優しさの文法-7
「ただいまー、って、いないか」
榛美さん家に戻ってみれば、はやくも、もぬけのから。
足高さん相手にぐだぐだやっている内に、鉄じいさんのところへ向かってくれたのだろう。
葛乃さん、仕事がはやい。
さてさてそれでは、いよいよ本格的に開始しましょうか、石鹸づくり。
まずは木の灰にたっぷりの水をくわえ、しばらく置いておく。
こうすることで、灰に含まれたアルカリ性の物質を、水に溶かすのだ。
灰が底に沈殿し、水の色が変わってきた。
うわずみの液を、なるべく平たいほうろう引きの容器に移して、夏の宮で乾燥させる。
一時間も放っておけば、すっかり水分が蒸発し、あとに、白っぽい粉が残っている。
これこそ、木の灰にふくまれるアルカリ性の物質、炭酸カリウムの結晶だ。
気軽に皮膚が溶けるので、絶対にさわらないよう、慎重に、ほうろう引きの瓶に移す。
ちなみに、もし僕の忠告を無視して家で石鹸づくりをするつもりなら、決してアルミの鍋は使わないこと。
アルミとアルカリが反応して水素が発生し、爆発事故につながるよ。
ゴム手袋も忘れずにね。
「湖葉の想い人でおめえ……康太の知り合いでおめえ……想像もつかねえ……」
「足高さん、行きますよ」
客間でばかをさらす足高さんに声をかけ、次に向かうのは、鉄じいさんの家だ。
いつもの山道を、ひいひい言いながらのぼって。
沼のほとりにつくなり、悠太君がこっちに向かって、怒りの形相で走ってきた。
「あ、悠太君! ねえ悠太君、僕の新しいおもしろいやつ」
「ふざけてんだろ、オマエ」
「だよねー」
ああ、これですよこれ。
「ったく、次から次へと、ろくでもねえことばっかり思いつきやがって」
「いやあ、悠太君がいないと、どうも調子が出なくてさ」
「呼ぶなら最初から呼べ、このばか。オマエがやること、オレが興味持たないわけないだろ」
これですよ、このオラオラ系ですよ。
もうおっさんはめろめろです。
「蒸留酒はできてるぞ。ジジィが勝手にちょっと呑んじまったけどな。
そんで、酔ったからか知らねえけど、ジジィ、なんか卵の殻を勝手に焼き始めちまったぞ」
「ほんとに?」
「ああ。鉄打ち用の炉で、榛美の魔述まで使ってやがる。いいのかあれ」
「いいもなにも!」
すごいぞ鉄じいさん。
僕のやりたいことを、完璧に汲んでもらった。
「あー! 康太さん! 康太さんだ!」
鉄じいさんの家から、榛美さんがひょっこり顔を出して、力いっぱい手を振ってきた。
こっちも手を振りながら、榛美さんのところまで歩いていく。
炉に火を入れたからだろう、汗のせいで、髪がひたいにはりついて。
榛美さんが、なんだか色っぽいことになっている。
「榛美さん、いきなりごめんね」
「ううん、康太さんだからへいきです!」
「なんでオレには謝れないんだよ、オマエ」
「鉄じいさん、できたって言ってましたよ。なにができたんですか?」
「そりゃァ、石灰だろォがよ」
入り口近くでわちゃわちゃしていたら、鉄じいさんが、ぬっと姿をあらわした。
「鉄じいさん、ありがとうございます。よく分かりましたね」
「俺の郷じゃァ、家の壁にも使われてたからな。すぐピンと来たぜ」
そういえば鉄じいさんの郷の土は、石灰質だったっけ。
外壁に、石灰からつくるモルタルを利用していたのか。
「だがよ、こンなもン、ここで何に使うッてンだ?」
「いえちょっと、石鹸でも作ろうかと思いまして」
鉄じいさんは、ひとしきり『はあ?』みたいな顔をしてから。
「ガッハッハッハ! てめェまったく……てめェといると飽きねェなァ、えェ!? そォか、石鹸か! この村のもンかき集めて、石鹸ができるたァな! おそれいッちまうぜ!」
爆笑してくれた。
いよいよ、材料がそろった。
石鹸づくりも最終フェイズだ。
それでは、化学のお話をちょこっとだけ交えながら、進めていきましょう。
