優しさの文法-4
「おじゃましますー」
足高さん家とどっこいぐらいに、格子が取れた戸を引いて。
まず鼻についたのは、なんというか、酸っぱいにおい。
「ごめんね、捧芽が寝てるからさ。うつるもんじゃないから、安心してよ」
う、ちょっとだけ鼻をすんすんしたことを、見抜かれてしまった。
「すみません、気にしたわけじゃないんですけど」
「ありがとね。捧芽、帰ったよ。寝てるのかい?」
居室のすみで、葛布にくるまっている人影が、もぞもぞと動いた。
「おねえちゃん?」
変声期前の、かすれた声だった。
「それに、白神様と、足高さんもいるよ。足高さん、覚えてるだろ?」
「うん……すこし、ねる……」
「おやすみ。ゆっくりね」
しばらくすると、葛布が、規則正しく上下に動き始めた。
「捧芽、よくならねえのか」
「そうだね。なんだか、大きくなるのも遅いみたいだよ。よその子なんか、もうひげだって生えてきて、田んぼに出てるっていうのにね」
湖葉さんは、足高さんに答えながら台所に向かった。
「なにかお手伝いできること、ありますか?」
「ああ、いいよいいよ。そこら辺に座っておいて。騒いじゃっていいからね。捧芽だって、たまにゃあ誰かとしゃべらないとさ」
そうは言われても、気をつかう……というより、かなり気まずい。
ときどき捧芽君が、寝ながらせきこんだり、うめいたりするのだ。
ああ、へらへらしながら、
『お言葉に甘えて大声出しますけど、いやあすごく楽しみですよ!』
とか言えるような人間だったらよかったのに。
自然、僕と足高さんは、ちらと顔を見合わせたきり、うつむいてだまってしまう。
しかも日が落ちてきて、どんどんうすぐらい。
「……火ぃつけるか」
「はい、そうですね」
「悪ぃけどよおめえ、湖葉に、火ぃもらってきてくれ」
それで、二人して、オイルランプに火をともす。
すると、なんかもう、あちこちがぼんやりと明るくて、ますます気まずくなってきた。
なんだ、この空間。
想像以上にいたたまれないぞ、この空間。
台所の方では、なにかを炒めているような、小気味のいい音。
その音の、底抜けの明るさが、ますますいたたまれない。
「……おめえ」
「……僕にも何もできません」
「だよな」
「はい」
「おまたせっ」
湖葉さんがもどってきた。
お盆がわりの木の板の上に、素焼きの大皿。
その上にたっぷり盛られているのは、どうやら野菜の炒め物だ。
炒め物、給地では初遭遇だ。
「贅沢ですねえ」
大皿で料理が出てくると、やっぱりうれしい。
思わず気まずさがふっとんで、にやにやしてしまう。
「その辺で採れる葉っぱを、味噌と油とで火にかけただけさ。団子も今ゆがいてるから、少し待っててね」
さて、そんなわけで、手をあわせてください。
「いただきます」
木匙で野菜をすくい、口に放り込む。
「ああ、油えらい……」
油がしっかり回った、味噌味の炒め物。
うまくないはずがない。
じゃきじゃきっとした食感も、普段の給地の食事では得られないものだ。
「そうでしょう? だってのに、ここじゃあ誰も食べないからさっ。あたしが間違ってるんじゃないかって不安だったんだよ。
でも、白神様のお墨付きってんなら安心だね」
「これ、うん、おいしいですよ。この火加減、最高です」
皿の底にたまっている、味噌と油と野菜の水分がにじみ出た汁のことも、見逃さない。
「ここにこう、団子をひたして……うわーもう、油えらいなあ」
「足高さん、どうだい? さっきのもんよりは、いくらかましだろ?」
「お、あ、お、おうっ」
よしよし、今度は間違えなかった。
がんばれ足高さん。
「こういうのを食べさせてるっていうのに、捧芽の体は、ぜんぜん大きくならなくてさ」
団子をもちもちと食べながら、湖葉さんは、部屋のすみに目をやる。
「白神様、どうしてなんだろうねえ? 白神様なら分かるかい?」
「僕は料理人ですから。申し訳ないですけど、お役に立てるとは思えません」
人命が関わっているし、うかつなことは言えない。
「なんていうかね、体っから、汁が出てきてね」
「捧芽君がですか?」
「そうなんだよ。そこからかぶれちまってね。掻いちゃうから、ますます悪くなっちまうのさ」
