優しさの文法-5
満月が照らす、なまぬるい夜道を、二人、のろのろと歩いた。
「……足高さん」
何を言っていいのか分からないまま、口を開くと。
「幅木の旦那はおめえ、優しい人だからな。おれみてえなおめえ、間抜けなやつとはおめえ、全然ちげえんだ。
だからおめえ、おれみてえなおめえ、なんだってかんだって間違えるような奴にかつがれるより、それで湖葉は幸せになる」
僕の言葉をさえぎって、足高さんは、よるべない笑みを浮かべた。
優しさの文法、という言葉が、頭をよぎる。
幅木さんと話をしたことは、多分、ないと思う。
だけど、湖葉さんをかつぐとして。
妹さんも弟さんも、まとめて面倒を見るというのだから、優しい人なんだろう。
それは、文法に則った、完璧な優しさだろう。
でも。
「それでいいんですか」
「いいんだよおめえ。湖葉がおめえ、それでいいってんなら、おれはそれでいいんだ」
「足高さん。それで、いいんですか」
「そりゃあそうさ! 好いた女がおめえ、幸せってんだ! それよりうれしいことはねえさ!」
足高さんは、天をあおぎ、両目を手でおおって、おおきく笑った。
あんまりにもむなしい、笑い方だった。
どうにかこうにか、自分を納得させようとしている。
そんな感情が手に取るようにわかって、胸が痛んだ。
「で、でもよお、康太よお」
「はい」
「幸せにしたり……助けてあげたり……大事にしたり……そ、それを、おれができねえのは、くやしいなあ……」
手でおおった目から涙があふれて、足高さんの頬を伝った。
「な、なあ、康太おめえ、お、おれにできることって、ねえかなあ? 今さらだけど……少しでも湖葉に、おぼえていてもらいてえんだ。役に立ちてえんだ。なあ、おれはなにか、湖葉の役には立てねえかなあ?」
「……そうですね」
思いつくものは、いくつかある。
だけどそれを行えば、ことは、捧芽君を救うだけにはとどまらない。
給地全体の公衆衛生レベルを、根こそぎひっくり返すことになるだろう。
それが最終的に、どんな結果をもたらすのか。
ただの人間である僕が、この村の未来を、書き換えていいのか。
悠太君の言った通り、僕は今でも、まだ少し、おびえている。
白神の手で世界を変える行為は、許されるのか?
自分に、問うてみる。
すると答えは、案外、あっけなかった。
「いくらでも役に立てますよ、足高さん。
協力しますから、一緒にがんばってみましょう」
僕は、ただの人間だ。
目の前に困っている人がいて、もし助けられる力があるのだったら。
助けずにいられることなんて、できやしない。
「康太……康太おめえ、おめえってやつは、お、おめえ、康太ああああ!」
足高さんは、いきなり泣きくずれた。
「そんなに泣かないでください、足高さん。さあ、今から作業をしますよ」
「…………今から?」
ぎょっとした表情で顔をあげる足高さん。
「はい。ちょうどやっておきたいことがあったんです。二人だと作業も早いですからね」
「あ、い、いやおめえ、今からなのか?」
「そうですよ。時間がかかるので、今からやるんです。大丈夫です、副産物でおいしいものも作れますから安心です。それに満月ですし」
しりもちをついた足高さんが、ふるえながら、後ずさる。
「あああ、わ、わかった! おめえこれがおめえ、『ダメな時の顔』ってやつだなおめえ!」
「さ、行きましょう」
「ああああああ……!」
その前に、ちょっと榛美さん家に寄って、と。
「ただいま、榛美さん」
「わあ、康太さんだ! おかえりなさい、康太さん! あれ? その棒、どうするんですか?」
「いってきます」
「はい、いってらっしゃい!」
「おい、いいのか榛美ちゃん。白神様、なんか下穿きが濡れてたぞ」
「讃歌さん、あれは康太さんのかわいいときの顔です。かわいいときの顔の康太さんを放っておくと、めぐりめぐって、最後においしいんですよ」
「そ、そうなのか……」