卵の殻の主成分は、炭酸カルシウムだ。
炭酸カルシウムを九百度ぐらいで熱すると、酸化カルシウム、つまり、生石灰ができあがる。
さて、この生石灰に水を加えますと、どうなりますかといえば。
「うわあ! なんだか一気にあったかい!」
この通り、エルフの娘さんがびっくりする。
ついでに、酸化カルシウムと水が反応して、水酸化カルシウム、つまり消石灰のできあがり。
けっこう熱を放つので、注意だ。
「そっちの方で、ケヤキ油となたね油を、あたためといてください」
「おォよ」
「榛美さんと悠太君は、おおきな鍋に半分がた水を張って、あたためておいて」
「はい!」
「お、おれはおめえ、なにをしてりゃいいんだおめえ」
「てめェは隅にでもいやがれ」
水酸化カルシウムの溶液に、さっき灰汁から集めた、炭酸カリウムの粉末を振り入れる。
水酸化カルシウムと炭酸カリウムが反応して、水酸化カリウム、つまり、苛性カリに変化する。
これが、さっき言っていたカ性化だ。
こうして得られた水酸化カリウムこそ、灰汁だけでは望めない、高PHのアルカリというわけ。
苛性カリは、日本だと劇物指定されているほど、危険なもの。
手順の分からない人間は近づけないこと。
僕みたいに、曖昧な知識と物足りない器具で、決して作らないこと。
忘れないでね、石鹸は買うのが一番。
おっさんとの約束だよ。
「油ァ溶けてきたぞ。持ッて行くか?」
「お願いします」
「だ、だからおめえ、おれはおめえ……」
「おっさんは隅にでもいろよ」
鉄じいさんから油の入った鍋を受け取り、苛性カリをそそぎ入れる。
溶液を、よく混ぜる。
水酸化カリウムの力で、水と油が結びつきはじめ。
溶液の表面に、なんだか変なごみくずみたいなものが、浮かび上がる。
「よし、ここで蒸留酒だ」
お酒を注ぐと、表面のごみくずがさっと散って、ものすごい勢いで泡が立ちはじめる。
たいていの場合、ここでは消毒用のエタノールが用いられるけれど。
もちろん、給地にそんな工業製品は存在しないので、蒸留酒を使うしかない。
ウイスキーの例にならえば、三回の蒸留で、アルコール分は八十度をこえているはず。
これは消毒用エタノールよりもやや高いぐらいの数値だから、代用がきくというわけだ。
「悠太君、お湯あたたまった?」
「もうちょっとで沸くぞ」
「ありがと。榛美さん、火を、お湯がわかないぐらいの強さにしてもらえるかな」
「おまかせです!」
「そ、その、おめえ……」
「足高さんごめんなさい、魔述をつかいたいから、ちょっと隅にでもいてもらえますか? 炎よ、炎……」
魔述で炎をとろ火にしたら、泡立つ鍋を湯煎にかける。
これをひたすら混ぜつづけると、だんだん、半透明の、どろっとしたジェル状の物体に変化していく。
「うわ、なんだこれ、どうなってんだ?」
悠太君、興味しんしん。
「鹸化だよ。くわしいことは、また今度教えるね」
「ああ、絶対だからな」
「うん。それじゃあちょっと、ほうろう引きでふた付きのつぼを取ってきてもらえる?」
「任せろ」
できあがったジェル状の物体を、とろ火の湯煎で八時間ほど保温すれば。
「おつかれさまでした」
すっかり真夜中になったころ、石鹸のできあがり、というわけだ。
はあ、どきどきした。
幸い怪我なく終わったけれど、今までで一番の無茶だったなあ。
「つかれた……寝るわオレ」
悠太君はその場でたおれこんで、すぐさま寝息を立てはじめた。
なにが大変だったって、使った容器を全部洗うのが、とにかくしんどかった。
一つ一つお酢で中和して、大量の水でしっかり洗い流す。
後片付けをおこたると、うっかり指が溶けたりするからね。
「石鹸、か。本当にできちまうもンだなァ」
と、鉄じいさん。
「試してみないことには、分からないですけどね」
「ここには全てがある、か」