体から汁が出るのって、命に別状があるタイプの病気の、おまけに末期なんじゃないだろうか。
「それって、いつからですか?」
「うーん、いつからって言われても、ずっとのことだからねえ」
それが、ずっと。
……これは、心当たりがあるな。
「ちょっと失礼しますね」
起こさないよう、そっと、捧芽君に近づいて、かけ布団をはぐ。
かなりひどい有様だった。
皮膚のあちこち、かきむしったような痕がついていて。
おまけに、化膿している部分もある。
こんな状態が、ずっと続いているというのか。
むしろ、感染症で亡くなっていないことが、奇跡だろう。
そっと布団をかけ直し、じっと考え込んでいると。
「うひゃっ」
いきなり足高さんが、小さな悲鳴をあげた。
「ちょ、おめ、おめえ、ちょっとおめえ」
わけのわからないことを言いながら、家を飛び出していく。
「足高さん、どうしちゃったんだい」
呆れ顔の湖葉さん。
まあ、間が悪いというのは、たしかだろう。
「やっぱりかな」
「え? ああ、ちょっと、紺屋さんまでどうしたってのさ」
「すみません、足高さんを連れて、すぐ戻ります」
外に出て、足高さんの姿を探し、しばらくうろつき回ると。
足高さんは、大樹にもたれかかり、両手足を投げ出して、放心状態になっていた。
「お、おめえ……康太おめえ……おれ、おれぁ、し、しでかしちまったぁ……」
そよ風ぐらいの音量でつぶやく足高さん。
なにをしでかしちまったのかといえば、閲覧注意な不始末を。
「も、も、もらしちまったぁ……おめえ、い、いきなりおめえ、洪水みてえにおめえ……ああ、死んじまいてぇ……」
涙を誘うような告白をした足高さんは、だまって、死んだような目にみがきをかけ始めた。
「足高さん、大丈夫ですよ。すぐに僕も後を追います」
「は、はああっ?」
にっこりほほえみかけると、足高さんは、化け物をみる時みたいな目をした。
「いや、どうかな……わりと平気な方だったし。とにかく、場合によっては後を追いまうへぇ」
「ど、どうしたおめえ! 康太おめえどうしたおめえ!」
「……後を追いました」
ああ、僕にも来てしまいました。
具体的な描写はちょっと、割愛させていただきますけど。
とりあえず、今日が満月でよかった。
川で洗えるぐらいの明るさがあるからね。
「すみません、いま戻りました」
「おかえりっ……って?」
足高さんともども、下穿きがなぜかびっちゃびちゃ。
このスラックスともお別れかなあ。
こんな形で終わりをむかえるとは思わなかったなあ。
「湖葉さん、ちょっと、お話があるんですけど」
「うん、どうしたのさ」
警戒心もあらわに、近寄ってくる僕に対して身構える湖葉さん。
「すみません。すごく言いづらいことなので、ちょっと、耳をかしてもらえませんか?」
「えっ、うひゃっ!」
「ぐぇあ」
顔を近づけたら突き飛ばされ、僕の体は床を転がった。
「あああ、ご、ごめんなさいねっ! だいじょうぶかい?」
「す、すみません。ちょっと配慮にかけてました」
けっこう全力で突き飛ばされた。
ひっくり返ったまま、謝る。
「そ、その、あたしったら、男の人のことを知らないからさっ! ついつい怖くなっちゃって……ごめんね」
「いえ、それはいいんですけど」
これは絶対に、伝えなければならない。
だけど、大声で言えるようなことではない。
どうすればいいんだ、僕。
「康太よ、おめえ、あのことを言うつもりなんだろおめえ?」
僕を助け起こしながら、耳打ちしてくる足高さん。
「そうなんですけど……やっぱり、言えないですよね」
足高さんは一つうなずき、がばーっと立ち上がった。
手を放された僕の体は、床に全力でたたきつけられた。
息ができない。
「おう、湖葉おめえ、聞きてえことがある」
まさか、足高さん……
やめろ、やめるんだ。
それ以上は、だめだ。
「う、うん、なんだい?」
さっきからのごちゃごちゃで、だいぶ疑わしげになっている湖葉さん。
おもいっきり構えてる。
「湖葉おめえ、おめえよお」
だめだ、だったらせめて、僕が言う。
足高さんはそれを言っちゃあだめだ……!
