優しさの文法-8
して、翌日。
「あれえ? 康太さん、なんだか今日は髪がさらさらですね」
「そうでしょ。さわってみる?」
「ほあ! そそそそそんなおそれおおくてそんなああーでもさわりたい! さらさらの康太さんの髪をさわりたさらさらだー! 康太さんの髪がさらさらだー!」
朝から榛美さんと楽しくやっていたところ。
「おう……こ、康太おめえ……」
のそっと、足高さんがやってきた。
疲れ切っているのに、そわそわした気持ちが止まらない。
表情と、せわしない身ぶりから、そんな感情が伝わってきた。
「おはようございます、足高さん。昨日はお疲れ様でした」
「あ、ああ……それで、そのおめえ、ど、どうだったんだ? 石鹸ってのはおめえ、ちゃんとできてたのかよ?」
「足高さんも、康太さんの髪の毛さわってみます?」
「いや、それはおめえ、さわりたくねえわ」
「ええー? こんなにさらさらなのに。ね、康太さん」
「うん。足高さんのおかげで、ちゃんとできましたよ」
「なにしろ髪の毛さらさらですからね!」
それはいいけど、あんまり引っ張らないでもらえるかな榛美さん。
二十六歳って、そろそろ抜け毛が気になり始めるお年頃なんだよ榛美さん。
「それじゃあおめえ、い、行くんだな?」
「はい。湖葉さんの家に行きましょう」
「それで、捧芽は元気になるんだな?」
「はっきりとしたことは何も言えませんけど、今よりはずっと、ましになるはずです」
足高さんの表情が、ぱっと明るくなった。
「そうか! そりゃあ、そりゃあおめえ、本当にいいことじゃねえかおめえ。捧芽が元気になりゃあ、湖葉もおめえ、よろこんでくれるよな? おれはおめえ、湖葉の役に立てたって話になるよな?」
「もちろんですよ。さあ、行きましょうか、足高さん。それじゃあ榛美さん、ちょっと出るね」
「はい、いってらっしゃい!」
にっこり笑顔の榛美さんがくれる『行ってらっしゃい』で、なんだか、この先いろんなことが上手くいくような気がしてくるよね。
「そうだ榛美さん、鉄じいさんが作ってくれた例のあれの中に、面白いものが入ってるよ」
「鉄じいさんが……って、あの変な箱ですか?」
「そうそう、変な箱。ちょっと味見しておいてくれるかな」
「あじみ……ということは、分かっちゃいましたよ! さてはおいしいものですね!」
「さすが榛美さん。じゃ、いってきます」
「はい!」
石鹸と、おととい作った葛根湯を持ったら、いざ、湖葉さんの家に。
「湖葉さん、おはようございます」
引き戸をノックしてみたけれど、反応はなし。
「女衆とおめえ、葛糸をつぐり(、、、)に行ってるんじゃねえかおめえ」
「ああ、そっか、そうですよね」
そういえば、事の発端は葛刈りだった。
発酵が終わって、繊維を取り出す過程に入ったということか。
葛布織の詳しい工程は知らないけど、飛び杼なんてなさそうだし、時間かかるだろうなあ。
「うーん、どうしましょうか。出直します?」
「そりゃおめえ、勝手に上がり込むわけにもいかねえだろおめえ」
と、門前でぐだぐだやっていたら。
「……あしだか、さん?」
よろよろっと引き戸があいて、幼い声がした。
「おお、捧芽じゃねえかおめえ。立って大丈夫なのか?」
「うん。きょう、きのう、歩けたから」
ぼさぼさの髪と、吹き出ものだらけの膚。
ぼろ布につつまれた、ひどく細い身体。
湖葉さんや葛乃さんによく似て、整った顔立ちの少年。
戸口に立っているのは、捧芽君だ。
「お姉ちゃん、みんなと、糸を作りにいってる。待つ?」
「おお、じゃあおめえ、そうさせてもらうかな。いいか、康太」
「はい。捧芽君、ちょっとお邪魔させてもらいますね」
捧芽君はこくんと小さくうなずき、よたよたと家の中にもどっていった。
「体調はどう?」
家に入るなり横たわった捧芽君に、声をかけてみる。
「ん……おなか、こわしてない。油も、出てないよ」
「そっか。それはよかった。食べ物を変えたんだね」
「お姉ちゃんが……ごめんなさいって。なんども、ごめんなさいって、言ってた」
「そうか。湖葉は、やっぱり気に病んじまってるんだなあ……」
「お姉ちゃんの、せいじゃない。そうだよね?」
「そりゃあおめえ、当たり前だろうが。湖葉はおめえ、ただよかれと思っただけだからな。だから捧芽もおめえ、お姉ちゃんにおめえ、気にしてないって言うんだぞ」
「うん」
やさしく語りかける足高さんと、すなおに頷く捧芽君。
「足高さん。お姉ちゃんのこと、聞きたい」
「おう、どうした?」
「お姉ちゃんは……幅木さんに、かつがれるの?」
「それは、それはおめえ……そりゃあ、おめえ」
足高さんは、なにか言おうとして何度か口をぱくぱくさせ、しまいには諦めてだまってしまった。
「捧芽君は、どう思う? 湖葉さんが幅木さんにかつがれたら、うれしい?」
そう問うてみる。
捧芽君はねがえりを打って僕たちに背中を見せ、しばらく、口をとざした。
「……お姉ちゃんが幸せなのが、うれしい」
