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8 間違った指令、遠くの惨劇、抜ける「黒」、還る水たち

 灰色の空に、黒煙が立ちこめていた。

 その黒煙をかすめるように、白い雪が、横風に乗っていく。

 針葉樹の林は、風にざわざわと騒いでいる。夕方が近いのだろうか?否。まだ朝だ。なのに空は暗い。この惑星の冬の特性だった。

 大半が冬である惑星マレエフの、本格的な冬は、色の無い世界だった。雪の白、空の灰色、木々の黒、ただそれだけが複雑で、そして奇妙に単純なコントラストをなしている。

 尤も、その中に居る者にとって、そんなものはどうでもいいことだったが…

 彼は雪の中に落ちた銃を拾い上げようとして、その指先に走る刺すような痛みに、慌てて手を引っ込めた。そしてポケットから既にやぶれかけている手袋を出すと、ぎゅっと音がするくらい強く、その手にはめる。

 冷えすぎた金属は、人工の体温を持った人工の皮膚を破こうとする。


 もうどのくらい、この場に居るのだろう?


 キムはゴーグルを一瞬上げると、そこについた雪を軽く払った。レプリカの目は波長を自由に変えられるし、指向性を絞り込めば、遠くのものも近くのものも自由に見られるから、それはもう、ただ単純に雪よけの役割しか果たしていない。

 長い髪は、あれからずっと、毎日、編まれている。実際、ここ最近の戦闘の日々には都合が良かった。


 マレエフに戻ると言ったのは、彼の首領だった。

 あれからキムは、ハルと直接話すということは殆どなかった。連絡事項は、通信としてのテレパシイで伝えられ、彼はその命令…「命令」ではない命令にただ従っていた。

 船は、一所にとどまったためしはなかった。各地で迫害されている仲間を助け、そのために戦い、集め、そしてまたその地を飛び立つ。その繰り返しだった。

 休む間もなかったし、考える間もなかった。

 キムにとっては好都合だった。それまでさほど考えるなどいうことをしていなかった頭が、奇妙な程考えたがっていた。

 疑問を持つ、ということを覚えてしまったのだ。

 考えてみれば、疑問を持つまでの世界は単純だった。確かに自分は「覚めた」のだが、それでも、その自分を助けてくれた首領へ対して、疑問は持ったことがなかったのだ。


 ―――結局は、価値観を、人間から、首領へ移しただけじゃないか。


 キムは髪を編みながら時々舌打ちをした。

 だけど、だからと言って自分がこの集団に背を向けることができないことも、彼はよく知っていた。

 それが命令のせいでもないことを。


 では俺は何のために戦っているんだろう。


 そのたびその疑問は彼の中に走る。Gが訊ねた、あの質問。

 考えてみれば、戦うのに理由はなかったのだ。

 確かに首領のためという名目はあった。が、それは名目なのだ。


 だって首領に疑問を持っても俺は戦ってるじゃないか。


 問いかける自分に彼はそう答える。

 敵が来る。身体は勝手に動き出す。走り出す。戦闘タイプでもないのに、勝手に。銃を手にし、セラミック刀を握りしめ、その手で「命令」も無しに「敵」を、人間を殺すのだ。

 理由なんてないのだ。そうしなくては、生きていけないから、そうするだけなのだ。

 結局は、それを正当化するためだけに、誰かのためとか何かのためとか理由をつけていたに過ぎない。


 そうだよGに俺は言ってたじゃないか。生きるためにそうするんだよ。それ以外の何だって言うんだよ。


 そして声にならない声で叫ぶ。


 死ぬために戦ってるなんて、俺には判らないよ。


 ……雪が次第に強くなってきていた。

 ここがあの、秋の日に鮮やかな葉で埋め尽くされたファクトリィだと、誰が信じるだろう。舗装された道など、跡形もなく深い雪に埋め尽くされ、一足ひとあしと踏み進む彼の足取りさえおぼつかなくさせる。

 大気は既に氷点をどのくらい下回っているだろう。さすがのレプリカントでも防寒服が十分に必要だった。

 再びゴーグルをかけた目を軽く細める。先ほどから気配がそこらかしこに在るのだ。彼は銃を握りしめる。

 靴底にへばりついた雪が鬱陶しい。溶けることはないのですべりはしないが、次第に靴が重くなってくるのは確実に感じられる。

 だが目的まではまだ距離があった。彼はファクトリイに、必要なものを取りに行くべくここまでやってきていたのだ。

 戻ることを指示したのはハルだった。もうずいぶんの数の「仲間」を集めたが、その多くが至るところに傷を負っていた。その「仲間」の修理のために、必要な物資が彼等の船には足りなかった。