だというのに、全力で床に叩きつけられたせいで、体が言うことをきかない。
「ケツからおめえ、油が垂れたことがあんじゃねえかおめえ」
や、やってくれた……!
足高さんが、やってくれた。
湖葉さんは、まず、目をまんまるくした。
次に、口をはんびらきにした。
はんびらきにしてから、ゆっくり、全びらきにした。
そして、たぶん、人生で最大級の、
「はあああああ?」
純然たる疑問符をはきだした。
「んなっ、なっ、あ、あし、はああ? なにっ、急になにっ……」
口を何度も何度もぱくぱくさせた湖葉さんは、
「ふ、ふぇええええ……」
オーバーフローしたのか、泣きはじめてしまった。
「足高さん、なんでこんな、こんなことを」
「これでいいんだろおめえ。伝えなくちゃいけねえことだったんだろうがおめえ」
「それは、そうですけど」
だからって、足高さんが泥をかぶる必要はなかった。
どうして僕は、いつもぐずぐずと……いや、反省はいい。今はなんとか、湖葉さんに理解してもらわないと。
「湖葉さん、問題は、ケヤキ油だったんです」
痛む体に鞭うって、どうにか立ち上がる。
「ひっく、ひっく……け、けやき……?」
「はい。すみません、いま説明しますので、そのままで聞いていてください」
ケヤキ油について、以前、人体に消化できないワックスである、との仮説を立てたけれど。
とはいえその後、仮説を検証したわけではない。
今回、あまりにも当たり前に食材として登場したので、そういうものかと思って、ぱくぱく食べてしまった。
ではみなさん、各自、頭の中で、人体を一本の管だと考えて、そこに油を流し込んでみてください。
すると、どうなるか。
まあ、こうなるのである。
一部の深海魚なんかでも、同じ現象が起こる。
詳しくは『バラムツ』とか『アブラソコムツ』みたいなキーワードで、各自検索してください。
あんまりにも尾籠すぎますので、とても詳述できません。
冗談ですめばいいけれど、ときどき、笑ってはいられないような現象が起こる。
それが、皮脂漏症だ。
嘘いつわりなく、体から油が染み出してくる。
それだけで死に至るようなことには、まずならないはずだけど。
油分というのは、ただでさえ雑菌の温床となる。
捧芽君のように、無意識なかきむしりから傷口に雑菌が入れば、どうなるか。
踏鞴家給地の公衆衛生レベルでは、ほぼ間違いなく、命を落とす。
「……あたしの、せいだったって?」
僕の話を聞き終えた湖葉さんは、やっとのこと、呆然と、うめいた。
「湖葉さんには、症状が出ないんですね」
「あたしは……うん。あたしには、なんにも起きちゃいないよ。お父ちゃんだって……」
「体の大きさかもしれません。許容量が、それで変わってきますから」
「で、でも、おばあちゃんだって、そんなに大きくはなかったってのに」
腸内の共生微生物によってセルロースを分解できる、リーフイーターという種類の猿がいるけれど。
それと同じで、エルフの体内にも、ワックスを分解できる共生微生物がいるのかもしれない。
湖葉さんは、エルフのおばあちゃんから、共生微生物を引き継いだ。
捧芽君は、そうじゃなかった。
そういう仮説は立てられるけど、誰かで実験するわけにもいかないしな。
「とにかく、今できるのは、料理にケヤキ油を使わないことです。それでいくらか、捧芽君の状態はましになるでしょう。
下痢による栄養失調も起きているはずです。消化にいい五分がゆなんかを食べさせてあげてください」
「ああ、う、うん、そうかい……そうだね、そうするよ。ありがとうね、紺屋さん」
自分の料理で、他ならぬ弟さんを、傷つけてしまっていた。