出てきた答えは、含みのあるもの。
葛乃さんと同じだ。
「お姉ちゃんと、お父さんと。みんなの邪魔になってる。それは、すごく……いやだ」
捧芽君の背中がふるえる。
膝をまげて、爪先をまるめて、胎児みたいな恰好で。
捧芽君は、そう、つぶやいた。
「だから、お姉ちゃんが、幅木さんにかつがれても、うれしくない」
「湖葉さんが、捧芽君のために、自分を犠牲にしているように見えるんだね」
「……うん」
みんな、誰かに幸せになってもらいたくて、だからこそ、みんな、傷ついている。
本当にやりきれない話だ。
石鹸と葛根湯を作った程度のことで、それが一体、なにになるんだろう。
そんな無力感に、心がゆっくり、呑みこまれそうになる。
「捧芽おめえ、そりゃあ、心配するこっちゃねえぞおめえ」
明るい声で、足高さんがそう言った。
「あのなあ、おめえは知らねえだろうけどよ、湖葉には、好いた男がいるんだぞおめえ。おれと康太でおめえ、その男を見つけ出しておめえ、湖葉のことをかついでくれるように頼むからよ。
湖葉をかつぎたくねえ男なんざおめえ、村にゃあいねえってもんだ。そうしたら、湖葉はおめえ、幸せになれるだろ?」
「お姉ちゃんの、好きな、人?」
「ああそうさ。まずはおめえ、康太がおめえのことを治してやる。そういう段取りがおめえ、こっちにはできてるんだ。湖葉もおめえも、幸せになれるぞ。そうだろ、康太」
吹っ切れているはずなんて、ないだろうに。
ましてや、湖葉さんの気持ちになんて、気づいているはず、ないだろうに。
足高さんは、そんな風に言える人だ。
「ふふっ」
捧芽君が、わらった。
「足高さん、おもしろい」
「ああ? なんだおめえ、今の、面白かったか? おれはおめえ、まじめに話をしてるんだぞおめえ」
気付いていないのは、本人ばかり。
たしかにちょっと面白い。
なんだか少し、悩むのがばからしくなったかな。
「ごめん。頭、いたくて……さむい」
捧芽君が、小さな声でうめいた。
「ごめん、しゃべりすぎたかな」
「うん。笑った、から」
「そっか。それじゃ、ちょっと待っててね。いいものを持ってきたんだ」
台所を借りて、お湯をわかす。
からからに干からびた葛の根を煎じれば、葛根湯のできあがり。
「捧芽君、ちょっと体を起こすよ」
「ああ、おれがやる」
足高さんが、捧芽君の体に手を回して、上体をもちあげる。
捧芽君は、信頼しきった様子で、足高さんの腕に体重をあずけている。
「これ、は?」
「葛根湯……ええと、頭の痛みや、寒気を追っ払ってくれるものだよ」
器に顔をちかづけ、鼻をならし、顔をしかめる捧芽君。
おいしそうな匂いはしないよね。
「こいつを呑めばおめえ、小さい妖精がおめえ、どっかに逃げちまうって話だ。安心して飲め、捧芽」
捧芽君は足高さんの顔をしばらく見上げてから、ささいなおとがいの動きで、うなずいた。
「熱いから、あわてて呑まないでね」
そっと、器を傾ける。
くちびるをとがらせて、小鳥がついばむような速度で、捧芽君は、葛根湯をゆっくりと飲んだ。
葛根には、解熱、鎮痛効果があるという。
本来の葛根湯には他にも、発汗効果を持つさまざまな生薬が含まれているというけれど。
給地の医学レベルは、
『統計学的にいって、熱があるときにはこの草を食べてこの方角を向いて寝ると、わりあい良いこと起こりそう』
みたいなものだと推測される。
それよりは、ましな結果をもたらしてくれると思う。
「……あったかい」
ぽつりと呟いた捧芽君は、くたりと体から力をぬいて、足高さんの腕の中で寝息を立てはじめた。
「捧芽、よくなるかなあ?」
「根本的に治せるものではありませんけど、楽にはなるはずですよ。日々のごはんだったり、ちゃんと手を洗ったり。そういう積み重ねの方が重要です」
「手を洗う……水で、ってことかよおめえ? たったそれだけのことで?」
「たったそれだけのことで、小さな妖精は寄り付かなくなってくれるんですよ。できることなら、石鹸もちゃんと使って」
「おれには分からねえけどよおめえ、おめえが言うなら、そりゃ正しいんだ。
……そうか。そんなことで、いいんだなあ」
捧芽君を寝かせてやりながら、足高さんは、考え込むような慎重さで、言葉を口にした。
「簡単なことでいいんです。ただ、なかなか気づけません。だから、気づいた誰かが、知識をつなげていかなくちゃいけないんです。
それが、自分の好きな人たちを守るってことなんだと思います」
なんだか、自分に言い聞かせてしまった。
傲慢にはなりたくない。
お金のない人の前で、わざと小銭をぶちまけて拾わせるような人間には、なりたくない。
自分たちを白神と呼ばせたような人種には、なりたくない。
その上で、僕の好きな人たちの、力になりたい。
少しずつ、なにかが分かってきたような気がする。
考え込んでいたら、引き戸がぎしぎしとひらいて。
「ただいま……って、あらあら、足高さんと紺屋さんじゃないの」
湖葉さんの声がした。




