松葉とベンガラ
雨期の、ぼんやりとうすぐもりの朝。
沼のほとりに、呆れかえる鉄じいさんと、僕がいる。
なんで鉄じいさんが呆れかえっているのかといえば、一目瞭然。
僕が、松葉でぱんぱんになった葛袋をかかえているからだ。
「なンだてめェ。なにしにきやがッた」
警戒心もあらわに、鉄じいさん。
「こないだ取ってきたんです」
「いや、松のことは見りゃァ分かるがよ。
そンなもン、どォするッてンだ?」
「精油を取ろうかと思って。それと、少し炭をわけてもらえませんか?」
鉄じいさんは、あごひげをしごき、ためいきをついた。
「讃歌のガキが言ィやがる、『ダメな時の顔』ッてェのはこれか。
いィ、いィ、かまわねェ。好きにしやがれ」
「あ、しまった、ケヤキ油忘れてきちゃったな……」
「好きにしろッてンだろォが。なンでも勝手に使いやがれ」
「ありがとうございます。ケヤキ油、ちょっとお借りしますね」
料理に使わないということで、これまでノータッチだった、ケヤキ油。
実は、へんてこな特性を持っている。
ほうろう引きのつぼをあけると、その中には、黄色みがかった、クリームっぽいなにか。
そう、ケヤキ油は、常温で固形化する、つまり脂なのだ。
料理につかわないというから、何か怪しげな成分でも含んでいるのかとおもって、以前パッチテストをしてみたことがある。
頬とくちびる、または下唇のすぐ下あたりに塗ってみたり、ちょっと食べてみたり。
結果としてはなんの問題もなし。
べつだんヤニっぽさも感じない。
人体には消化できない、いわゆるワックスなのだとおもわれる。
というのが、いろいろ試してえられた結論。
大量に食べなければ問題ないとはいえ、今回の目的にはちょっと不安。
まずは濾過からはじめよう。
砕いた木炭を風選し、目の細かい葛布でつつむ。
ケヤキ油をあたためて、液体化したら、葛布でこす。
手順は以上だ。
木炭にはすごく細かい穴がたくさんあり、ここに不純物がひっかかってくれる。
「鉄じいさん、少しだけ酸化鉄分けてくれませんか?」
「あァ、勝手に使いやがれ」
溶けたケヤキ油に、ベンガラの粉を、ほんのちょっとだけ入れる。
ものすごくほんのちょっとだけね。
空気が入らないよう、丹念にかきまぜて、ベンガラをすみずみまで行き渡らせる。
ここに、これも濾過したなたね油を注いで、できあがりの硬さを調整する。
ひとまず、できあがり。
「……食いもンじゃァねェよな?」
かたまりはじめた油に、うさんくさげな目線を向けながら、鉄じいさん。
「そうですね。今回は食べ物じゃありません」
「ふゥむ……なるほどな、頬紅か」
「わかります?」
はやくも正解発表、いま作ったのは、頬紅だ。
「あァ、そういうことか」
「そういうことです」
手の甲にはたいて、色味をたしかめる。
うん、いい具合で、うすもも色。
クリームチークのできあがり。
「頬紅だけか?」
「ああ……そっか、たしかにそうですね。ありがとうございます」
鉄じいさんからアドバイスをいただいた。
なるほど、チークだけだとバランスがとれないかもしれない。
というわけで、ささっと口紅もつくろう。
なんのことはない、とかしたケヤキ油に、ベンガラをまぜるだけ。
チークより固くていいので、なたね油は足さない。
ベンガラの量を調整して、チークよりわずか濃い桃色にしたてる。
さて、次にいこうか。
「蒸留器、お借りしますね」
「おゥ。手伝うぜ」
「助かります」
鍋にたっぷりの水をはり、その上に、笹編みのざるをのせる。
ざるの上に、松葉をたっぷり積み上げたら、蒸留器をかぶせる。
あとは、とろ火でじっくり加熱だ。
これは植物から精油を得るための一般的な方法、水蒸気蒸留。
今回は、松から精油を抽出する。
