自警団に捕まる可能性もある。
北上するにはこの街を通り抜けなくてはならない。これは必須事項だ。自警団に見つからなければいいがと、アルナイトは不安がる。
軽い煉瓦が敷き詰められ、馬が歩くのに優しい道路が作られている。その証拠に、ところどころで馬の蹄鉄が路を叩き、闊歩する音が聞こえてくる。
それにしても腹が減った、しばらくは空腹の虫が泣くのを我慢しなければならないなと、彼は考える。
路銀を稼ぐことは、脱走直後のいま、まともにできることではない。
「耐えろよ、俺」
地理もわからないこの土地で、アルナイトは馬車に轢かれぬように端を歩きながら、この街を早く出ようとしていた。
そこに人集りができていた。通行人の往来を妨害し、事実、人集りを越えたところに馬車が停めてあるのが目を引く。
アルナイトは困った、これはしばらくここを通れそうにない。
いったい、何が起こったのだろうかと、考えを巡らせながら、中の様子を人垣のあいだから覗く。
そこには、おのおの細身の剣レイピアを持った二人の男がいた。そして、一人の可愛らしい貴族のなりをした令嬢。
「では、お嬢様の代わりに、いかせていただきます……」
「絶対に勝ちなさいよ! 負けたら給料棒引きですわ」
「その前に、わたくしの命が亡くなってしまっては給料がもらえるか以前にお金など意味などなくなってしまいますが……」
男の一方は令嬢の使用人なのだろう、会話からそれが察せられる。邸では雑用係としてこき使われているのだろうか、身なりは水夫のような格好をしている。
「下っ端の使用人を使っての決闘か、まぁいい、俺様は女を斬るのは趣味じゃない、その代わりにこいつを斬り殺した暁には、そこの女は俺様の妾になってもらおう。その顔は結構俺様の趣味を突いているのでな」
上っ張りに着るものはとても庶民では手に入りそうにないほど金箔をちりばめた服飾で、それを上から下の背中まで真っ黒なマントで隠している。貴族であると誰にでもわかる。
そうして、レイピアを二度三度素振りし、数歩の間隔をつけたまま女側の使用人に相手は接近を試みる。




