優しさの文法-9
引き戸がぎしぎしとひらいて、戸口に湖葉さんの姿。
繊維を巻き付けた木の棒を、両手いっぱいに抱えている。
「おじゃましてます」
「捧芽の面倒、見ていてくれたのかい?」
「おう。康太がおめえ、とびきり良いものを呑ませてやったからよ。じきに捧芽もよくなるぞ」
足高さんがにっこり笑うと、湖葉さんはきょとんとした。
「いいものって?」
「なんだおめえ、言ったじゃねえかよ。康太がなんとかするって」
「え、えええ? いやいや足高さん、だって昨日の今日じゃないかっ」
湖葉さんがこっちを見る目には、半分がた恐怖がまざっている。
中一日でやって来るとは、思ってもいなかったのだろう。
「昨日の今日で、なんとかしました。なるべく急ごうと思いまして」
うっかり夢中になっちゃった面は、多分にあるけどね。
「まずは説明しましょうか」
三人、車座にすわって。
石鹸と葛根湯について、ひととおりレクチャーしていく。
とくに石鹸に関しては、なかなか繊細な扱いが必要だ。
しっかり語らせていただこう。
「うんうん、水に溶かして使うんだねっ」
「はい。分量も、お教えします。そうだ、食事はどう変えました?」
「紺屋さんの言うとおり、お粥にしたよ。お塩を入れて、それから野菜も、柔らかくなるまで火にかけてる」
「いいですね。よく噛んで食べさせるようにしてください。しばらく様子を見て、食欲が出てくるようだったら、豆乳と味噌のお粥にしてみましょう。あとで僕が作りますから、覚えてください」
「うんっ!」
湖葉さんは、身を乗り出して、何度も何度もうなずいた。
とても真剣に、話を聞いてくれている。
信頼されているってことだ。
力の及ぶかぎり、応えなくちゃ。
「なんだか……紺屋さんって、白神様なんだねえ。あたしなんかを助けてくれて」
「おう、そうだぞおめえ。康太は白神様なんだ」
「そういうのじゃないですよ。ただ、僕にできることがあるんだったら、みんなの役に立ちたいんです。それだけのことです」
「でも、ほんとに……ほんとに、ありがとうねえ……あたし、もう、色んなことが、自分じゃどうにもならなくて……」
両手で顔をおおって、声を殺し、泣き始めてしまう湖葉さん。
ためこんできたものが、溢れかえってしまったのだろう。
さて、僕の出番はおしまい。
あとは足高さんがなんとか……
「足高さん?」
なんかおかしなことになってるよ足高さん。
具体的に説明すると、中腰で、腕を中途半端にのばして、まっしろになるぐらい下くちびるを噛んで、きつく目を閉じている。
なんだこれ。
なにが起きてるんだ足高さんに。
「あ、あの、足高さん? それは一体……」
「ばかやろうおめえおれがおめえ湖葉のこと撫でたりはできねえだろおめえ」
ものすっごい早口の小声で、足高さんが言った。
「ああ、なるほど」
「あたりめえだろおめえ湖葉には好いた男がいるんだからおめえおれがどうこうできる話じゃねえだろおめえ」
早口すぎるし小声すぎるし、聞き取りづらいよ足高さん。
なんというか、本当に、間が悪いとしか言いようがない。
そして僕は、足高さんのこういうところが大好きだ。
「足高さん、さっき、簡単なことにこそ気づけないって言いましたよね」
「ああ? そりゃあ言ったがよおめえ、それがなんだってんだ?」
「いえ、まったくその通りだなあと思って」
まあまあ、野暮なことだとは思いますが。
「湖葉さん」
「うん、なんだい?」
僕たち二人のやりとりを、ぽかんとしながら聞いていた湖葉さんに、声をかける。
「昨日、葛乃さんとたまたま会ったんです。そこで伺ったんですけど、湖葉さん、好きな男性がいらっしゃるそうですね」
「んあっ!?」
湖葉さんは、力いっぱいのけぞった。
「なっななななっなんだい急にっ! そ、んなっ、そんなっ、だって、あたし、あたしは幅木さんに! ああ、葛乃、葛乃はまったく、昔っからあたしを困らせようって、余計なことばっかり言うんだからもう!」
湖葉さん、目の中をぐるぐるさせて、めちゃくちゃ混乱してる。
「そそっそれでっ!? 誰がどうとか、そういう話までしちゃったってことかいっ!?」
ものすごく足高さんに目線を送ってるよ湖葉さん。
いくらなんでも分かりやすすぎだよ湖葉さん。
「いいえ、そこまでは聞いていないんですけど」
「あ、そ、そうかい……それならいいんだけど」
ほっとしつつも、どこか残念そうな声。
よその男にかつがれる、とまで言ってしまった身の上。