 当然だった。あの時彼等は慌ただしく飛び立ったのだから。必要なものは全て積み込んだように見えても、何かしらの漏れはある。

 行ってくれるな、とハルはキムに言った。

 ああ、とキムは答えた。

 他の答えは考えなかった。それが必要なら、俺はそうしよう。彼はそう考えた。それは誰のためでもなく。

 必要なのは、ファクトリイの中枢部にある倉庫にあると彼は聞かされた。


「結構な距離がある」


 ハルは言った。必要以上の感情は、その言葉の中には含まれていなかった。


「必要なものは、そう多くはない。これだけのHLM、そして今居るレプリカ達の数を考えると、さほどの量は必要ではない」


 そうだね、とキムはその時うなづいた。矛盾しているよ、と内心思いながら。


 だって。


 キムはだがそれは言葉にはしなかった。


 だってあんたは言ったじゃないか。最後には全てが終わるんだって。なのにどうしてこんな、その時を延ばすようなことをわざわざ俺にさせるの。


 残酷だよ、と彼は内心つぶやく。

 必要なものは、ひどく小さな集積回路だという。その必要な量全部と言っても、両手で抱えられる小さな箱一つにすっぽり収まってしまうくらいの。

 彼らはヴィクトール市からやや離れた地に着陸した。この惑星の防衛ラインはもともとさほどのものではない。

 それに加えて、この惑星の「冬」の気候である。そして電波障害である。小さな要素だったが、それを組み合わせれば、大きなカムフラージュになり得る。

 その隙間を縫って、キムはあのファクトリィに近づいていた。ファクトリィは郊外である。近くにあるのは、既に人里とはかけはなれた林や森、そんなものばかりだった。

 森も林も、かつて彼がここに居た時とはずいぶんとその姿を変えていた。

 いやそうではない。針葉樹の森は、決してその姿を一年中変えることはない。変わるのは、周囲の景色であり、それを見る自分の方なのだ。

 吐く息が白く凍り付く。手が凍えて、気がつくと、動きにくくなっている。

 ざくざくと深い雪を踏んで、彼は目的の場所へと近づいて行った。だがその途中で、彼は足を止めた。

 人の気配が感じられた。

 彼は肩に掛けた銃をゆっくりと下ろすと、掴んで走り出した。

 その途端、火線が彼をかすめた。


 …トラップか?


 そうではないことは、すぐに判った。機械仕掛けではなく、その狙撃手は人間に近い気配をもっていた。あの捕虜と何か似た、あのやや人間とは位相がずれた。

 風が、舞い上がる。頬をかすめるそれは、そのまま空へと舞い上がる。雪が頬にぴしぴしと当たって痛い。痛いほどだ。

 引き金を引こうとして、力が入らず銃が落ちる。

 彼はそれを拾い上げる。あらためて手袋をつけながら。

 人工の体温を一瞬にして奪い去る程の冷たさが、手袋を通して伝わってくる。彼は気配の方向へ引き金を引いた。そしてそのまま、走り出した。

 ああ何て走りにくいんだろう。キムは周囲の気配に気を留めつつ、それでも目的の場所へと足を速めた。靴が重い。風が痛い。視界が、どうしてこんなに狭くなってしまうんだろう。

 自然環境に罵詈雑言を吐いたところでどうにもならないのは判っているが、彼の中でそれは渦巻いていた。


 違う。


 彼は思う。


 どうにもならないから、口惜しいんだ。


 自分が反逆できるものならば、反逆すればいい。だが、こんな自然の姿、降ってくる雪、降ってくる運命、生まれついた運命、そんなものに対しては、ただもう、自分の無力さだけが焼け付くように、そして凍みつくように彼の中の何かを締め付けるのだ。