榛美さんの優しさがうれしい。
さあ、人を叩くのにちょうどいい長さの棒を持って、目指すは里山だ。
「お、おい、棒なんか持っておめえ、どうすんだおめえ」
「葛を掘るんですよ」
「はあ? 葛だあ? おめえ、葛ならおめえ、もうすっかり刈っちまったじゃねえかよおめえ」
「はい、だから掘るんです」
「だ、だからおめえ、葛はもう刈ったじゃねえかおめえ」
「そうなんですよ、だから掘ろうと思って」
「だ、だから! なんだっておめえ、いきなり話が通じなくなってんだおめえ!」
さてさて、刈り取られたとはいっても、地面のあちらこちらから、つるが突き出している。
それをつかんで、ぐいっと引っ張ってみれば。
ぼこっと、存外たやすく、葛の根が引っこ抜けた。
「ああ、こんなに細いのか」
もっとこう、小さい山芋みたいなものを想像していたけれど。
弱めのごぼう、といったあんばい。
そもそも、でんぷん質のものを夏場に収穫しようっていうのが、大きな間違いなんだけどね。
そこは数で勝負だ。
「さあ、これをひたすら引っこ抜きましょう」
「ね、根っこぉ? だからおめえ、そんなもんをおめえ……分かった! やる! やるからおめえ、そういう目でおめえ、人を見るもんじゃねえぞおめえ!」
ご理解いただけました。
あとはひたすら、葛の根を収穫し続ける。
「ぶ、ぶはっ、ぶはっ、おめえ、これおめえ、昼間よりしんどいじゃねえか!」
根っこを引き抜こうとして尻餅をついた足高さんが、泣き言をもらす。
「そうですか? もうちょっと集めておきたいんですよね」
「こ、湖葉の、役に立てるんだな?」
「もちろんです。あればあるだけ、役に立てます」
「あああ! おめえ、やってやるからなおめえ! 見てろよおめえ!」
やけになって、根を掘り出しまくる足高さん。
お、負けてらんないねえ。
二人がかりで数時間、相当量の根を収穫できた。
「こ、これでおめえ、ど、どうするんだおめえ」
「まずはこれを川で洗います」
「それで」
「水の中で、ぼさぼさの糸になるまで、たたきつぶします」
「そ、それで」
「上澄みを捨てて、底の方にたまった茶色い塊を、水とまぜます」
「そ、そ、それで」
「それを何度も何度も何度も繰り返します」
「そ、そ、そ、それで」
「茶色い塊が真っ白になったら、からっからに干します」
「冗談じゃねえ!」
「ですよね。冗談ですから」
「はああ?」
これは葛でんぷんの取り出し方。
これから作ろうとしているものとは、ちょっと違う。
「洗ったら、皮をはいで干すだけです。それを煎じて飲むのが葛根湯ですね」
「か、かこ、葛根湯? それがおめえ、どう湖葉の役に立つってんだおめえ」
「僕の世界では、体調不良によく効く薬として使われていました。ちょっと具合が悪いくらいだったら、これを飲めば治るはずですよ」
おお、と、足高さんは感嘆の声をあげた。
「なるほど! 捧芽に飲ませるってわけだな!」
「ええ、その通りです。僕は家に戻って葛根湯を作りますから、足高さん、今日はここでお開きにしましょうか。明日、できあがったものを持っていきますよ」
そう言うと、足高さんは、首を横に振った。
「……おれも、やる。おれもやるからなおめえ。そうじゃなきゃおめえ、なんの意味もねえ」
足高さんの優しさに、おもわず、ほほえんでしまう。
僕は、この人の、役に立ちたい。
「うん。一緒にがんばりましょう、足高さん」
とはいえ、葛根湯の作り方は、それほどややこしくもない。
しっかり洗って、皮をはいで、あとは軒先に干しておくだけ。
古式ゆかしい葛根湯を作り終えると、夜はとっぷり更けている。
「それじゃあ、明日も頑張りしましょう」
「お、お、おうっおうっ」
慣れない作業の連続で、もうふらふらのよれよれになっている足高さんを、戸口まで送る。
「明日の朝、迎えに行きます。ちゃんと起きて下さいね」
「おうっおうっ」
あざらしみたいに鳴くと、足高さんは、よちよち、おぼつかない足取りで、道を歩いていった。