やっぱり、自分からは言い出せないよね。
足高さんは相変わらず中腰で、期待できそうにないし。
「でも、どうしてその人のこと、好きになったんですか?」
「う……こ、紺屋さん、さては」
「実はおとといの時点で、だいたい気付いてました」
「まったく、人が悪いったらっ! 白神様ってのは、なんだって見えちまうものなんだねえ」
ため息ひとつ、皮肉を飛ばしてくる湖葉さん。
「どこが、って、改めて言われるとねえ……あうっ」
「あうっ?」
「な、なんだか、こっぱずかしいことばっかり思い出しちまうよっ! 紺屋さん、ほんっとうに人が悪いったら!」
耳まで真っ赤になって、うつむいて、口をもにょもにょさせて。
正座したふとももの間に、合わせた両手をつっこんで。
そのかっこうで、前後に体をゆらしはじめる湖葉さん。
なんだその動き。
「そのう、そうだねえ。最初はそりゃあね、恨むこともあったさ」
「そうでしょうね。仕方のないことだと思います」
「でもさ、それからさ、なにくれとなく、あたしたちの世話を焼いてくれてさ」
「そうだったんですか?」
「うん、そうなんだ。戸が叩かれてさ、開けてみたら誰もいなくて。でも、戸口に、採れたばっかりの鮎だのあまごだのが、置いてあったりするんだ。
冬になったら、それが干物だの、鶏の卵だのになってね」
そういう童話あるよね。
「ばかだよ、ほんとに。やりようってもんがあるだろうにさ。なんだってそんな、薄っ気味悪いやり方を選んじゃうんだか。
どんくさく逃げていく後ろ姿を見かけるまで、こわくて手も付けられなかったよ」
前後にゆれながら、頬をゆるめて思い出を語る湖葉さん。
『どんくさく逃げていく後ろ姿』が、あまりにも想像できすぎて、こっちまでほほえましくなってしまう。
「そういう、生きるのがへたくそなところが、お父ちゃんに似てるなあって思えてきてさ。あたしも葛乃も捧芽も、みんな、すぐに許しちまった。
でもね、そればっかりじゃないよ。今でも忘れられない。あたしのこと、助けに来てくれたときのことはさ」
堅葉さんが亡くなって、二年が経ち。
それは、雨期の終わりごろのこと。
豪雨と強い風が長く続いて、家はがたがたと震え、今にも吹き飛ばされそう。
雷が鳴る度に、捧芽君と葛乃さんが泣き出して。
ふたりをしっかり抱きしめて、背中を撫でているとき。
不意に、湖葉さんの中で、なにかが切れたのだという。
「いきなりのことだったよ。雷が一つ、近くに落ちて。目がくらむほどの明るさの後に、まっくらやみになっちゃってさ。そのとき、急に、なんていうんだろうねえ。身体が重たくなって、なにもかもが怖くなって、まわりの全部が、あたしたちを憎んでいるみたいに感じられて、涙が止まらなくなって……」
二年間、湖葉さんは、ひとりで堅葉の家を支えつづけた。
責任感と重圧と孤独に、押しつぶされそうな毎日だったんだろう。
湖葉さんが感じたのは、きっと、過労による抑うつ症状だ。
「何を考えていたんだかね。あたし、雨の中を飛び出していったんだ。お父ちゃんが帰ってくるかもしれないって、急にそんな風に思っちまったんだよ。お父ちゃんが帰ってくれば、なんでもかんでも、うまくいくんだって。ばかな話もあるもんだよ。
でもその時は、ただただ気が急いて、ただただ、泣きながら走り回って……足をすべらせて、川に落ちちゃったんだ」
渦巻く濁流は、湖葉さんの小さな体をめちゃくちゃに振り回した。
川底の岩、流れてくる木の枝や幹、拳みたいないきおいでぶつかってくる水流。
泥水をのんだ湖葉さんの意識は、あっという間もなく、ちりぢりばらばらに消えかける。
「死んじゃうんだって思った。お父ちゃんはもう助けに来てくれないんだって、その時になって、ようやく気付いたよ。
ぜんぶ諦めて、からだの力を抜いて……そうしたらいきなり、あたしの体が上にぐいっと引っ張られたんだ。
そのまま岸まで引きずられてね、見上げたら、そこに、その人がいたんだよ」
ああ、そういうことだったんだ。
暴れる川にまっさきに飛び込んで、子どもを助けたっていう話は、葛刈りの前の日に聞いていたけど。
助けた子どもっていうのは、湖葉さんのことだったんだ。
「怒られるかと思った。ばかなことをしてるんじゃないって、言われるかと思ったよ。とうに死んじまったお父ちゃんを探して、嵐の中をうろつくなんてね。
それかね、気の毒がられて、何も言われないんじゃないかって思った。何も言われず、そのままあたしを家に届けて、行っちまうかと思った。