 彼はただ走った。そして気配の方向を撃った。目的の場所に向けて、一歩でも先へ行こうと、足を進めた。

 だが、奇妙だった。行く場所ごとに、必ず、その気配はするのだ。

 ところが、撃ったときに、それが当たったという手応えはない。確かにそこにそれが居たことは事実。確実にそれは射抜かれている筈なのだ。…普通なら。


 だが。


 彼は急に足を止めた。そして振り返る。背にしてきた景色を、振り返る。

 何か、ひどく、全身に、内側から、妙な触感があった。


 気持ちわるい。


 彼は思った。そして視線を空にやる。無意識だった。

 そして次の瞬間、彼は目に映るもの、ただそこにある現実を初めて疑った。

 黒煙が空を覆っていた。彼がやってきた方向から、それはこの強風に乗って、空を覆い始めていた。煙は、何かが燃えるから出てくるものだ、では何が燃えているの…

 この臭いは、木々の持つそれではない。彼の慣れ親しんだ、機械オイルやガソリンや――― 人工のものが、燃える臭いだった。

 彼は足を一歩踏み出した。


 戻らなくては。守らなくては。


 だがそれを押しとどめる自分も存在した。首領の命令を、守らなくては。自分一人が戻ったところで、状況は変わらない。それなら当初の命令を遂行してからでも…

 考える間は無かった。「気配」の方向から、火線が走り、彼の頬をかすめた。

 凍えた頬は傷ができたことすら気付かせない。火線は、彼の背後に回った。迷う間は無かった。彼は再び前に向かうしかなかったのだ。


 

 彼がその目的の場所についたのは、黒煙が空の半分をも覆ったかと思われる頃だった。広いファクトリイの中で、彼が最もよく過ごした場所。赤煉瓦作りの、中心部のその建物。その横の倉庫にあるというけれど。

 彼は銃で倉庫の鍵を撃つと、大きく扉を開け…次の瞬間、がっくりと肩と腕と膝の力を抜いた。

 そこには、何も無かった。


 そうだ。


 そういえば、そうだ、と彼は思い出す。そこに、何も無かったことは俺は知っていたはずだ。この中心の建物は、学校だった。そして倉庫は、その倉庫だった。

 レプリカのためのパーツなど、置いてある訳がないじゃないか。

 考えてみれば、当然なことだった。ただ、そこへ至るまでの記憶と考えの道筋が、塞がっていたのだ。頭の中の霧が、その時一気に晴れたような気がした。


 …お前は、誰だ。


 彼はゴーグルを取り、コンクリートの床に向かって叩きつけた。


 お前は俺の記憶を隠していたな。俺の感覚すら狂わせていた。そうだよく考えてみたら、あの火線は、トラップだ。気配は確かにあった。だけど、それは、俺が勝手に気配を感じていた。いや、感じさせられていたんだ。


 ずっと前から感じていた。自分には、何か別の者が、その気配を隠して、取り付いているのだ。それが何であるのかキムには全く判らなかった。だが、それが自分というレプリカをある程度コントロールできる存在であるのは確かだった。

 そしてそれは―――

 彼は何かが、胸の底からふつふつと湧いてくるのを感じていた。

 それはひどく珍しく、そして、強い感情だった。

 何て言うのだろう。トロアならその言葉を知っているかもしれない。

 だけど彼はそれを彼女に聞く気はない。

 彼はその場に座り込んだ。服ごしに、コンクリートの凍り付いた表面の冷たさが感じられる。

 彼は、ぶる、とそれに震える自分を感じていた。


 何だ?


 震えが、止まらない。


 何なんだよ!


 両腕で、自分自身を抱え込む。力を込める。防寒服の、体温を移した温もりが感じられる。だけど、震えは止まらない。


 何だって、いうんだよ!


 彼は思わず頭を大きく振り、立ち上がり、倉庫を飛び出した。その拍子に、編んだ髪を留めていたハンカチが抜け落ちた。長い、さらさらとした髪は戒めを解かれたとばかりに、吹きすさぶ風に大きく広がった。雪が、髪に絡み付いた。彼はそれをかき上げながら、空を見上げた。

 黒煙が広がっていた。更に大きく。

 迷うことは無かった。彼はその方向へと走り出していた。もうどんな気配がしようと、関係なかった。トラップがあれば、それは反射的に撃つが、それ以外の気配については、全てを無視した。

 彼は理解していた。それが、その時であるということを。


 靴が重い。

 苛立たしい。

 足を上げるだけのことに、どうしてこんなに、いつも以上のエネルギーが必要なんて。

 俺は知らない。

 俺は知らない!


