第二章 4(前) 「キュリエは寺院から飛び降りて」
翌日。
ギルドに勇者が来たという知らせはなかった。
アルナイトとクルルエリはギルドの壁に背中を凭れて暗澹がっくりする。
「まさか勇者の血っていうものが、相伝だったとはな」
「突然現れるものではないんですのね、私も勉強不足でしたわ」
張り紙に興味を持った史学者がいたらしく、わざわざ東方の街で大きな図書館を訪れ、調べ上げたという。
伝説によると、かつて魔王というものが現れた。皮肉にも数年前までは架空の存在と思われていた、無論だが勇者についても架空とされてきた。
だが、伝説によると勇者の素質は血で受け継がれるものらしい。事実、勇者は三代かけて魔王と戦ったという。
こうして魔王と魔族を倒したわけだが、その後に皮肉にも平和は訪れなかった。
魔族が跋扈しているあいだは国民の不満の矛先が常に魔王に向けられていた。その魔王がいなくなると、不満を爆発させる矛先が国王に向かう。
勇者は国を救った英雄として政治的に発言力を持っていた。そんな勇者の血もその後三代続き、人と戦うことはなかった。
だが彼の発言を英雄気取りとしか受け取らなかった国民の一人が彼を殺害。
その後、神は大いに怒り、いかずちとして硫黄の火を天より降り注がせ、国土は荒廃したという。そして、英雄を殺したその人間は神の計らいによって生かされ、彼は「償いの民」と呼ばれ、卑しい職を転々としながら生き、何代もかけて勇者を殺めた罪を償わなくてはならない業を背負うようになったという。
憎みたければ「償いの民」を憎め、といったところか。とてつもないことをしてくれたものだ。
「勇者はもうこの世界にはいないんだな」
あまりの愕然とした事実に、二人は呆然とするより他になかった。
とりあえず、勇者がいないということを証明したことだけでも手柄なので、報酬をその史学者に先ほど渡してきた。
「ありがとうございましたわ」
そうクルルが言った後、アルナイトは他の張り紙を長めながら、これからどうするべきか考えようとし矢先だった。彼は驚愕した。
「これは……」
張り紙を見て、アルナイトは涙をせき止めるようにこらえる。
本当は子供のように喚き散らして泣いてしまいたかった。
「俺は一生子供のままか、皮肉だな」
それが悔しくて、アルナイトはそこにひざまずいた。
「アル、どうされたんですの? お腹でも痛いんです?」
クルルエリが心配そうにアルナイトのほうへと駆け寄る。
「心配するな、大人になりきれない子供が一人できただけだ」
それを聞いて、クルルエリは何を言われたのかさっぱりな感情を露わにする。
「何だかよくわかりませんが、大人になりきれる人なんて一人もいませんわ」
「そうか、それを知ってるだけ、クルルは大人のようだな」
「そうですわ、あなたと違って私もレディの嗜みができる大人ですわ」
「それは凄いな」
そんな言葉もいまはなんだか空しいような気がした。
貼り紙にはこう書かれていた。それは彼の心に突き刺さるのに十分だった。
――聖地陥落! 魔王都アレクサンドリアとなる!――
「無駄骨でしたわね、どうやってこのカリブルヌスを使いましょうか」
「こだわる必要はない、俺は自分の使える武器でジンと戦う」
アルナイトはクルルエリの両手を握り、目をつぶって語りかける。
「俺にお前の武器を使わせてくれないか」
ジンを倒すために。
それを聞いてクルルエリは。
「何をおっしゃってるんですの? それが見たくて私はあなたについていっているのですよ」
「そうか、じゃあまぁよろしく頼むぜ」
「あなたの雄志をしっかりと見せてくださいませ」
それにしてもキュリエはどこにいるのだろうか。自ら自分を殺せと言っているのだから、大抵にしてわかりそうなところにはいそうなものだが。
ところで都の人間がさっきからざわつき始めていた。何かこそこそ話をしている者が多く、また「あそこだ」と、みんなが一致して東の方角を指差し見ていた。
確か、東の方角には太陽が上るのを拝めるよう、天文台と教会をかねた寺院があったはず。
アルナイトもそのことが気になり、クルルエリに呼びかけて「寺院に行ってみよう」と投げかけた。
二つ返事で応じ、アルナイトとクルルエリは寺院へと向かった。
寺院へ向かう途中、人々の声が猛々しくなるのがわかる。
「あの女、飛び降りるつもりじゃ」「よくわからないけど自分を殺せって言ってるみたいね」「怖いわね、誰か助けてくれないかしら」
さまざまな会話が飛び交う中で、アルナイトは推測を立てる。キュリエが飛び降りようと画策していること、そしてそれによってアルナイトに自分の居場所を気づかせようとしていることを。
