エルフの魔述師
用意するのは黒豆、水、それから、にがりだ。
にがりは、精製のあまい塩を袋にいれて湿気の強いところに吊るしておくと、勝手に潮解してしたたってくる。
湿気を吸った塩の表面が溶けて、マグネシウムやカリウムなど、ミネラル分をふくんだ水になるのだ。
日本でも、明治や大正のころは、買ってきた塩を細長いざるに入れて台所に吊るし、にがりを取り除いていたのだそうだ。
踏鞴家給地では豆腐を作っているので、当然、にがりも存在している。
塩は、どうやら榛美さんが山向こうまで旅をして買ってきているらしい。
なるほど、村で唯一のごはんどころは、村で唯一、手軽に塩を摂取できる場所でもあるのか。
塩ぐらいでおおげさな、と言ってはいけない。
その昔、塩は政府の専売だったし、給料を意味するサラリーの語源は塩、なんてのはあまりに有名な豆知識だろう。
塩、というか、ナトリウム塩を摂取しないでいられる人間というのはほとんどいない。
必須ミネラルのくせに汗として体から流れ出るというのは、なんか生命のありようとして間違っている気がする。
おまけに、塩の入手には、ちょっとした操作が必要だ。
海水を煮詰める、乾かす。
岩塩を掘り出す。
塊を切り出してラクダで運ぶ。
その他もろもろ。
専売になったり、給料になったりするのも納得だろう。
とはいえ、どこかの山奥には、塩分と言えば植物の灰から取れるものしか知らない、という民族がいるらしい。
石毛直道先生の御著書で読んだ。
塩といってもこれはカリウム塩で、カリウム塩ということは、ナトリウム塩を体内から排出するはたらきを持っているはずなんだけど。
人体のふしぎだ。
それはさておき。
「なにをつくるんですか?」
もう分かった人もいるだろうから、さっさと正解発表しよう。
「とうふだよ」
豆腐だ。
なんのひねりもない豆腐を作るつもりなのだ。
榛美さんは、案の定、
『なんのひねりもないんですけど』
みたいな顔をした。
気にしない。
いっぱしの経営者たるもの、自分が間違っていると思ってしまったらおわりである。
さあ、おいしいごはんをつくろう。
エプロンの前ポケットから、中折れ帽をとりだしてかぶる。
渋谷で帽子屋をやっているというお客さんからもらったものだけど、これをかぶって料理をしていると、なんだか正体不明の感じがあってたのしいのだ。
まずはすり鉢とすり棒を用意して、黒豆をひたすらすっていく。
あぐらをかいた足の間にすり鉢を固定し、背中を丸めて、ごりごり。
どれだけ細かくすれたかで、仕上がりが違ってくるのだ。
ご家庭では、フードプロセッサーかハンディブレンダーをつかおう。
居酒屋『ほのか』のひそかな人気メニュー、“国産大豆の濃厚よせ豆腐”では、ハンディブレンダーをつかって一瞬で撹拌していた。
アルバイトのツダヤマ君の仕事だった。
すり鉢でやるのはあまりおすすめしない。
途方もなく時間がかかるし、とにかく疲れるからだ。
ごりごり潰して、ときどき水をくわえて、またごりごり。
本当は豆の戻し汁を使うのが一番いい。
なにしろ水溶性のビタミンやポリフェノールがたっぷり含まれているから。
でも、うさ耳騎士はダメージ床っぽい色にもおののいていたし、ここは断腸の思いで井戸水をつかわせてもらう。
腕が痛くなってきても、まだごりごり。
「あの、一人分の豆腐でしたら、そんなに必要ないかと思うんですけど」
さっきから、僕の前にちょこんと座って作業をのぞいている榛美さんが、なんかかわいい。
興味深いのか、エルフ耳がぴくぴく動いている。
そういう動きをするのか、エルフ耳。
「うん、豆腐だけだったらね。湯葉も引こうと思うんだ」
ごりごり。
「ゆば……?」
榛美さんの口がはんびらきになった。
「知らない? 豆乳をあたためて」
「とうにゅう……?」
見てもらう方がはやそうだ。
黙ってひたすらごりごりに励んだ。
「榛美ちゃーん、いるー?」
「野菜もってきた!」
「さかなも!」
「みそも!」
「タニシいっぱいとってきた!」
ごりごりやってると、表の方が騒々しくなってきた。
「あ、はーい! ごめんなさい、ちょっと見てきますね!」
「うん」
榛美さんが客間にはしっていく。