 もどかしさと苛立たしさの中で、彼は奇妙なまでに、泣くんじゃないよ、と言う首領の姿を、声を思い出していた。俺はそんなお前の顔は見たくないんだというあの姿を。

 あの泣き声を。


 ああそうだね。あんたはそう言った。


 吐き出す息はただ白い。吐き出されたと思ったら、すぐにそれは細かい結晶になり、風に舞い、跡形もなく見えなくなる。

 林の中に飛び込むと、風に舞う髪の毛が、針の葉を持つ木々に絡み付き、彼の動きを奪う。引きちぎってしまいたい衝動にかられるが、枝の方を折ることでそれは解決した。枝をはらいながら行くから、腕にも力が要る。


 ああどうしてこんなにエネルギーが必要なんだ。


 そして彼は忘れていたのだ。大切なことを。

 突然、全ての世界が逆転した。


 しまった。


 彼は目を大きく開いた。ぐらり、と身体がその場に崩れ落ちるのを意識は冷静に気付いている。

 顔が、雪に半分埋まるのを感じる。それを避けるために身体を反転させることすらできなかった。


 …お前はまた自分の限界を忘れているんだから…


 記憶の中の首領の声が、脳裏に響く。


 ああ俺また、やっちまったんだ…


 オーバーヒートしたのだ、と気付くのには時間がかからなかった。そしてそれを再起動させてくれる、あの優しいのだかそうでないのかさっぱり判らないあの手がもうここにはないことを。

 半分埋まった顔、半分だけの視界の中で、彼は空が黒く染まっていくのをただ見ていた。


 …黒いな。


 これがそうだというんだろうか。キムは奇妙に冷静な意識でそんなことを考えていた。


 ねえそうなの? 

 あんたの言った黒い魔物って?


 何かひどく、彼は胸がひどく痛んだ。オーバーヒートしているのだから、そんな痛みなんか無い筈なのに、おかしいくらい、何か自分の胸の奥底が痛かった。

 何だか、ひどく笑いたかった。大きな声を立てて、笑いたかった。


 何を一体俺はやってるんだよ。こんなところで。

 そうなんだよな、仕組まれていたんだよな。


「満足か?」


 彼は自分の中の何か、にそう訊ねた。強いテレパシイを、投げかけた。

 その時だった。

 ず、と自分の中から、何かが離れる気配が、あった。

 彼は思わず大きく目を見開いていた。

 手が動かせたなら、背中に手をやっていただろう。

 脇腹に手を置いていただろう。

 腕をさすっていただろう。

 そんなあちこちから、自分の中から何かが羽化するかのように、抜け出した気配があった。

 目に見えるものではなかった。

 だがそれは、そこに確かに、在った。

 横たわる自分の視界に、それは、見えないが、確かに、居た。


 …黒だ。


 そう感じられた。

 何故そう感じられたのか、彼にもさっぱり判らなかった。

 ただその気配を、彼は、黒だ、とただ感じていた。

 眠りにつく寸前の一瞬の夢のような色合いで、それを黒だと感じ取っていた。

 「それ」は、ゆっくりと彼の前で、腕を伸ばした。

 彼はその方向へ視線を飛ばした。飛ばしたつもりだった。

 既に身体はぴくりとも動きはしないのだ。視線だけが、わずかな残存エネルギーを消費していた。

 次の瞬間、彼の脳裏に、情景が大きく浮かんだ。

 船の姿が見えた。機関部を撃たれ、炎上している。

 黒煙の中、仲間達が、応戦している。無謀とも言っていい程だった。

 得た武器の大半は、船の中だった。その中から急激な命令で飛び出した彼等は、手ぶらに近い状態だった。


 敵は?

