実況見分と行動開始
料理にとりかかる前に、やっておくことがある。
実況見分だ。
うさ耳騎士がすわっていた席に、すわってみる。
陶製のコップと、腐乳の小鉢。
「ふーむ」
なるほどなるほど。
なんとなく見えてきたぞ。
「……康太さん?」
「ハインリヒの法則ってやつだね」
「はいん……りひ……?」
一つの重大事故の裏には、二九の微小事故がある、という考え方のことだ。
うさ耳騎士の激昂というアクシデントの裏にあったインシデントを、まず理解しなければならない。
ごはんをおいしいと思うには、よき環境が必要だ。
「まず、うさ耳騎士は三か月の長旅でつかれていた。ろくな食事もとれていなかったし、怒りっぽくなっていたんだろうね」
「……?」
榛美さんは口をはんびらきにしている。
「つぎに、脚絆をはめた格好で、地べたに座らされた。あれすごくごてごてしていたし、いたかったんじゃないかな」
「あ、ああ……! そうです、あのお方は、椅子をお求めでした! ないといったら、あきらめてくれましたけど」
「そうだろうね。そして、これ。このコップだ」
つかむと、なんかべたべたしている。
「ああ、それ……お酒を注ぐと、どうしてもこぼれちゃって」
「ぬぐおうね」
「あう……はい」
今までそれを気にする人がいなかったんだろう。
これから気を付ければいいだけの話だ。
「そして、最後にこれ。腐乳だ。ここにきて、ついにうさ耳の人はひとこと言わなければ気が済まなくなった。
そこに榛美さんがさっそうとあらわれて、ますます気持ちを逆撫でしてきた。というわけだ」
そういうと、榛美さんは死んだような目になった。
「だから、うさ耳の人に、この村全体をばかにするような気持ちはなかったんだと思うよ。色々な要因がかさなって、がまんできなくなったんだ。
説明して納得してくれたのは、なにも僕がうまくやったからじゃない。もともと、あの人が誰かれかまわず怒鳴り散らすような性格じゃないからだよ」
「あう……そんなひとを、怒らせちゃったんですね」
「でも、一つだけいい事実があるよ」
べたべたのコップをつかんでもちあげ、口のほうを榛美さんに向ける。
「あ……!」
とたんに、榛美さんは笑顔になった。
「どうやら、ここのお酒は気に入ってくれたみたいだね」
コップの中は、からっぽになっていた。
「さあ、いよいよ、うさ耳の人をだまらせる準備にとりかかろうか」
「はい!」
「ふーむ」
おおきなことを言ってはみたが。
「食材は、村の人がもちこんでくれるんです」
「なるほどね」
つまり、食材はほとんどないということだ。
米と黒豆ぐらい。
唯一、台所の軒先に干しキノコがぶらさがっていたけれど、さすがに論外だ。
異世界の見知らぬキノコをたべるなんて、オートマチック拳銃でロシアンルーレットをやるようなもの。
味見の最中に死にたくはない。
「高野豆腐なんてある?」
「こうや……どうふ……?」
「えーと、凍らせて乾燥させた豆腐なんだけど」
「ごめんなさい」
「あ、いやいや、あやまらないで。ないものはない。あるものはある」
ないのか。
『乾燥させる』というのはわりとメジャーな保存方法だとおもうけど。
まあ、あれだけ大きな原生林があるのだから、このあたりは多雨地域なのだろう。
冬でも雨が多くて、干している間にカビてしまうのかもしれない。
厨房の隅においてある甕には、調味料が入っている。
味噌、酢、塩といったところ。
ざんねんながら、醤油はない。
踏鞴家給地では小麦を栽培していないようだし、醤油の発酵過程はけっこうめんどくさい。
ないものはないし、あるものはある。
醤油は味噌のうわずみで代用できるだろう。
ただし、味噌のうわずみは加熱するとなんかとんでもない臭いになるから、かけだれぐらいにしか使えない。
ひときわ大きい甕をあけてみる。
アルコールの香りがふんわりたちのぼってきた。
白く濁った液体で満ちている。
「……お酒だ!」
ついに出会いました、異世界のお酒。
香りは、なんとなく甘いような。
スイカみたいなにおい。
でも、アルコールのにおいが勝っている。
見た目はどぶろくとかマッコリとかに似ている。
カルピスの原液にも。
「あ、味見をしても……?」
「もちろんです」
声がふるえるのを、おさえきれない。
いままで色んなお酒をのんできた。
醸造酒、蒸留酒。
ワイン、日本酒、黄酒、ビール、白酒、焼酎、泡盛、ウイスキー、スピリッツもろもろ。
赤酒や灰持酒、ミード、馬乳酒、どっかの氏族社会で呑まれている、穀物で作ったお酒(を再現したもの)。
ネパールのトオンと呼ばれるどぶろくや、それを蒸留したロキシー……ああもう、ちょっと語り尽くせない。