「もうすぐ旦那も帰ってくるからね! 今日もおねがいね!」
「はい!」
「おねえちゃんおなかすいた!」
「うん、ちょっとだけ待っててね」
「まつ! えらい?」
「えらいえらい」
「よしよしする?」
「よしよし。まったく、あまえんぼさんなんだから」
村人が集まってきているらしい。
ふと外を見れば、陽がかたむいている。
そっか、もうすぐ野良仕事がおわりなんだ。
もどってきた榛美さんは、ざるいっぱいの野菜をかついでいた。
「ご、ごめんなさい、あの、わたし……」
「もちろん、村のみんなのごはんを優先してよ。うさ耳騎士の相手は、まかせといて」
「あ……ありがとうございます!」
すみっこで豆をごりごりしている間に、榛美さんは客間と台所を何往復もした。
葉野菜がたくさん。
木だらいの中で泳ぐ川魚たち。
そして、榛美さんの調理がはじまる。
まずは野菜を、包丁でばしばしぶったぎる。
魚も、たらいから掴みだし、鮎っぽいの、うぐいっぽいの、あまごっぽいの、まとめてぶったぎる。
ばかでかい土鍋を竈にのせ、井戸と台所を何度も往復して水で満たす。
そこにぶったぎったものを放り込み、味噌をいれる。
あ、吊るしてあったあの謎キノコも放り込んでる。
もどしたりしないんだ。
で、火を熾すんだけど。
ちょっと見たことのない感じだった。
まずは定石通り、石英と鉄をかんかんやって火花をおこし、枯葉に点火する。
枯葉が燃え始めたところで、榛美さんが奇妙な行動をとったのだ。
しゃがみこんでじっと火をみつめ、短く息を吐いて。
「炎よ、炎。
お前は勇敢なる防人にして、苛烈なる攻手。
お前は優しい温度と、無慈悲な熱。
炎よ、炎。
我が語彙は“焚べる”、魔述に応え、燃えて盛れ」
謡うように、ささやいた。
すると、ちろちろと落ち葉をなめていた炎が、ごばっと音を立ててふきあがった。
火の粉を散らしながら、盛大な熱が柴木を燃やしていく。
かまどのふたをぱたんと閉じる。
思わず手を止めて、そのさまを見つめていた。
なんということもなく、榛美さんは次の作業に取りかかる。
これまた大きな土鍋をかまどにかけ、水をそそぐ。
ふたをして、火をつける。
またも例の呪文を謡い、またも炎が燃え盛る。
「……え?」
「ふぇ?」
榛美さんはきょとんとした顔でふりかえった。
口がはんびらきになっている。
というか榛美さんは、だいたい口をはんびらきにしている。
「あの、ええと、今のって?」
「お米を蒸しているんです。この鍋も鉄じいさんが作ってくれたんですけど、二重底になってて」
「あ、いやいや、そっちじゃなくて……呪文を唱えてなかった?」
「魔述です」
『今ごはんたべてるとこ』
ぐらいの気楽さで、榛美さんが答えた。
「系は火述、語彙は“焚べる”……といっても、見ての通り、点った炎を操るぐらいの力しか、わたしにはありません」
「はあ……なるほど」
なんか毒気を抜かれて、それ以上たずねられなかった。
おっといけない。手がおるすだ。
エルフが魔法をつかうぐらい、まあ当たり前だろう。
魔法を使わないエルフの方がめずらしいぐらいだ。
今日一日、あまりにもいろいろなことがありすぎて、頭が半分ぐらいまひしている。
これ以上わけのわからないことを重ねられても、反応のしようがない。
とにかく、必死になって豆をすりつぶし、すり鉢一杯。
水とつぶした豆をあわせた、これを生呉と呼ぶ。
次はこいつを火にかけるのだけど。
「……ぜんぜんうまくいかない」
石英と鉄をぶつける。
火花が散る。
着火しない。
『火打石』は知識の中にはある。
だけど、実際に使うのははじめてだ。
ぜんぜん火がつかないし、炎をとじこめたかまどの輻射熱ですごくあついし。
汗だくになってうずくまっていると、くすくす笑いがふってきた。
見上げると、榛美さんが口に手をあててほほえんでいる。
「榛美さん……」
「あっ、ご、ごめんなさい。でも、康太さんにもできないことがあるんだっておもったら、なんだかおかしくて」
榛美さんのくすくすわらいが止まらない。
それにしても、たった半日でずいぶん高い評価をいただいたものだ。
「ちょっと待っててください」
僕の横にしゃがみこんだ榛美さんは、火打石を手に取ると、あっという間に着火してみせた。