 あああの軍服には見覚えがある。

 Gと同じ軍服。俺がたくさん殺した、あの天使種の連中の。

 指揮官は…Gと同じ黒い髪をしている。長い髪だ。綺麗な姿をしている。人形の様な表情。本当に「人形」なのは俺達なのに。


 視点を移す。

 首領は。首領の姿は何処に。

 キムはその姿をただ探した。どうして探しているのか、彼自身さっぱり判らなかった。

 自分を一人、こんなところへ置いて、あんたは勝手に、そんなふうに。

 …声が聞こえる。


「…命令を、下さいハル」


 トロアだった。必死な声だ。

 あの冷静な彼女とは思えない。

 冷静に、首領にその立場を自覚させ、責め立て、そしてそれを自分の役目だと言い放っていた彼女の。それは必死な程の。


「…駄目だ」


 ハルの声だった。彼はその姿を脳裏に浮かぶ映像の中に探す。視点が下がる。トロアはずいぶんと下を向いていた。その先を探す。


「お前は指揮を取ってくれ」


 その姿は。

 キムは声にならない声で叫ぶ。

 彼の首領は、トロアの視線の下、赤に染まっていた。

 人工の血液も、やはり赤かった。

 服の大半が破れている。撃ち抜かれたのだ、と彼にはすぐに理解できた。

 いくらレプリカでも、これは致命傷だった。

 レプリカは確かにそう簡単に死ぬ訳ではない。ただしそれは、しかるべき処置をすれば、の話だった。そこに設備はない。

 身体の大半を撃ち抜かれ、人工血液の大半が流れ出せば、機能は確実に停止するのだ。

 そしてメカニクルの身体が停止すれば、HLMにつながる機能も途切れる。


「嫌です」

「トロア」


 それでも首領の声は、いつもと変わらなかった。

 乾いた声。どうしてそんな声でいられるのだろう。

 あの時と違って、それは、こんな時でも泣き声ではない。むしろ安堵の色を伴って。


「フィアも散りました。この状況下では、既に我々は終わりです」

「お前が望んだことだ」

「そしてあなたも望んだことです」

「そうだね」

「お願いですハル。あなたはそれでも私には『命令』を本当にはしなかった。『命令』を下さい。あなたの、仇を、とらせて、下さい」

「俺はねトロア。お前が人殺しをするのは見たくなかったよ」


 彼はそれを聞いて、目眩がした。


 それでは俺ならよかったっていうの?

 確かに俺は何か別のものだったのかもしれない。

 純粋なレプリカではなかったのかもしれない。

 だけど俺は。


「…でもそれが、お前の最後の願いというなら」


 ハルは一呼吸おいて、彼女と視線を合わせた。


「行け。お前に俺の仇を撃たせてやる。人間を、レプリカの敵を、殺せ」


 ぐらり、とそれを聞いた瞬間、彼は目眩がひどくなるのを感じた。これが、「命令」か。

 確かに彼の聞いたことの無いものだった。

 そして彼には、必要の無いものだった。

 トロアはそして素早く立つと、その場から飛び跳ねるような勢いで立ち去った。その場には首領が残され、そしてそこに近づく者はもういない。

 自分もまた、そこには手が届かない。


 もういいよ。


、彼は声にならない声でつぶやいた。

 彼を見下ろすその「黒いもの」は、腕をゆっくりと下ろした。

 

 ひどく、低い声に、感じられた。

  

 …悪かった。


 彼はその瞬間、全てを理解した。

 「黒」は、その同じ色の煙の中へと姿を消して行った。彼にはその行き先が判ったような気がした。


 ―――時間の流れが、狂っているような気がしていた。風がいつの間にか止んでいた。

 だが全身にはもう力など入らない。

 長い髪が、雪の上に広がる。乱れても、それを直す手はもう動かない。頬の半分が凍りついている。

 目も――― 表面を覆う液体が凍り付いてしまう。

 閉じた方がいい。どうせなら。

 指先が、痛い程、こわばっている。手袋も、防寒着も、何ももう役には立たない。


 そうだよ目は閉じた方がいいよな。


 だけど、見える景色が妙に惜しくて、彼はなかなかそうできなかった。だが、それにも限度がありそうだった。

 そうしよう、と彼が最後の視線を空に向けた時だった。


 幻覚だ。


 思わず目だけでなく、口までぽかんと開いてしまう自分に気付いた。

 光の粒が、空へと昇っていく。

 いや光ではない。それは、水の粒子だ。

 あの惑星の、全てが一つで、一つが全てである生命体の身体の、分散されていた分子の、一つ一つが、きらきらと、雪に混じって、凍り、大気の流れに乗って、昇っていく。

 頭を割られたレプリカントの兵士の身体から、それは、ゆっくりと昇っていくのだ。

 遠すぎて、見えるはずはないのに。だがそれは本物だ、と彼は確信していた。

 還っていくのか、と彼はふと思った。

 灰色の空、黒煙、その中に、白い光が、ゆっくりと。


 ああそうか。


 キムはようやく彼の司令の言ったことの意味が判った気がした。


 あんたの願いは、これだったんだね。


 そしてその時、彼は、全身に大きく震えが走るのを感じた。


 何だこれは。


 それはねキム。


 トロアの声が、脳裏に響く。

 人間の持つ便利な言葉では、こう言うんだよ。


 …寒い。


 遠のいていく意識の中で、彼は彼らの首謀者の安らいだ顔を見たような気がした。

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