冷たい驟雨
パニックにおちいってしまった榛美さんにかわり、今日の鍋は、僕が担当することになった。
ピスフィたちは、気を遣ってくれたのか、蔵書を見に行くといって悠太君の家に向かい。
榛美さんは、土間のすみっこでへたりこみ、すっかり、ふさぎきっている。
無理もない。
唐突に出生の秘密があばかれ、しかもそれが、あまりにも衝撃的なものだった。
かける言葉も見つからず、ただ、そばにいることしかできない。
「康太おめえ、今日の榛美ちゃんはおめえ、どうしたってんだ?」
そんな榛美さんの様子に、村の人たちはすぐ気づき。
客間にでるなり、足高さんが、声をかけてくれた。
「いろいろありまして……僕自身、うまくまとめられないんです」
「なあ、康太おめえ。おれたちにできることがあったらおめえ、なんでも言うんだぞ」
「ありがとう、ございます」
足高さんのやさしい言葉が、本気で心配してくれているその表情が、なによりもうれしくて。
だけど、なにひとつ、言葉にはできない。
「康太と榛美ちゃんにはおめえ、いつだっておめえ、世話をかけちまってるからなあ。榛美ちゃんが悲しそうだとおめえ、こっちだってつらくなっちまう」
「足高」
悠太君から事情を聞いている讃歌さんが、足高さんを、控えめに制した。
頭を下げて、土間に戻る。
榛美さんの横に座って、肩をくっつける。
離れることも、近づくこともしない、その距離が、すごくさみしい。
「わたしは……お父さんのこと、大好きでした。おっきくて、やさしくて、あったかくて、いつも、最後においしくて」
「うん」
いつもだったらわらってしまう榛美さんの口ぐせが、胸に刺さる。
「でも、お父さんは、そうじゃなかったんですね」
「そう、なのかもしれないね」
「お父さんは、わたしのことを、どう思っていたんでしょうか」
「きっと……」
言いかけて、やめる。
『きっと愛していたよ』なんて、いえるわけがない。
だけど、それぐらい無価値な言葉でもいいから、榛美さんに与えたかった。
榛美さんの笑顔が戻るのであれば、なんだって差し出してしまいたかった。
「ここにいて、みんなにご飯を作って、そうすれば、村はうまくいくから……だから、わたし、お鍋の作り方しかしらないんだ。おしえてもらえなかったんだ。だから、わたし、魔述をおしえてもらったんだ……」
「榛美さん」
オイルランプのあかりが、ぱちっと弾けて、消えた。
よそよそしい闇が、僕たちを包み込んだ。
榛美さんの言うとおりだ。
居酒屋が作物の再分配機能を持つためには、ごった煮でなければならなかった。
村で採れたあらゆるものが、平等におおざっぱに煮込まれているから、格差が生まれない。
網で採った鮎も、畑で採れた野菜も、同じだけの価値を持つ。
それが、穀斗さんの狙いだったのだろう。
だから榛美さんは、鍋の作り方しか教えてもらっていない。
そして、効率よく料理が作れるように、榛美さんを魔述師として育てた。
火の管理は非常に手間がかかり、事故の確率も高い。
火系の魔述師であれば、かまどを現代日本のコンロと遜色のないレベルで操れる。
居酒屋が、この村が正常に機能するための、もっとも重要な装置で。
榛美さんは、その付属品だったんだ。
合理的で、清潔で、留保なく完璧な装置の、ちょっとした便利な付属品だったんだ。
「康太さん」
「うん」
「わ、わたしは、どうして、生まれちゃったんでしょうね?」
涙があふれる直前の、細く、切れてしまいそうな声。
あまりにも痛々しい、榛美さんの声。
どうすることもできなくて、僕は、榛美さんを抱きしめた。
腕の中の榛美さんは、つららみたいに冷たく、堅い。
ひだまりのやわらかさは、どこにもない。
「ごめんなさい」
どうしてだか、榛美さんが、あやまる。
きっぱりとした拒絶のように聞こえて、だけど僕は、榛美さんのことを抱きしめつづけた。
