3 戦う理由を問われたら
「…そんなことはもう重々判っていることでしょう?」
無表情なトロアの声が、それに重なる。
「あなたは勝手です。そんなことは判りすぎる程判っているではないですか。何故迷っています?」
迷う?
キムはそっと扉に耳を寄せる。感度を高める。その会話の一欠片も聞き逃さないように。
「俺は迷っているように見える? お前には」
「見えます」
きっぱりとしたアルトの声は、首領を叱りつけているようにも聞こえる。どうしてそんな口調で、彼女が首領に向かって言えるのか。キムは驚いていた。そしてひどくそれに興味が湧く自分に気付いていた。
「私たちは、どんな結果になるにせよ、決着をつけてくれる存在として、あなたが必要だったのです。それは判っているはずでしょう? 今更、あなたには迷う資格などないはずです」
「…そうだね。俺はそういうことをいう資格はない」
「ええそうです」
トロアはきっぱりと言った。
「あなたには、そんな資格は一つとして、無いのです」
「ああ全くそうだ。お前はいつだって強い。昔からそうだったな。どうしてそういられる?」
「私はそういうものだからです。あなたがそういう人である限り、私はそういうものでなくてはならなかった。それだけのことです。そういう者だからこそ、あなたを眠りから覚ますことができたのではないですか」
どういう意味だろう。キムは眉を寄せる。誰が眠っていたというのだろう。
「俺はずっと眠っていてもよかったんだ」
「だけど眠ったままでは、終わることもできません」
終わる? 思いがけない言葉にキムは混乱し始める自分に気付いた。だがキムの混乱など、無論知らないトロアは続ける。
「終わらなくては、あなたが会いたい者にも決して会えないのです。それは判っているのでしょう?日和っているだけでは何も変わりません」
「…」
「あの時と同じでしょう?」
「お前の言うことは正しい」
ハルは重い声を立てた。
キムは聞き耳を立てながら、背筋がぞっとするのを覚えていた。
「だが正しいだけで、すべてが済むなら簡単だ」
「それは言い訳です」
トロアの声には容赦が無い。
「そして俺には、言い訳をするだけの時間はない?」
「無いです」
ああ、と吐き出すような、うめくような乾いた声が耳に飛び込む。キムは思わず目眩がした。その拍子に彼はそれまで近づいていた扉に身体をぶつけてしまった。
「誰?」
乾いた声が、問いかける。近づいてくる気配。聞き耳を立てていたことを気付かれたくないけれど、身体が動かない。
扉が開く。彼は反射的に顔を隠した。どうしてそうするのか判らなかった。だけど、それは、ひどく自然に。
「キム… こんなところで何してるの?」
ハルはその場にうずくまっているキムをひどく冷静に見下ろしていた。
「…あ、あのさ、ハル…」
「何か、俺に、用?」
声が、出なかった。
「用が無いなら、今は、近づくんじゃないよ」
「…あ… 服のしまってある部屋を…」
ようやく絞り出すように、彼はそれだけを口にする。そうだそれだけは聞かなくてはならない。
「服?」
「Gが…」
「…ああ、寒い?」
「らしいから…」
「ああ…」
納得とも何ともつかない表情で、ハルはうなづくと、あっちだよと素っ気なくそこから三つめの扉をさした。
「確かに、寒いよね」
それだけ言うと、ハルは扉を閉じた。そこからはもう声は聞こえなかった。ハルの声も、トロアのあの糾弾する声も。
何となく、自分の身体がこわばっているのに彼は気付いた。一瞬、立ち方をも忘れてしまったかと思った。無論それは錯覚だったが。
そこから三つめの扉を開けると、確かに保温性に優れていそうな服が、ずっと使われたこともなさそうに、透明な袋にくるまれ、畳まれて、いくつも重ねられている。
彼はその中から深いカーキ色の、大きめのものを選ぶと、両手に抱えた。
手に掛けた服は、たちまち彼の一定に調整された体温を反映して、腕の表面の温度を上げる。上がった表面にもう片方の手を突っ込むと、彼は内心つぶやく。それがそんなに大切なことなのかな。
首領は確かに、当然のようにうなづいたのだ。Gが寒いと言ったことに対して。
だがキムにはよく判らない。
それがそんなに大切なことなのかな。
寒いって、何なんだろう。
彼はふと疑問に思う。
*
ありがと、と防寒服を手にしたGは言った。
「お前はいいの? キム」
「俺は別に。確かにその服は温度を保つよね。だけどG、そんなにここは、人間には厳しい温度?」
「え? 何で」
「お前だって、ずいぶん寒い寒いって言っていたじゃないの」
「…ああ」
Gはうなづいた。キムは何となしその口調が、先刻の首領のものと似ているような気がする。
「寒いよ。…でも、気温だけじゃないから…」
「そこが俺には判らないけど」
「判らない方がいいよ」
「何で? 確かに俺は判らないことが多いけど。でも判らないよりは判った方がいいじゃん」
Gは首を力無く横に振る。
「そうとも限らないさ」
「そういうもの?」
「俺はね」
受け取った服を手に取ると、Gはそれをふわりと羽織る。やっぱりちょっと大きかったかな、と横に掛けながらキムは思った。だがGはそんなことはどちらでもいいように、微かに笑った。
「…ああ、暖かいね」
それは良かった、と彼もつられて笑った。Gは両手を通して、ぎゅっと自分自身を抱きしめるような格好になる。そしてそれを見ながら、キムはずっと思っていた疑問を口に出した。