さて、僕も少し寝ようかな。
部屋の隅にころがっていたござを丸めて枕にし、客間の床によこたわる。
「んにゅ……こうたさんだ」
床几二つ分ぐらいはなれていた榛美さんが、うす目をあけて、こっちを見た。
「ごめん、起こしちゃった?」
「んーん……ねてるからへいき」
榛美さんは、僕の横まで、ころころところがってきて。
僕の腕をひっぱりだすと、枕にした。
「おやすみ、こうたさん」
「おやすみ、榛美さん」
夜は少し冷えるけど、ねむっている榛美さんはの体は、あたたかい。
そして腕が湿る。
迷い込んでしまったこの世界で、僕は、幸せ者だ。
多くの人に認められて、ここにいることを許されて、助けられて。
この人たちの役に立ちたい。
それがどんな結果を招こうとも。
なにを背負ってでも、僕の力を、捧げたい。
口の中で、『ニーバーの祈り』をささやいてみる。
「神よ願わくばわたしに
変えることのできない物事を受け入れる落ち着きと
変えることのできる物事を変える勇気と
その違いを常に見分ける知恵とをさずけたまえ」
はるか昔、ろくでもないことが起きる度、捨て鉢な気持ちで口にした言葉。
今はそうじゃない。
落ち着きと勇気を手にして、前へと進むときが来たんだ。
「足高さん、おはようわああ!」
引き戸をあけた瞬間、おもわず悲鳴をあげてしまった。
「どうしたんですかその顔!」
足高さん、まぶたがぱんぱんに腫れて、顔がめちゃくちゃむくんで、なのに顔色が死ぬほど悪い。
「……刺されたのが腫れてきたのとおめえ、寝れてねえのとおめえ、一晩中泣いたのとおめえ」
「すみません、野暮なことを聞いてしまいました。やれますか?」
「おめえ、何度も野暮なこと聞いてんじゃねえぞおめえ」
「ごもっともです」
と、苦笑い。
「それでおめえ、今日は何するってんだよおめえ」
「石鹸を作ります」
「……せっけん?」
「はい」
なるべく事の重大さが伝わるよう、おもおもしく頷く。
「そ、そりゃおめえ、なんなんだおめえ?」
「体をきれいにするものですよ」
「はああ。そりゃおめえ、なんていうかおめえ……大したもんじゃねえかおめえ」
あれ、ぜんぜん伝わってないぞ。
ものすごくぼやーっとした感想が返ってきたぞ。
どう説明したら分かってもらえるだろうか。
「その、ウイルスとか、細菌とか……目には見えない小さな生き物のせいで、人が病気になるって話を、聞いたことはありますか?」
足高さんは、ものすごく茫洋とした表情になった。
何を言っているのか、本気で分からないのだろう。
「ええと、じゃあ、なにが病気を招くかっていう、理由について、なにか聞いたことはあります?」
「ああ、そりゃおめえ、決まってるじゃねえか。小さい妖精が来て、ひでえ目に遭わせるんだろうがよ。そんなことおめえ、五つの子どもだって知ってるぞ」
うわ、ここに来て、ずっと棚ざらしになっていた『小さい妖精』が何者なのか判明しちゃった。
謎の感動がある。
それはともかく、想像はついていたけど、踏鞴家給地は、パスツール以前の世界というわけか。
誰かが手を洗ったりしているところ、見たことないもんなあ。
「石鹸というのは、小さい妖精が寄りつかないようにするためのものです。
つまり、その、石鹸を使うと……小さい妖精が、こちらの姿を見つけにくくなるんです」
ああ、即席でわけの分からない神話を生み出してしまっている。
これが百年後まで給地で伝承されたら、どうしよう。
「おお、そりゃあおめえ、ものすげえものじゃねえかよおめえ! なんだっておめえ、最初からそう言わねえんだ!」
「すみません、ちょっと持って回っちゃいましたね」
ものすごく有名な話ではあるけれど。
南アフリカ共和国では、手洗いに石鹸を使うようになっただけで、感染症の発生率が七割ほど減ったという。
そもそも、風邪をふせぐために手を洗うというのが、実のところ、比較的最近の発明だといえる。