でもさ、その人はね、なんでか、いきなり、謝りはじめてさ」
『すまねえ! 湖葉、すまねえ!』
『おれのせいだ、おれがしでかしちまったことで、湖葉は川に飛び込んじまったんだ!』
額を地面にこすりつけ、泣きながら、その人は謝り続けたという。
「なんていうかほんとに、間が悪いったらねえ。ふつうだったら、あたしをまずは家に帰すのが道理ってもんだよ。
でもね、あたしはそれが、すごくうれしかったんだよ。
誰よりもはやく、助けに来てくれた人が。
誰よりもよく、あたしのことを分かってくれていたんだ。
あたしはね、それがいっとう、嬉しかった。この人がいるんだって、この人は、あたしのこと、ちゃんと見てくれてるんだって」
長い話を終えた湖葉さんは、
「それからはずっと、その人のことを想ってるよ。それだけはずっと、これからも変わらない」
足高さんの目を見て、にっこりと、ほほえんだ。
僕もつられて、足高さんを見る。
それから、湖葉さんを見る。
湖葉さんは、ほほえみからの急転直下、呆れたような笑いを浮かべている。
というのも、足高さんの横顔に、ものすごく分かりやすく、
『はぁーすごい偶然だねえ! 同じことしてる奴が村の中にいたよ』
と書いてあったからだ。
「こ、この期に及んで……」
こうなるとさすがに絶句しかできないよ足高さん。
もう、僕の力ではどうすることもできないよ足高さん。
「ぷっ……あはは、あははははっ!」
おろおろしていると、いきなり、大きな声で湖葉さんが笑いだした。
「あっははははは! す、すごいよ、もう、ほんと、この人ったら……あはははは!」
湖葉さんは、足を投げ出し、おなかを抑えてけらけら笑う。
大きな口で、ひばりみたいによく透る声で。
「な、なんだおめえ? なんか面白い話でもしてたのかよおめえ?」
不思議そうな表情の足高さんを見ていたら、こっちまで笑えてきた。
すごいなあ、ここまで場を持っていく力があるとは。
榛美さんに負けてないんじゃないか?
「はーあ、もう……しょうがないったら。やっぱりあたしから言わなくちゃだめだねっ」
「不本意ですけど、それしかありませんね」
まさかここまでとは思わなかった。
僕の完敗だ。
「あのね、足高さん」
あらたまった表情で、足高さんと向かい合う湖葉さん。
足高さんは、まだ不思議そうにしている。
「あたしはね、足高さんに話しかけるたび、胸がどきどきして、舌が回らなくなるんだよ。いっつも、後から、変なこと言っちまったんじゃないかって、嫌われちまったんじゃないかって、こわくなるぐらいさ。今もこうして近くにいるだけで、胸の音が聴こえちまうんじゃないかって、びくびくしてるんだよ。
足高さんに命を救ってもらってね。面倒見てもらってね。優しくしてもらってね。その全部が、うれしかったんだ」
足高さんの表情が、じわじわと、変わっていく。
他人事っぽい納得から、自分のことだという理解、そしてパニックの兆し。
あ、やばいぞこれ。
また逃げ出すパターン来るんじゃないかこれ。
「ああ、ばかだね、なんだってこんな時に涙なんか出ちゃうんだ。そ、それでねっ、足高さん、ばっ、ばかな話だって、自分でも分かってて、だから、その、わっ、笑い飛ばしてくれりゃあ、それでいいんだけどさっ、あ、あたし、あたし、足高さんのこと、だっ、だからっ……」
湖葉さんが泣き出して。
足高さんが立ち上がる。
「だからっ、あたし、足高さん、あたしっ……」
「湖葉」
足高さんは、湖葉さんの前でしゃがんで、その肩に手をおいた。
優しい速度で、そっと、手をおいた。
「おめえのことは、おれがかつぐ。
いいな?」
短い言葉でそう告げて、湖葉さんのことを、だきしめた。
湖葉さんは、生まれたばかりのように大声で泣いて、足高さんに、すがりついた。
「うんっ……うんっ!」
嗚咽のあいまに頷いて、足高さんの胸に顔をうずめて。
ただただ泣き続ける湖葉さんの背中を、足高さんは、あやすように撫でつづけた。
「……お姉ちゃん。幸せに、なれる?」
いつの間に目をさましたのか、捧芽君が、ささやき声でたずねる。
「おれが幸せにする。湖葉のことも、おめえのことも、おれが幸せにするからな。まかせとけ」
「うん。足高さんなら、まかせられる」
安心しきった表情で捧芽君はうなずき、ふたたび、目を閉じた。
こうして、足高さんの恋バナは、無事に終わりを迎えたのだった。
めでたしめでたし。
……という風には、やっぱり終わらないわけで。