だけど、これから呑むお酒は、そのどれでもないのだ。
ひしゃくですくって、コップに移す。
溶け残った米の粒が浮かんでいる。
もう完全にどぶろくだ。
口をつけて、一口、すすりこむ。
「……すっぱ!」
ぎょっとした。
酸っぱい。
そのカルピスっぽい見た目とはうらはらだ。
冷静になって、もう一口。
まず、甕の気化熱だろう、花冷えに冷えている。
香りは全くといっていいほどない。
甘味は、ある。
酸味に相殺されて、絶妙にあまずっぱい。
はちみつ漬けにしたレモンのようだ。
舌の上にずしっとするこの味は、しかし、おもたい日本酒みたい。
のどを通り抜けるとき、ほんの一瞬だけ、吟醸香の生き残りみたいなものがのぼってきた。
口の中であたためられ、香りが開いたのだろう。
酢酸発酵してお酢になったというわけではないな、これは。
あのむせるような酢の匂いがしない。
かといって、乳酸発酵の、ヨーグルトっぽくて口の中がねばつく酸味でもない。
いや、お米を醸しているわけだし、当然、乳酸発酵の感じもあるんだけど、とにかく、レモンっぽい酸味がすごいのだ。
なんだこれ。
とにかく、今まで呑んだことのないお酒だった。
「これ、どうやってつくってるの?」
「かびをつけたお米と蒸したお米をあわせて、どろどろになったところにお酒の澱を足しているんですけど……あの、なにかおかしいですか?」
「ううん、おかしくないよ」
どぶろくの作り方そのものだ。
かびをつけたお米、つまり麹の力で、蒸し米のでんぷんを糖分に変える。
この作用を糖化と呼ぶ。
糖化したら、前に仕込んだお酒の澱(溶け残ったお米)を足す。
すると、澱の中にいる酵母が糖分を食べてアルコールをつくる。
じゃあ、この酸味はなにものだ。
おまえはどこから来たというのだ。
「レモン汁とか加えてないよね?」
「れもん……?」
「ああ、ええと、酸味を足したりしてない?」
「一応、お米だけなんですけど……やっぱり、なにか変なんですか?」
心当たりが、一つある。
「これって冬に仕込んだもの?」
「いえ、つい二十日ほど前です。のみごろですよ」
「はー……なるほど」
なぞが解けた。
たぶん、白麹だ。
というか、白麹みたいな性質をもつかびを、お酒作りに利用しているのだ。
白麹は焼酎作りにつかわれていて、その特徴は、お米を糖化するときクエン酸を生成することだ。
クエン酸は、そのすっぱさで他の雑菌が繁殖することを食い止めてくれる。
つまり、腐りにくくなる。
九州では、昔から、雑菌が増えやすい夏の暑いときでも焼酎をつくっている。
それも、白麹の生成するクエン酸があってこそできることだ。
ああ、焼酎のみたい。
いやいや、ゆめをみている場合じゃなくて。
「なるほどなるほど……そっか。腐乳の酸味も、白麹を使っているから……」
「あの、どうでしょうか。なにか、おもいつきましたか?」
「もうちょっとかかるかな」
厨房内をうろうろして、甕や鍋をかたっぱしからあけていく。
「うわ」
土鍋をあけて、おもわずとびのいた。
すさまじい紫色の液体がなみなみとはいっていたからだ。
魔女が高笑いしながらかきまぜる鍋の中身みたい。
「ああ、黒豆か……」
冷静にみると、鍋の底にぷっくりふくれた豆がいる。
黒豆の皮の色素、アントシアニンは水に溶けるのだ。
にしても紫色すぎる。
皮にふくまれる色素が多いのだろうか。
「きょうのごはんにしようと思って戻しておいたんです」
「ふうむ……」
酸味の強いお酒。
それによくあう、あて。
前提条件はそろった。
あとは、考えるだけだ。
考えに考えぬいて、ひとつの結論に達した。
「……よし。榛美さん、ちょっと散歩しよう」
「ふぇ?」
というわけで、僕たちは棚田の脇のあぜ道をあるいている。
「風が気持ちいいねえ」
「あ、あの、康太さん、あの……」
「この棚田で黒豆もそだてているの?」
「ああ、はい、お米の収穫が終わったら水を抜いて……あの」
「あれ、やっぱりチシマザサかなあ」
ため池の向こうで、笹が風をうけてしゃりしゃりと鳴っている。
なんとなくこの世界のことは分かってきた。
基本的に、地球とそんなに変わらない。
コウジカビがクエン酸をやたらつくったり、黒豆の色素がやたら濃かったり、微妙な違いは多々あるけれど。
だとしたら、ここにあれもあるはずだ。
「うわああ康太さん!?」
なんで榛美さんが悲鳴をあげたかというと、僕が笹のおいしげる中にまっすぐつっこんでいったからだ。
はたからは、いきなり藪に体当たりをしかけたみたいに見えたことだろう。
笹はぎゅうぎゅうに密集していて、おしのけるたびバネのように戻ってきて身体をびしびし叩いた。
なるべくへし折らないよう、気合いと根性ではいつくばる。
