第二章 1(後) 「魔女キュリエと、悪魔のジン」
「冗談よしてくれよ」
誰かに聞かれてはしないだろうかと周囲を見るが、何食わぬ顔で彼らは卵焼きを食う様子を相変わらず見せる。どうやらいまの一言をきっと誰も耳にはしていないようだ。
すると彼女は皿の上に置いてあったナイフを手にする。
それでいったい何をしようというのか。これは肉切りを兼ねるナイフだから、その刃はカミソリのようによく切れる。
「何をするんだ」
彼女が不気味に微笑んだと思った瞬間、ナイフの刃を手首にあてがって、止めようとする間も与えずに刃先をすっと走らせた。
「バカな真似はよせっ!」
肌の表面が粟立って、アルナイトはナイフを取り上げて、「何をしてるんだバカ、大丈夫か」と切り裂かれた手首をつかみ見る。
血の雫が一滴も零れない。切り裂かれた手首はなおも白く、ぱっくりと割れた傷口がみるみるうちに塞がっていく。
「わたしはこの通り死なないの」
何事かと周りが少しざわつき始めたが、何のことはなく、止めに入る様子もない。いま起こったことを見た者は幸いにも一人としていないみたいだ。
「にわかには信じがたいな」
「なんだったらもう一度実演してみる?」
「バカなことを言うな」
様子を最初から見ていたクルルエリは、額に指先を立てて、考える素振りを見せる。
「もしかして、あなたは魔女?」
二人以外に聞かれぬよう小声で話すクルルエリ。
「そうだと思って差し支えないわ」
「差し支えあるだろ」
この時世、人々を惑わす魔女を排除するために、どの国も魔女狩りに明け暮れている。魔女であることを明かせば、すなわち誰かに耳打ちされて魔女裁判で死刑になってもおかしくはない。しかし。
「さっきも言ったわ、わたしは死なないの。それに罰なら受けたわ」
彼女が長い袖の裾をめくる。そこには痛々しい火傷の跡があった。
「それは」
「処刑人から聖水をかけられた。わたしは人ならざる者、魔女となったから。人には被害はないけれど、わたしには責め苦に等しき火傷になったわ」
まくっていた袖を元に戻して、話を続ける。
「私はいつも神に祈ってるわ、この死ぬほど痛い苦しみと『死ねない』という心苦しさから逃れさせて欲しいとね」
「魔女が神に祈るとは皮肉だな」
「そうかもしれないわね、でもわたしは神を信じているから」
神を信じ崇めるのに神が人を選ぶことはないというのは本当のようだ。
「名前はなんていうんだ」
「キュリエよ、アルナイト」
ふいに自分の名前を呼ばれて彼は驚きを露わにする。
「自警団に言うつもりか?」
「言わないわ、でもあなたにとってみれば自警団に報告したほうが得策かもしれないわね」
「お前にとって得策ということじゃないのか? どういうことだ」
「二日後の昼下がり、この都に何かが起こる。とだけ言っておくわ」
「……」
「いま、私の中に悪魔がいる。その悪魔はいま気まぐれにも幸いなことに眠っている。だけど目覚めたとき、この都は陥落する」
「何かのたとえか?」
「そのままの意味よ。そして、その悪魔の名前を言っておくわ。名はジン・ディストフィルド」
「なんだと……」
スプーンを落として、スープの上で波紋を立てる。
「だからもう一度言うわ。わたしを止めて欲しいと」
そしてキュリエはこの場から去っていく。
「ジンだと」
怒りに打ち震えるように足を揺らし、カタカタとテーブルが小刻みに揺れる。
「ほらご覧なさい、ジンは悪魔でしたわ、魔王の手下でしたわよ」
「そのようだな」
「アル、古剣コピスを取り返すチャンスですわね」
「そうだな」
ジンの奴は、本当に魔王に手を貸した悪魔だったようだ。
「どうせなら、勇者の手でジンが倒されるところを見てみたいですわね、アル」
「いや、あいつを止めるのはこの俺だ」
アルは立ち上がり、細く冷たい目で周りの風景を静かに見て、熱情の湧き上がるままに決意した。