それがどれほど、つらいことか。
うなだれる湖葉さんを前にして、僕は、なにも言えなかった。
「おめえのせいじゃねえ」
足高さんの声が、静まりかえった家の中、やけにひびいて。
僕も、湖葉さんも、はっと顔をあげた。
「湖葉、おめえのせいじゃねえ。気に病むな」
「だ、だけどっ……あたしがこんなものを作らなきゃあ、捧芽は!」
「そうじゃねえ。そうじゃねえぞおめえ。
おめえは、捧芽によくしようとした。それだけのことじゃねえか。それにおめえ、捧芽は死んだわけじゃねえ。まだ間に合う、まだどうとでもなるじゃねえかよ。だから、おめえのせいじゃねえ」
「でも、だからって、今までのことが許されるわけじゃっ」
「許すってんだよおめえ!」
足高さんは声を張り上げると、いきなり、湖葉さんのことを抱きしめた。
「あ、足高、さん……」
湖葉さんの体が、こわばる。
足高さんは、あやすように、湖葉さんの背中を、ぽんぽんとたたいた。
「おれが許す。大丈夫だ、湖葉。おめえのことは、おれが許したから。
おめえだってそうしてくれたろう。堅葉の旦那を殺しちまったおれのことを、おめえは、許してくれただろ。
なあ、捧芽はおめえ、まだ死んじゃいねえんだぞおめえ。康太が、助けてくれたんだ。あの時とちがって、だあれも、だれのことも、殺しちゃいねえんだ。
だからおめえは、許されろ。おれが許すから、許されろ」
足高さんは、すごく優しい。
自分のために、勇気を出せなくても。
誰かのために、いつもこうして、まっさきに飛び出してくれる。
湖葉さんの体から、力が抜けて。
足高さんに、体重をあずけて。
「あはは……ほんと、お父ちゃんにそっくりだ」
湖葉さんは、泣きながら笑った。
「おれぁ堅葉の旦那みてえにはおめえ、死ぬまでなれねえ。でっ、でもよっ、おめえ、でもよっ、おめえ、す、す、すいっ、好いた女のことは、おめえ、だ、大事にしてやりてえって、思ってんだ」
とうとう、足高さんが、本音を口にした。
がんばれ、足高さん。
あと一言だ。
「……足高さん」
あと一言だというのに、湖葉さんは、ついっと身を引いて。
「あたしね。幅木さんとこに、かつがれるんだよ」
あまりにも残酷な事実を、足高さんに突きつけた。
時間が止まったような沈黙が、あたりを包み込んで。
静けさに耳鳴りがし始めたころになって、足高さんが、口をひらく。
「あ、ああ。そうか。そりゃおめえ……よかったじゃねえかよおめえ。葛乃……妹さんと、おんなじところか」
心中はどうあれ、ごく冷静な、お祝いの言葉。
「うん。悪い人じゃあ、ないんだよ。優しい人さ。葛乃もあたしも、捧芽のことも、大事にしてくれるっていうんだよ。幅木さんのとこにかつがれたんなら、捧芽のこと、悪く言う人も少ないだろうし、さ」
言い訳がましくい言葉をならべる湖葉さんの声は、少しも透らない。
口に出すそばから床に落っこちて、もがいたり、這いずったりしているような音だった。
「そうだな。幅木の旦那ならおめえ、そりゃあおめえ……なあ、よかったなあ、湖葉。そりゃあ、いいことだ。幅木の旦那は、優しいお人だからなあ」
「優しい人なんだよ。油のことがなくったって、捧芽の体が悪いこと、変わらないしさ。二人で面倒を見られたら、楽になるしさ」
「ああ、ああ。わかってる。大事にしてもらえよ。幅木の旦那に、たくさん、大事にしてもらえよ」
ふたりとも、目を合わせることなく、言葉を交わして。
「じゃあね、足高さん。その……今日、たのしかった。ごめんね」
「ああ。じゃあな」
ぼそぼそと、別れの挨拶をした。