「ごめんなさい、康太さん……いつもはうれしいのに、康太さんが近くにいると、それだけでうれしいのに……わたし、おかしくなっちゃったみたいです」
榛美さんの涙が、僕のうなじに落ちる。
冬の雨みたいに冷たい涙だった。
なにを言えばいいのか、なにを言うべきなのか。
「あのね、榛美さん」
きっとかけるべき言葉なんてないだろうに、どうしてだか僕は、口を開いていた。
「僕がこの世界に迷い込んで、最初に会ったのが、榛美さんだったんだ。あのときの僕はすごく途方にくれていたよ。なにしろちょっと前まで東林間にいたからね」
榛美さんからの返事はない。
ただ、冬の雨のような涙が降りそそぎつづける。
「お店の経営のことだとか、人生設計だとかさ、いちどきに全部ひっくり返っちゃって、おまけに迷い込んだ異世界が、妙に親近感を感じる里山の風景でさ。実のところ、それがすごくつらかったなあ」
どしゃぶりの雨の中、僕は、ただ、しゃべり続けている。
抱きしめていないと、言葉をかけていないと、榛美さんが闇の中に消えてしまいそうで。
冷たい驟雨が、僕を凍らせてしまいそうで。
「それから、ミリシアさんがやってきて……あの時はしかっちゃってごめんね、榛美さん。たぶん僕にも、余裕がなかったんだ。なにしろ異世界に来て一時間だったし、なんとか自分を保とうとしていたんだと思う。
よし、僕は居酒屋経営者で、君は失敗したスタッフだ。僕がフォローするから、以後気をつけてくれたまえ。みたいなさ。そういう自分にすがらなくちゃ、もう、どうしようもなかったんだ」
汗のにじんだ、冷たい体は、いつまで経ってもあたたまらない。
僕の体が、榛美さんの温度で、ゆっくりと冷えていくのを感じる。
「でもね、そうやって、ミリシアさんに料理をつくって、それから、榛美さんと一緒にお酒を飲んで……そのときね、なんとなく思ったんだよ。単にべろべろに酔っぱらったからかもしれないけど、とにかく思ったんだ。
この世界で、おいしいごはんとおいしいお酒を作って、それを喜んでくれる人がいれば、僕も生きていていいんじゃないかって。
榛美さんが喜んでくれるなら、ここにいることを許されるんじゃないかって」
榛美さんの手が、ぴくりと、うごいた。
僕の体と榛美さんの体の間で、ちいさく折り畳まれていた腕が、ゆっくりと、うごきはじめた。
「いろんなことがあったよね。ほら、榛美さんが悠太君に、あついおもちをぶっかけたこと、覚えてる? あの時の悠太君の顔、思い出すだけで今でも笑っちゃうなあ」
闇の中で、声をあげて笑う。
音で満たしていないと、こわかった。
「で、でも康太さんは、わたしのこと、おこりましたよ?」
榛美さんが、かすれた声で、そう言った。
「うん、そうだね。それは怒るさ。なにしろ食べ物を無駄にするのは、あんまりほめられたことじゃないからね。でもそれはそれとして、悠太君のあの顔といったら、すごかったよねえ」
「そう、ですね」
そよ風のような笑いだったけど、それは、たしかに、笑いだった。
「ほら、人をたたくのにちょうどいい長さの棒、あれを榛美さんが出したときの、悠太君の顔っていったら」
「ユウがわるいことをするからです。わたしだって、棒で人をたたいたりしたくはないですよ」
「とはいえ、あの棒がなかったら、僕も死んでいたからね」
榛美さんの体が、ちいさくふるえる。
僕はなにも考えず、ただ、思いついたことを手当たりしだいにしゃべっている。
居酒屋経営者としては、まがりなりにも優しさの文法を心得たものとしては、完璧に失格行為だ。
「榛美さんが買い出しに出かけて、それで気づいたんだよ。僕は榛美さんにずいぶん、よりかかってたんだなって。さみしくて、つらかった。まさか気晴らしに出かけた先で、あんなことになるとは思わなかったけど」
「あのときは、ほんとに、ほんとに……こ、こわかった、です」