「おおー……すごいね」
「康太さん、火を熾したことがないんですか?」
「機会にめぐまれなくてね」
「ふうん……」
すぐ目の前で、榛美さんが僕の顔をじっとみつめている。
かまどの熱だけじゃなくて、榛美さんの温度までつたわってくる。
みればみるほど、エルフだ。
ひたいのかたちも、ひとみの大きさも色も、鼻の高さも、くちびるの薄さも、なにもかもが完璧さを期してつくられたみたい。
汗のにじんだおでこにほつれた髪がはりついている、その様さえもうつくしい。
「あ、あの、康太さん?」
「え?」
「なんで両手を合わせているんですか?」
しまった。
なんかつい、おがんでいた。
どぎまぎするとか以前に、よくできた仏像を見ているみたいな気持ちになってしまった。
「あー、これは故郷の風習でさ。そういうなんかがあるんだよ」
「はあ……」
「さて、生呉の様子をみなくっちゃ」
あわてて立ち上がる。
実際、生呉というのはとても危険なしろものだ。
ご家庭で作る際は、たとえとなりに見目うるわしいエルフがいても、目を離してはいけないよ。
おっさんとの約束だ。
生呉というのは、細かい豆と、細かい泡と、水がほどよくまざったものだ。
これを火にかけるとどうなるか。
豆と水の粒子にとじこめられた泡が熱でふくれあがる。
つまり、ものすごいいきおいで盛り上がってくる。
ついでに、生の大豆にはサポニンという、やたら発泡する物質も含まれていて、なおのこと。
しかも、豆の主成分はタンパク質なので、べらぼうに固まりやすい。
ちょっと油断すると、鍋の底に、だしを取った後の昆布みたいな分厚い層ができる。
そしてその層がどんどん焦げていく。
そうなれば、もうおしまいだ。
ご家庭で作る場合には、だいたい二百グラムの豆を豆腐にするのに、容量五リットル以上の鍋を用意しよう。
じゃないと、ほんとうに悲惨なことになる。
焦げたタンパク質というのは、それはそれは、剥がれづらいものだよ……
根気よく、ただひたすら、かきまぜ続ける。
沸騰してきたら弱火にして……ん? 弱火?
「うわあ!」
もろもろとふくれあがってきた生呉が、鍋から飛び出そうとしている。
当たり前だけど、かまどに炎の大きさを調整する機能はない。
昔の人はどうやってたんだろう。
薪をかきだしたりしてたのか。
だが、試行錯誤しているひまはない。
「こ、康太さん? どうしたんですか?」
「火が! ひ、火がつよすぎて!」
「あ、ああ、そっか!」
榛美さんがバールみたいなものでかまどの蓋をあけた。
「炎よ、炎……」
謡う榛美さんの瞳の奥に、なにやら魔法陣らしきものが浮かび上がっている。
二つの円で、象形文字っぽいものを囲んだもの。
なんとなく、一万年前の『火』という文字です、みたいな感じ。
すると、どうだろう。
燃え盛っていた火の勢いが、見る間によわくなっていった。
「あ、ありがと、助かったよ」
「いえいえ……ああーっ!」
今度は、味噌と野菜を入れた大鍋がふきこぼれてきた。
榛美さんはそっちのかまども開けて、魔述を謡う。
次に、米を蒸しているかまどの方も。
大忙し。
これを毎日やっているのだから、たいしたものだ。
さて、生呉を火からおろすタイミングは、あぶくが収まって、水面が顔をのぞかせる頃。
しぶとく生き残っている細かい泡はアクなので、すくいとっておく。
煮詰めた呉の粗熱が取れたら、布に移して、絞る。
しぼった液体が豆乳だ。
このまま呑んでも本当においしい。
ほんのりあまくて、豆の味をしっかり感じる。
一度味わってしまえば、市販の調整豆乳なんか飲めなくなるぐらいだ。
「おからってどうしてる?」
「天日干しにして、堆肥にまぜてます」
「なるほど。食べないんだ」
「……おいしいですか?」
んー、そう言われると。
栄養はたっぷりあるけど、正直いって粉っぽいよね。
いろいろ調理法は思いつくけど、おいしい野菜に生まれ変わってもらう方がよさそうだ。
さて、ここで秘密兵器が登場する。
鉄じいさんの倉で発見した、木の小箱。
このなんの変哲もない木箱、こいつがあれば、ぷるんぷるんでなめらかな舌触りの、絹ごし豆腐が完成するのだ。
木綿豆腐と絹ごし豆腐のちがい、ごぞんじだろうか?