「ねえさっきはずいぶん寒そうだったけど、どしたの?」
「…え?」
「何か、すごく」
「…ああ」
そうだったかな、とGはふらりと首を傾げ、目を伏せた。
「…うん、何かね。寒い… うん。すごく寒かったんだ」
「今は?」
「今はそうでもないけどね。…ちょっとさ、思い出したくないこととか、いろいろ頭の中を駆け回ってたから」
「…?」
キムは露骨に眉間にシワを寄せる。どうしてこの人間は、自分にこうも判らないことを色々言うのだろう。
「思い出したくないことをどうしていちいち思い出す訳?」
「別に俺は思い出そうとして思い出してる訳じゃないよ」
「変なの」
間髪入れずにキムは言った。反論が来るのを多少期待はしていた。だがGは軽く苦笑しただけだった。
それなら、とキムは同じ簡単な口調で別の質問を用意した。おそらくこの人間は、自分のことを単純な奴だと考えているはずなのだ。だったらそれを利用しない手はあるまい。
そしてどうして自分がこうもむきになって知りたいのか、キムはさっぱり判らないまま、用意した質問を口にしていた。
「どういう思い出したくないことよ」
ん? とGはちらりとキムを見る。
「お前には関係ないだろ?」
「関係はないけど、聞きたい」
物好き、とGは苦笑する。そして軽くうつむくと、それでも話し出した。
「味方を裏切ったことに関しては、俺は、そんなに辛くはないんだ」
「結構冷たいんだ?」
「かもね。妙な話、…ああキム、お前聞いたことないか? 誰が俺をここによこしたか」
「何となく聞いたけど」
間違いではない。彼の首領はそれらしい人物のことは示唆していた。それが誰であるのかは口にしてはいないが、確かにそういう人物が居ることは。
「俺はね、あのひとのためなら、別にいいんだ。それはそれで。ただ…」
「何かあるの? まだ」
「悪いことをしてしまった、なと。そういう奴が、居たから」
「好きだった?」
「たぶんね」
「自分のことでたぶんは無いでしょ」
Gは力無く首を横に振る。その拍子に、長い前髪が揺れて、キムの視界からは表情を隠してしまった。
「俺には判らないんだ」
「どーして」
「すごく、一緒に居る時間は楽だったんだけど」
「それじゃあまずかったの?」
「…どうだろね」
はっきりしないなあ、とキムは何となく苛立ちを覚える。
「じゃあその、お前に命じたひとのこと、お前はその相手より好きなの?」
「それもよくは判らないんだ」
「おい」
「お前達にとって生きるか死ぬかの問題に、そんな曖昧な理由で参加するからって怒られるかもしれないけど…」
「うん」
確かにそうだ。そんな曖昧で甘い理由で参加されてはたまったものではない。自分達は、生き残りがかかっているのだ。
「怒る?」
「うん」
キムは即座に首を縦に振る。だろうね、とGはつぶやく。
「だってそれじゃお前はそのひとと、そのお前の裏切った相手のことしか考えてないってことにならない?」
「そうだろうね」
ふう、とGはため息をつく。
「でもさキム、俺は、あのひとが未来を見せてくれたから、生きててもいいんだ、って思えたから」
「……どういう意味?」
「またこういうこと言うと、お前に怒られるけどさ」
「うん」
「俺はね、居るのが辛かったの。この世界に」
次の瞬間、キムはGの頬を殴りつけていた。
痛いなあ、とそれでも怒りもせずにGはつぶやき、殴られた頬を撫でる。
「お前それって…」
「うん。お前には、怒られても仕方ないな、と思うよ。だってね、お前は、生き残るために活動してるだろ」
何となく、その言い方には、ひっかかるものがあった。だがとりあえずキムは、そのひっかかりは無視することにした。
「当然だろ」
「だからさ、俺はそうじゃなかった訳」
「何で」
「訳がさ、これこれどうこう、言葉にできたら簡単だよね。…真綿で首を締められている感覚って、お前判る?」
「? 真綿で…?」
「別にさ、特別これという理由はないんだ。だけど、俺は自分がこういう生物であることが、何か、ひどく苦しかったから。俺が選んだ訳でもないのに、こういう、天使種みたいな」
「天使種みたいな? それであることが、嫌なのか?」
「嫌な訳じゃないんだ。ただ、俺が、それであることが、ただ苦しいんだ。そしてそのまま、ひどく長い時間を生き続けなくてはならない、ということが、俺には苦しかったんだ」
「…判らないよ」
キムは言葉を絞り出した。
「だってお前、お前がどうこう言ったって、そう生まれてきてしまったものは仕方ないじゃないか」
「そうだよ。だから、救いようが無いだろ?」
「お前、それ何か、間違ってる」
そうだ確かに。キムは確信する。その言い分は間違ってる。生まれてきたからには、生きなくてはならないんだ。たとえそれが自分の意志なんかじゃなくても。
それが当然じゃないか。自分の中で、声が響いた。
「うん。だから、さ。俺は、あのひとが、俺には未来にまだやることがある、と見せてくれたから」
「見せてくれたから?」
「…だからさ、俺は別に俺のために生きなくてもいいんだな、と思ったわけ。…でもさキム、お前は俺がそのひとのことしか考えてないって言ったけれど、お前はどうなの?」
え、と彼は思わず問い返していた。
「お前はどうして、戦ってるの?」
「どうしてって… レプリカの…」
「そういう理由のため? それとも、それを唱えている人のため?」
それは、と彼は言いかけて口ごもった。
そう言えばそうだ。彼は自問する。
俺は一体何のために戦ってるんだ?