「松やにじゃァねェのか?」
火打ち石をかんかんやりながら、鉄じいさん。
松やにを蒸留して得られるテレピン油は、古式ゆかしい溶剤だ。
あれば色々はかどるだろうけれど、今回の目的にはそぐわない。
においがえげつない上、肌への刺激もつよいからね。
「今日とりたいのは、葉の精油なんです。僕の世界では、パインニードルオイルなんて呼ばれてました」
「ふゥむ。それも頬紅みてェに使うッてェのか?」
「そんなところです」
蒸留は、最初の一滴が落ちてくるまで、とにかくひまだ。
自然、鉄じいさんとふたり、だまって蒸留器をみつめることになる。
「精油なァ」
「精油です」
「なんでまた」
「榛美さんに喜んでもらいたいから。それだけです」
前日までの雨をたっぷり抱え込んだ森は、水と木のにおい。
なんとなく空を見上げれば、ぼんやりとしたうすぐもり。
鉄じいさんの視線を、横顔に感じる。
鉄色の瞳が、物問いたげに、こっちを見ている。
「鉄じいさん、どうでもいい話していいですか?」
「あァ」
「そのー……なんていうか。髪をなでようとしたら、いやがられることがあって。
ああ、ええと、榛美さんのことじゃないんですけど」
「昔の女か」
「はい。そうなんです。どうしてだろうって、ずっと不思議だったし、ちょっと悲しい気持ちになりました。
でも、その子と別れてずっと後、どうでもいいきっかけで、ふっと気づいたんです。
そういえば、寝起きだとか、丸一日あそんだあとだとか、嫌がるのってそういう時だったなって」
「それで?」
「たぶん、なんですけど。
その子は、自分の髪が、もしかしたらべたべたしてるんじゃないかって、こわかったんだと思います。僕にがっかりされるのが、いやだったんだと思うんです」
鉄じいさんはまゆをひそめた。
「ドワーフにゃァわからねェ考えだ」
「僕にもわからない考え方ですよ。その程度のことで、嫌いになんかなるわけないのに。でも問題はそこじゃないんです。
ちょっと悲しい気持ちになるだけで、僕は、その先のことを想像できませんでした。単に気まぐれを起こしたのか、それとも僕のことがそんなに好きじゃないのか。そんな風にしか、考えられなかったんです」
いまでも、思い出すたびに、情けなくて申し訳ない気分になる。
「たった一言、『どうして?』の一言で、あとあと、笑い話になったかもしれません。だけど僕にはそれができなかったんです」
鉄じいさんは、座りなおしてあごひげをしごき、ちいさくうなった。
「後悔ッてなァ、しようと思えばいくらでもできちまう。それがあろォがなかろォが結果は何も変わらなかッたって、頭じゃァ分かッてンだがなァ……
生きれば生きただけ、後悔ばっかり降り積もッて、根雪みてェにいつまで経ッても溶け残るもンさ」
百年分の孤独におしつぶされそうな表情で、鉄じいさんはためいきをつく。
惨劇の記憶をかかえこみながら、たったひとりでここに生きるということが、どれほどのことか。
想像すらできないけれど。
だけど、気になることがあった。
「今もここにいるのは、本当に、罪ほろぼしのためなんですか?」
「……あァ、そォさ。手前ェをいじめて、なにかした気になってる、それだけのことさ」
「でも、悠太君に言ってましたよね。『ここには全てがある』って。それに、ここのことを話す鉄じいさんの顔は、なんていうか……やさしいものでした」
「へッ。青二才が言いやがるもンだな」
鉄じいさんは、頭をばりばりかいて、しばらくのあいだ、考え込むように言葉を切った。
「長く生きてりゃァ、心変わりの一つや二つあるもンさ。そン時ゃ死ぬかと思ッたような傷だって、いつの間にやらふさがッちまう。