すくなくとも十九世紀まで、予防衛生目的での手洗いという考え方は、世界のどこにも存在しなかった。
「さっそくおめえ、その石鹸を作って、湖葉のところにおめえ、持っていくぞおめえ!」
家を飛び出さんばかりの足高さんを、手で制す。
「足高さん、もう一つだけ、野暮なことを聞きますよ」
「ああ? なんだおめえ、まだなんかあんのかよ」
これだけは、言っておかなければならないだろう。
「小さい妖精から身を隠すというのは、たいへんなことです。ですから石鹸作りも、はっきり言ってしまえば、命の危険を伴うものとなります」
「……そ、そりゃおめえ、白神のおめえがいりゃあ、その辺はなんとかなんじゃねえのかよ」
「ばかをさらせば、僕も命を落としかねません」
それを、きっぱりと言っておく。
沿岸地域でもなく、獣脂もない給地で石鹸を作ろうとすれば、どうしたって身を危険にさらさなければならない。
「足高さん。それでも、手伝ってくれますか?」
精一杯すごんだ、なるべく低い声での警告。
それを、足高さんは、鼻でわらった。
「野暮なこと聞いてんじゃねえぞおめえ」
そう言ってくれると思った。
足高さんが危ない目にあわないよう、最大限の注意を払って作業しよう。
もしかしたらこの時点で、
『は? 石鹸? そんなの、灰汁と煮えた油で作れるんじゃねえの?』
と、お思いの方がいらっしゃるかもしれない。
原理的には間違っていないけれど、実際、灰汁、つまり木の灰の汁で、まともな石鹸を作ることは不可能に近い。
少なくとも、そこら辺に生えている木では、むずかしいだろう。
石鹸づくりに明るくない方は、以下の説明をよく読んでいただき、なるべく手を出さないことをおすすめする。
ドラッグストアで石鹸を買った方が、安いし品質もいい。
石鹸とはなんぞや。
ものすごく簡単に言ってしまえば、水と油がまざったものだ。
では、どう作るのか。
ものすごく簡単に言ってしまえば、アルカリ性の物質を使えば、水と油がまざってくれるので、それでできあがり。
脂肪酸とか加水分解とか鹸化とか、そういうややこしい話は、ひとまず置いといて。
水と油は、給地で得られる。
用いるのは、ケヤキ油となたね油だ。
問題は、アルカリ性の物質をどうやって手に入れるのか、という話だけど。
ここで灰汁が登場する。
つまるところ、木の灰の汁というのは、アルカリ性の物質だ。
だから原理的に言えば、水と油と木の灰の汁を混ぜれば、石鹸らしきものはできる。
問題は、灰汁のアルカリ性がそこまで強くない、という点にある。
パワー不足で、水と油が混ざりきらず、どろっとした液体に仕上がってしまうのだ。
そこで今回、力強いアルカリを手に入れるため、カ性化法による水酸化カリウムの獲得を目指す。
まだ意味は分からなくていいです。
とはいえ、ちょっとでも化学をかじった方からは、正気をうたがわれると思うけど。
前置きがだいぶ長くなったけど、さあ、作業を進めていこう。
「足高さん、卵の殻って、いつもどうしてます? 石鹸づくりに必要なんですけど」
「そりゃおめえ、砕いて畑に撒くもんだろおめえ。今はおれんとこの畑を休ませてるから、たまってるけどな」
よし、第一関門はクリアだ。
足高さんが土壌のPHを改良してることにちょっと驚いたけど、ちょうど休耕地に指定されていたし、なんとかなるとは思っていた。
ホームセンターなんかに行くと、卵の殻をくだいたものが、『有機石灰』という、ちょっと意味が通らないような名前で売っている。
有機石灰は、土壌をアルカリ性にかたむける力を持っている。
「その卵の殻、あるだけいただけませんか?」
「そりゃおめえ、かまわねえよ。楓流はおめえ、いくらでも卵をうんでくれるからよ。他にいるもんはあんのか?」
「あとは、濡れていない灰ですね。あちこち回って、かき集めましょう」
「おう!」
まずは灰集め、気合い入れていこう。




