プロローグ(二) 「此世界アンティクトン」
果たしてここアンティクトンもまたガイアと同じ道を歩もうとしているのだろうか。ヘパイストス神はアンティクトンを俯瞰する。
半島から遠く離れた小島の鉱山、嬉しいことに鉄鉱石が大量に採れる。それが悲しくて労働者たちは、今日もツルハシを振り下ろす。採り尽くすまでみなゆっくり休まる暇など許されない。鞭はいつ叩かれても痛いものだから。
残念なことにアルナイトは、今年で十九になる。本来なら去年のうちに成人の儀を迎えるはずだった。二年前に流刑を食らった彼にとって、心は少年のままで……まるで何か大事なものを故郷に置き忘れてきたような気持ちになる。ときどきそんな気分に襲われるのがとても怖い。
同じ鉄でできたツルハシを下ろし続ける。
「ツルハシよ、お前らが生まれたのも、こうやって堅く頑強に生きているのも、すべて俺たちのおかげなんだからな」
そう言いながら、アルナイトは無茶ぶってツルハシの先を思い切り岩に叩きつけた。
瞬間、ツルハシが割れた。
「すまん、そうでもなかったようだ、ツルハシよ」
「何を独りごと言ってるんだ、アルナイト」
「忘れてくれ」
およそ一日の三分の二、それだけの時間を費やして終える。彼らを収容する広めの家屋の中に、アルナイトたちは戻っていく。
重い鉄球のついた足枷を右に引きずったままアルナイトは、一人分の夕食を運びに、扉をゆっくりと開けて部屋に入った。
二十代半ばを越えた彼女の前に歩み寄る。
「ごめん……」
肌の色も、金髪の照り映え具合も、血色も、絶望的なほど悪い。
「早く病気治せよ」
「ごめんなさい、私のせいで苦労かけさせて。私も早く仕事に戻らないと」
「言うな、病気を治すことがいまのお前にとって一番の仕事だ」
「うまいわね、そして軽いわね、あなたの口から出る言葉は……それが嬉しかった」
「お前……」
「あなた、前に言ったわよね。ここでは身分の貴賤なんて関係ない。尊きも卑しきもここでは平等に扱われるって……」
彼女がこの島に来た当時、きれいな顔立ちと輝く金髪と、そして銀の髪飾りをしていた。身なりからして明らかに貴婦人であった。聞いた話によると、浮気をして、夫から怒りを買われ、裁判にかけられて刑罰を食らったという。
そんな彼女は当然、労役を拒否した。それでもって、彼女のきれいな顔は拳と鞭によって、あっという間に傷だらけになった。
そんなときにアルナイトが言った言葉がそれであった。
「あのとき、あなたは私を平等に扱ってくれた、とても嬉しかった」
たぶん、彼女はここに来て、唯一アルナイトに対して心を開けたのであろう。どれだけ彼女が救われたのだろうか、アルナイトは知るよしもない。
その台詞を言われた後の彼女は嫌々ながらもここで見事な働きぶりを見せ、一時期はこの鉱山を掘り尽くすまで戦い抜くことも互いに誓う。囚人の間で、この鉱山さえ掘り尽くせば皆が釈放されると噂になっていたからだ。
しかし、神と運命のいたずらか、彼女は熱病に冒された。その看病をアルナイトに任せられた。
「頑張れよ、頑張ればきっと病魔も倒れてくれるに決まってるから」
彼女の病気はきっと治る、アルナイトはそう確信していたし、彼女にその確信を裏切って欲しくなかった。
「ごめんアルナイト、病魔と戦う仕事は私には無理そう……、いまのうちにお別れの言葉を……」
細く事切れそうな声で、彼女は一生懸命言葉を搾り出そうと苦労をする表情になる。
「お前」
「これを形見だと思って」
いままでつけていた銀の髪飾りを取り、アルナイトに渡す。
「こんなものしか渡せないけど」
「俺は何もいらない。何も喋るな、お前からは何も取りたくないから……、だから」
「ありがとう……さよなら……」
そして彼女は二度と目を覚ますことはなかった。神は理不尽にもこんなにも頑張っている人間からも命を奪い去ってしまうのか。
翌日、ほとんど簡素で、略式で、いい加減で、葬儀と言えない儀により、弔いは終わった。
手厚いとは遠回しにさえも言えないほどの扱いで、彼女は布にくるまれ、物同然のように海に毀棄された。
人が海に還るなんてロマンを誰がこのとき思っただろう。
そんなことは死んでもごめんだと言いたいが、死んだらこうなるのだということをアルナイトたちは重々知らしめられた。
その夜、彼は眠れなかった。短い期間ではあったものの、彼女の存在は心に熱いものを与えてくれたような気がアルナイトはした。銀色の髪飾りを見つめながら物思う。
掘り尽くされる見込みのない鉄鉱山を掘り続けるか、彼女と同じように海に捨てられる最後を辿るか。否、どちらも取らない。
彼女にはさらに悪いことをすることになるが、彼は髪飾りをひねったり折り曲げたりして、針金の代わりになることに気づいた。そして、長き時に渡り、はめられていた足枷の鍵穴に、その針金を差し入れ、時が動き出したような音を立てて鍵がはずれた。
そして深夜、看守の目を盗んで、流刑民が収容された家屋を抜け出し、海に身を投じて力いっぱい泳ぎ切り、大陸の海岸まで辿り着いたのが、流刑を言い渡されてから二年目の今日だった。