まずは木綿豆腐のつくりかた。
六十~七十度ぐらいにした豆乳に、にがりを振り入れ、しばし待つ。
すると、液体中にかたまりが浮かび上がってくる。
これをすくえば、ざる豆腐。
あなの空いた箱に木綿の布を敷いて、そこにざる豆腐をいれ、重石をのせて水分を抜き、固める。
すかすかで、歯ごたえがしっかりしていて、表面には木綿のざらつきがある。
水分を抜いているので、味がしっかりしている。
これが木綿豆腐だ。
一方絹ごし豆腐は、よく冷えた豆乳ににがりを入れて、蒸す。
冷やしてから蒸すことで均一に豆乳を凝固させる。
絹ごし豆腐のなめらかな舌触りは、水分の多さと、均一な凝固によって生まれるのだ。
絹でこしているわけではない。
そう、まずは冷やして……
「ああー……」
おもわずその場にうずくまった。
なんでこんなことに気付かなかったんだ。
この世界に、冷蔵庫なんかあるわけがない。
そもそも発想の前提が狂っていた。
おそらくこの世界には冷蔵庫がないから、なめらかな舌触りの絹ごし豆腐なんてのはそうそう食べられないはずだ。
だから、絹ごし豆腐をつくろうと思い立った。
でも、冷蔵庫がないという条件は、自動的にこっちにもあてはまるのだ。
思い込みというのはほんとうにおそろしい。
あまりにも自明すぎて、なんにもうたがっていなかった。
途方に暮れる僕を尻目に、榛美さんの作業はどんどん進んでいく。
榛美さんは、どこからか、臼と杵をひっぱりだしてきた。
杵は、あの、わかるかな、両端が膨らんでる、月でうさぎが使ってるみたいなやつ。
蒸し上がった米を濡らした臼にあけて、がしがしついていく。
「もち米だったんだ……」
新たなる発見。
踏鞴家給地で栽培されているのはもち米だった。
「あっつ、あっつ……あつつつ!」
ざっくりとついたモチを手でちぎり、あちあち言いながら鍋の中にぼんぼんぶちこんでいく。
ひとしきりもちを鍋に放り込み終えた榛美さんが、豆乳を前にとほうにくれる僕にきづいた。
「あの、康太さん……?」
「あのさ榛美さん。この辺に、すごくよく冷える洞窟とかないかな……」
「あれ? 御存知だったんですか?」
「だよね。あるわけない……え?」
顔をあげた。
榛美さんは例によって口をはんびらきにしている。
「もしかして、それを見にこの村まで来たんですか?」
「え、あの?」
「ううん……でもお父さん、あれは絶対に他の人にはみせちゃだめって言ってたなあ……」
「ええと?」
「康太さん!」
榛美さんがいきなり思いつめた表情になった。
「いいですか、約束してくださいったあ!」
「あいたっ!」
なにがおこったのかというと。
榛美さんが、ずいっと顔をよせてきて。
勢いあまって、おでこがぶつかりあったのだ。
「え、ごめん、それでなんだっけ?」
「いたたた……え、ええと、こほん。いいですか、約束してください!」
「はい」
「ぜったいに、他の人にはないしょですよ! ふたりだけのひみつです!」
「う、うん、わかった。ふたりだけのひみつだね」
「えへへ……」
「え? なんで照れ笑い?」
「ふ、ふたりだけのひみつですからね!」
「分かった。だいじょうぶ、絶対に秘密にするよ」
「ふたりだけの!」
「ふ、二人だけの」
「えへへ……」
だから、なんで照れ笑い?