腐植土を手で払うと、あっさりみつかりました。
ひょろっとほそながいたけのこの、先端。
皮は紫色と萌黄色。
どんぴしゃりでたべごろだ。
手で土をかきだして、露出したたけのこをへしおり、数本いただく。
食べる分だけ採るのが鉄則だ。
「……康太、さん?」
エプロンの前ポケットからたけのこがにょきにょき突き出して。
手とスラックスの膝は土まみれ。
そんな僕を見た榛美さんは、僕がサイコパスなのではないかという疑念に、ほぼ確信をいだいたみたいな顔をしていた。
たけのこの皮をむいて、根っこに近い部分をひとかじりしてみる。
ごりっとした食感、たけのこを弱くしたような香り、そしてゆがいたとうもころしに似た甘味。
生のたけのこ特有のえぐみは、まったく感じられない。
「うん、やっぱりネマガリタケだ」
「康太さん……」
榛美さんさっきからそれしか言ってない。
「散歩はおわり。それじゃ、もどろうか」
うーん、榛美さんのねぶかい疑惑の目がおもしろい。
「ああそうだ、食卓には緑がなきゃね」
ぶちぶちと葛の葉をむしって、エプロンの前ポケットにつっこむ。
もう榛美さんはなにも言ってくれなかった。
「この村だと、葛はほったらかしなの?」
「まさか! 村が滅びます!」
すごい過剰反応だ。
葛の繁殖力はすさまじく、アメリカでは侵略的外来種に指定されている、なんてのはおなじみの豆知識。
田んぼにもばんばん侵入して、稲や豆の苗を絞め殺してしまうのだろう。
「葛は、総出で刈り取って、糸にするんです」
「ああ、なるほど。それじゃあ、その服も?」
「はい。あ、や、やっぱり……変ですよね。よそじゃ、木綿や絹なんかが当たり前だっていいますし……」
「そうかなあ。蛾のさなぎを煮殺して糸をつむぐのも、けっこう変だと思うけど」
みんな当たり前のようにシルク製品を所有しているけど(僕も銀行に行くときはウールシルク混紡のスーツぐらい着ていく……ああ、『着ていった』か)、さいしょに養蚕を思いついた人間はちょっと頭がどうかしていると思う。
あんなまるっこいまゆを見つめていて、
『そうだ、これを煮てちょっと端っこを引っぱったら、なんかが色々なんとかなって、最終的には地中海から太平洋までつながる交易路がひらけるぞ』
なんてふつうは思わないだろう。
「おかしいって、おもわない、ですか?」
「たいていのことは、よく考えるとおかしいものだよ。絹を織るのも、葛糸を織るのも、おなじぐらいへんてこな話だ。
よくそんなことを思いつくなあと感心はするけれど、おかしいとは思わない」
榛美さんは、言葉をゆっくりと吟味するように間を置いた。
おそるおそる、柱の陰から顔を出す人見知りの子どもみたく、榛美さんの表情に、笑顔がそっとあらわれた。
「あの、康太さん」
「はい」
「ありがとうございます」
榛美さんの笑顔があまりにもふにゃふにゃしていたので、おもわず苦笑してしまった。
「お礼をいわれることかなあ」
「へんですか?」
「そうだね。蛾のさなぎを煮て糸を取り出すぐらいにはね」
それで僕たちはいっしょにわらった。
食材の問題は解決した。
次は環境づくりだ。
「あのさ、椅子とか机とかってどこかにないの?」
「うーん……領主館にはあると思うんですけど……」
「領主様にたのんで、借りるってわけにはいかない?」
「踏鞴月句様は、なんていうか……きむずかしい方で」
榛美さんはことばをにごした。
そういえば、うさ耳騎士は、『領主の人間性に絶望した』といっていた。
どんなひとなんだろう。
山間の谷で棚田を整備して、住民を飢えさせていないんだから(なにしろ居酒屋があるぐらいだし)、悪政を敷いてるってわけではないんだろうけど。
まあ、深い話に立ち入るほどぶしつけなつもりはない。
解決する力もないし。
「ああ、でも、“鉄じいさん”のところにいけばあるかもしれません!」
誰だ。
「あ、鉄じいさんっていうのは、沼のほとりにすんでいるおじいさんのことなんです。なまえはだれも知らないんですけど、鉄じいさんを名乗ってるんです」
与えられたわずかな情報からは、へんくつでへそまがりな老人しか像をむすばない。
沼のほとりに住んでいて、自分で『鉄じいさん』をなのる老人が、実直でわけへだてないはずがない。
「へんくつでへそ曲がりな方ですけれど、いろいろなものを作っているんですよ」
まちがってなかった。
「いろいろなもの?」
「はい。沼からとれた鉄で」
沼鉄鉱があるのか。
井戸水からは鉄っぽさを感じなかったけど、どういう原理で沼鉄鉱が生じてるんだろう。
鉄バクテリアがうようよいて、かたっぱしから水中の鉄分を沈殿させてるとか?
「とにかく、行ってみようか」
「はい!」