「キュリエ!」
そうして、寺院に接近すると、そこには多くの人集りができていた。
そして、寺院にある高い塔を見上げると、頂にキュリエが手を合わせながら、目を閉じた様子で、じっと落ちると落ちないの境目に不動で直立していた。
「キュリエ! 俺だ!」
キュリエがゆっくりと目を開けるのが、気持ちが悪いほど恐ろしく、察し見ることができる。まるで悪魔の瞳が開かれるのを見ているかのように
「馬鹿な真似はやめろ!」
そして、彼女の口がゆっくりと開く。
目を閉じ、ぱくぱくと口を動かしている。
もしかしたら、彼女なりに神様に祈っているのかもしれない。魔女にして神を信じているというのは本当のことのようで。
それから、キュリエは一度だけ頷き、アルナイトのほうを見る。
「アルナイト!」
彼女が叫びをあげ、そして。
「わたしを止めて!」
そして、足場のある場と足場のない場の境界を、そのまま一歩でひと思いに踏み越える。
その行動が、キュリエの身体が落ちてゆく速度へと転化した。
キュリエは覚悟していなかったのか、あるいは覚悟していなくてもそれは反射的だったのだろう、金切り声よりも鋭い悲鳴をあげて声を絞りあげた。
「キュリエ!」
寺院の塔に遮る庇はひとつとしてない。
神が下から受け取る手のひとひらすらない。
野次馬の勢が彼女の体躯が頭にぶつかることを懸念してか、いっせいに押し合いへし合いで逃げようとする。
転倒する者、踏みつけられる者、多くいる。しかし、それとは無関係に、キュリエの身体は地面に向かって落下の一途を辿っていく。
野次馬が退けられた空間ができたちょうどそのときに、キュリエは頭を真下にして何もないその場所へと落ちた。脳漿をまき散らしながら、骨と肉が一瞬で潰れる残響を立て、そこには人間だったものと形容するのも難しいほどの惨劇があった。
その後、遅れたように胃酸が喉の方向へと走る音がして、野次馬の一人が吐いた。
人間というものは死に対しては涙を流すものだが、潰れた死体に対しては失敬にも嘔吐を催す。おそらく人間というものはそういう風にできているのだろう。
「おい!」
一縷の望みさえもないのに、アルナイトが血と肉の塊に歩み寄る。
キュリエだった血肉に手を触れようとした。
だが、そのとき、肉塊が血と肉片を吸い上げて、キュリエの手の形を思い出したかのように復元され、その手が不気味に動いて、アルナイトの腕を掴んだ。
アルナイトの身体に流れている血はきっとキュリエと何も違わない。だが血というものがアルナイトの身体に流れていることに、遅れながら嫌悪感が走り、アルナイトの心臓は血を拒絶するかのように押し縮み、胸が唐突に痛くなった。
胸の痛みを感じながら、肉塊肉片骨肉骨髄脳漿血液が逆戻りしてキュリエの身体を形成していく。
アルナイトは生命の危険を感じて逃げようとするも、腕の力が尋常じゃないくらい手首を締めつけてくる。
目をそらすアルナイト、少しずつ状況に身体を慣らした後で、目をそっと向ける。
そこには、服だけは破けて。完全に、はだけて、肉体だけが元に戻り、一糸まとわぬキュリエがいた。
「死ねなかった……」
裸で決まりが悪いとか、肉体が魅力的であるとか、そんなことは肉が潰れた光景を見た後では、もはやどうでもよかった。
アルナイトはその場からとにかく退散したい衝動に駆られる。
半信半疑だったが、半疑は無疑に、半信は全信となった。
彼女はやはり死なないのだ。
「お兄さまが来る。お兄さまをよろしくね……アルナイト」
首を傾けて、アルナイトに片目閉じして、笑みを浮かべるキュリエ。
儚い笑みだった。不敵な笑みとかではなく、自分自身の心配を人に委ねるような、そんな微笑。
痛いほど手をぎゅっと握るキュリエ、友愛の握手よりも堅く、何よりも親密に委ねてくるような握り方だった。
彼女の瞳が眠りに落ちたように閉ざされ、手に込められていた力が緩んでアルナイトの腕から離れる。
それから、キュリエは口から呼気とともにどす黒い霧のようなものを吐き出しはじめ、霧は彼女の身体を纏い始めた。
彼女の白い身体を覆い隠すよう、それはまるで邪悪のある黒衣となる。
「う、う、う……」
唸り声を絞り出し始めるキュリエ。
「キュリ……エ」
「ウオオ――オッ!」
その声を聞いた瞬間、周りの人間はさらに大騒ぎになり、ほとんどの人間が逃げ惑った。
彼女の瞳が開眼されたとき、それは見覚えのあるものだった。
人の神経を逆撫でするような視線。
「……、ジンか?」