俺ァな、手前ェがもう一度、領主館に足を向けられるなンざ、思ッてもみなかった。でもな、榛美が、てめェを追いかけて走り出した時――なんのこともねェ、気づいたら孫を抱えて、息子を睨ンでる手前ェに気付いたンだ。
そりゃァ、なンの罪滅ぼしでもありえねェ。けどな、てめェらに、俺がしでかしちまッたことを、俺の恥を、知られてもかまわねェと思えるぐらいにゃァ、気が楽になッた。
手前勝手な話だけどな」
「おかげさまで、生きたまま皮をはがされずにすみましたよ。ありがとうございます」
「そりゃ何よりだ」
鉄じいさんと僕は、そろって苦笑した。
「そういう後悔は、仕方ないものだと思っていました。というより、ただ単に開き直っていたんだと思います。どの道、他人の気持ちなんか本当には理解できないから。
だけど……榛美さんって、すごくまっすぐですよね」
「隠しごとのできねェ性質だからなァ、あいつは」
「悠太君も、僕に怒ってくれた。松切り番さんだってそうです」
立ち上がって、カップをのぞきこむ。
最初のひとしずくが跳ねて、森の香りが咲く。
この世界にはじめて来たとき、深い森の中でかいだ香り。
今ではすっかり、僕のからだになじんだ香り。
「だから僕も、そうしようって決めたんです。別のかたちで、いろんな後悔を抱え込むことになるんだとしても。
少しだけ、シンプルに生きてみようかなって」
カップいっぱいに蒸留水がとれたら、土間でもう一仕事。
目のこまかい葛布で、蒸留水をこす。
こした布に残っている、琥珀色の液体が松葉の精油、パインニードルオイルだ。
先に流れた液体は、いわゆるフローラルウォーター。
パインニードルのフローラルウォーターは、咳止めに使えるよ。
さてさて、またもケヤキ油をあたため、溶けたらここに、パインニードルオイルを数滴たらす。
しっかりかきまぜて、ふたたび固まったら、練り香水のできあがり。
精油は放っておくとどんどん揮発するので、密閉性のたかい容器に入れよう。
「できたか」
土間から出ると、どぶろくの杯を傾けていた鉄じいさんが顔をあげた。
「はい。あ、これ、容器ありがとうございます」
鉄じいさんにほうろう引きの小瓶をいただいて、そこに練り香水をつめたのだ。
「あァ、かまわねェさ。俺にゃァ用のねェもンだからな」
「でも、すごくていねいな作りですね。どこかで買ってきたんですか?」
「俺が作ッた」
そっぽをむいた、ぶっきらぼうな物言い。
それで、ぴんときた。
「もしかして、思い出があるものなんですか?」
「てめェ、そういうところは気づくのかよ」
「客商売ですから」
鉄じいさんは苦笑して、鉄色の瞳をほそめた。
「カミさん……火稟のもンだ。火稟は、花だのなんだのから魔述で精油を集めて、香水を作るのが好きだッたからなァ。火稟のために、ほうろう引きの小瓶をいくつもこしらえたのさ。
なンにせよ、今となっちゃァ無用の長物だ。使ってもらった方が、火稟も喜ぶだろうよ」
そう言われて、手にした小瓶を、まじまじとながめてみる。
なんの細工もほどこされていない、そっけない外見。
首が細い瓶に、棒状の、さしこみ蓋。
それがぴったりとかみ合って、密閉性は抜群だ。
素焼きの土器をていねいに仕上げるというのは、神経をつかう、難しい作業だろう。
鉄じいさんがどれほど火稟さんを愛していたのか、それが伝わるような気がした。
鉄色の瞳にやどっているのは、少しのさみしさと、たくさんのあたたかさ。
「ありがとうございます」
「ちゃンと、声を聞けよ。俺にゃァできなかッたことだ、えらそォに言えるもンでもねェけどな」
「はい」
頭を下げて、鉄じいさんの家をあとにする。
盤根のはびこる坂道をくだって、榛美さんの家をめざす。
声を聞こう。
耳と心をそばだてて、音のない声を、ちゃんと、聞こう。