「ええ。鉄じいさんの言った通りに」
「こンなもンまで作れちまうたァ、思いもしなかったがな。さすがは白神様ッてことか」
「やめて下さいよ。たいしたことはしてないです」
「へッ。まァだ慣れねェのかよ、ちやほやされることに」
こればっかりは、一生かかっても慣れそうにないなあ。
「俺も歳食ッちまったのかなァ。てめェなら……と、ばかげた期待もしちまいそうだ」
「期待、ですか」
「あァ。期待しちまッてるのさ」
言いたいことは、なんとなく分かる。
踏鞴月句、踏鞴家給地の領主。
どのような形になるのであれ、彼との決着は、つけなければならない。
「ドワーフにしたッて、独りでいる時が長すぎた……長すぎたんだよ、俺ァ」
鉄じいさんはため息をついて、背中を丸めた。
いつもはたのもしく見える、岩みたいなその肩が、今は、とても弱弱しい。
妻を殺した息子、息子に囚われた孫、逃げ出してしまった自分。
過去はぐちゃぐちゃにもつれて、どこから解きほぐしていいのか見当もつかず、途方にくれるしかない。
だけど、ねがわくば全てが、できる限り平和に終わってほしい。
鉄じいさんは、僕なんかに、そんな期待をかけてくれている。
「できる限りのことは、してみます。何一つ、約束はできませんけど」
「そォ言ってもらえるだけで、俺にゃァありがてェよ。約束はいィ、ただ俺が、てめェを信じちまッてるだけの話だ」
鉄じいさんは、もじゃもじゃまゆげの奥にある目を細めて、わらった。
「さァて、俺もひと眠りさせてもらうぜ」
ごろんと横になる鉄じいさん。
「すみません、場所をお借りして、長々と付き合わせちゃって。でも、石鹸があれば、給地はずっとよくなるはずですから」
「いっぱしのことを言うじゃねェか。そォさ、それでこそ白神ッてもンだ。足高の間抜けを、てめェの力で救ってやンな」
「はい、勿論です」
石鹸をかかえ、榛美さん家にもどる。
まずは実験、それから捧芽君に、それから、給地に。
闘いは、はじまったばかりだ。
さて、苛性カリから石鹸をつくった場合、固形のものにはならない。
べらぼうに水に溶けてくれるので、液体石鹸として利用するのが普通だ。
というわけで、まずは石鹸を適当に切り出して、水にぶちこもう。
さっと溶けて、水がとろとろになったら、これにてようやく、石鹸の完成。
給地の水は軟水だから、きれいに溶けてくれる。
「よし……ついにその時が来た」
榛美さん家の井戸の前で、ひとり、つぶやく。
その時、つまり、髪を洗う時が来たのだ。
冗談でも大袈裟でもなく、気持ちが相当たかぶっている。
踏鞴家給地の公衆衛生については、なんとなく想像できてると思うけど。
現代日本のお風呂や洗面所にあるようなものは、なにひとつ存在しない。
ということはつまり、これまで髪を洗うことすらできなかったというわけだ。
夏場にそれは、正直、かなりきつかった。
真水で髪を濡らしたら、石鹸をよく泡立て、頭皮を揉みあらい。
「ふおおおおお……」
夜中にひとり、変な声が出た。
ああ、これだ、これです、これですよ。
石鹸です、石鹸でした、石鹸なのです。
頭皮のべたつきが、髪にまとわりついた脂が、石鹸に絡め取られて消えていくこの感覚。
高アルカリでしっかり鹸化した石鹸は、泡立ちも上々。
「うああああ……!」
思わず、月夜に吠えた。
これは、すごい。
えらい。
石鹸えらすぎる。
皮脂を取りすぎない程度にしっかり洗ったら、ちゃんと水で流し、なたね油少々でトリートメントも欠かさずに。
これを怠ると、髪がギシギシするからね。
秋になったら、オイルトリートメント用の椿油もしぼろうかなあ。
それはともかく、どうやら石鹸は完成と見ていいだろう。
さあ、今日のところはさすがに寝て、明日に備えようか。
おやすみなさい。
……の前に、ちょっと積み残しをやっつけちゃおうかな。