「ごめんね。僕はときどき、わけのわからない方向に走り出しちゃうからさ。きっとこれからも、榛美さんにたくさん迷惑をかけると思う。
だけど、それでも、わっ、分かってはいるんだけど……」
声が震えている。
ろくな言葉が出てこない。
「榛美さん、ぼっ、僕は、これからも、榛美さんと……め、迷惑かもしれないけど、それでも。榛美さんがかなしい顔をしてるのが、す、すごく、つらいんだ」
つたない言葉、ぼろぼろの文脈。
文法なんかとっくに失われた、ただの単語の羅列。
だけど、分かってもらいたかった。
榛美さんに、僕の気持ちをとどけたかった。
今日、この一度限りでいい。
この後の人生全てが泥浸しになっても構わない。
ただ一直線に、自分の気持ちを相手に手渡せたら。
僕は心底、そう望んだ。
「だから、榛美さん、だっ、だからね、どうして生まれちゃったんだろうなんて、言わないでほしい。僕は、榛美さんがいたから、ここにいられるんだ」
それ以上の言葉は、もうさかさに振っても出て来なくて。
僕は榛美さんを抱きしめたままでいた。
「ふふっ」
不意に榛美さんが、笑い声をあげた。
手をのばして、僕の頬にふれた。
「康太さんも、泣くことがあるんですね」
「……え?」
言われて、自分のまぶたに手をやる。
「ほんとだ」
びっくりした。
めちゃくちゃ泣いてる。
やけに喋りづらいとおもった。
「うわっ、ほんとだ、うそ? すごい、泣いてっ、うわー、気づきたくなかっ」
怪我をしたことに気付くと、急に痛くなるみたいなもので。
あとからあとから、涙があふれ出した。
「ごめっ、うそだ、はしっ、いや、その、すぐっ泣き止むっ……」
「だいじょうぶですよ」
榛美さんが、僕の頭をかかえて。
胸元に、抱き寄せてくれた。
その暗闇は、とても親密で、あたたかくて、森の中のひだまりの香りがした。
「びっくりして、泣きやんじゃいました」
「ごめっ、ひぐっ、いや、こ、こんなつもりっ」
必死で弁解しようとしたけれど、しゃくりあげているせいで、物理的に言葉が出てこない。
榛美さんは、そんな僕の頭を、毛なみとさかさまに、なでてくれた。
「康太さん」
「うん」
「ありがとうございます」
抱きしめられたまま、首を横に振る。
これじゃ立場が逆だ。
「康太さんの指のこと、すごく好きなんです。ちょっとごつごつしていて、おっきくて、それなのに、すごくきれいでおいしい料理を作ってくれるから」
榛美さんが、僕の手に触れ、ひとさし指の輪郭をなぞる。
「康太さんの声のことも、好きなんです。すこし低くて、ざらざらしてて、耳に入ると、体がぴりぴりするみたいで……」
暗闇の中で、榛美さんの声は、やわらかい春の日差しみたいだ。
「ねえ、気づいてました? 康太さんって、すごく安心してしゃべっているとき、人の顔を見ていないんですよ」
「あれ? ほんとに?」
「いま、わたしの顔を見てませんよね?」
「……ああ、たしかにそうだ。よく分かったね、まっくらなのに」
「分かります。康太さんのことだもん」
「だれにも言われたことなかったなあ、そんなこと。そっか、そうだったんだ」
「わたしだけが気付いている、ふたりだけのひみつです」
「二人だけの秘密だね」
「えへへ」
顔をあげる。
僕たちは、そろって、照れ笑いをうかべている。
「やっぱりわたしは、康太さんが近くにいると、それだけでうれしいなあ」
「僕もだよ。僕も、榛美さんと一緒にいられて、それだけでうれしいんだ」
「なにしろ、最後にはおいしいですからね」
「なにしろ、最後にはおいしいからね」
二人してまったく同じことをいって、まったく同じタイミングで、まったく同じ苦笑を浮かべて、それがおもしろくって、まったく同じタイミングで、またわらって。
それから榛美さんは、僕の胸に顔を押し当て、大きな声で泣いた。
生まれたばかりの子どもみたいに、いつまでも、泣きつづけた。




