ヘカトンケイルと、なんにもない村
引き戸がしまり、ドアチャイムの音がゆっくり消えてから、ようやく長いためいきをつけた。
「乗り切ったね。榛美さん、大丈夫?」
「だ、だいじょうぶです」
頷いた榛美さんだけど、力が抜けたのかへたりこんでいる。
「はい、つかまって」
「あう……ありがとうございます」
榛美さんは、僕の手に全面的にすがりついて、なんとか立ち上がった。
さて。
榛美さんがお金を受け取って、なにごともなく終わっていたらそれでよかったのだけど。
うさ耳騎士はまた来るというし、その時に同じ失敗を繰り返すのは、ちょっとばからしい。
たまらなくいやだけど、どうやらここは、責任を取る必要がありそうだ。
うさ耳騎士はこちらに目をつけたわけだし。
「榛美さん、どうしてだまっていたの?」
「え……?」
榛美さんは目をまんまるにしてこっちを見た。
まさか追及がはじまるなどとは思っていなかったのだろう。
「あ、いえ、その……」
目がおよいでる。
にぎりこぶしをてのひらで包んで、さすっている。
なんどもなんども、口をひらこうとしては諦め、うつむいてしまっている。
根気強く、待った。
榛美さんの目をしっかりみながら、口をひらいてくれるのを、だまって待った。
「あの……あう……あの、その、い、言う通りだな、って、おもって」
「なにかひどいことを言われたの?」
「はい……なにもない村だって……それで、その、これは一体、なんなんだって……」
ものすごく断片的だ。
「そっか。いきなりそれは、けっこうびっくりするね」
「ここはほんとうに、なんにもない村なんです。ちょっとした野菜と、お米と、豆があるぐらいで……
お塩だって、よその村に買いにいかなければならないんです。
そうおもったら、わたし、なにもいえなくて……」
気持ちは、分かる。
どこのだれだって、多かれ少なかれ、ふるさとにはなんともいえない気持ちをいだいている。
自分からはばかにするけれど、他人にばかにされるのはゆるせない。
というか、なんだかこっちまでうさ耳騎士にはらが立ってきた。
なにを出せるのかぐらい聞くべきだろう。
地元とこの農村では常識がちがうことぐらい、最初からわかっていていいはずだ。
だいたい異世界に来て一日もたっていない人間が、なんでぺこぺこしなければならないんだ。
とまあこんな風に、時間がたつと、人はたいてい正当化をはじめる。
それ自体はまっとうな心のはたらきだ。
色んなことにいつまでもくよくよしていたら、身がもたない。
だいじなのは、正当化しつつも反省することだ。
同じ失敗をして同じ面倒を抱え込んだりせず、かつ、心の安定を保つために。
口ではごめんなさい、心にいつもオアシスを。
オ 俺じゃない
ア あいつがやった
シ 知らない
ス 済んだこと
なにかミスをしてしまったら、心のなかでつぶやいてみよう。
ぐっと楽になる。
榛美さんには、その手助けが必要みたいだ。
「ちがうよ、榛美さん。僕が聞いているのは、どうして言い返さなかったのか、じゃない」
こういうのはほんとうに苦手だ。
料理を作りたいんであって、人を使ったりしたいのではない。
でも、やりたくないことを必要以上にかかえこみたくないから、自分で店を興したのだ。
本音をいえば、指示も報告も、『ロックンロール!』のひとことですませたい。
内田裕也みたいに。
「どうして、すぐにご説明さしあげられなかったのかを聞いているんだよ」
手持ちのいちばんきつい表情と声をひっぱりだすことに、なんとか成功した。
自分でもぶん殴りたくなるぐらい、はなもちならない。
榛美さんはぽかんとした。
なにを言われたのか、まったく認識できなかったみたいに。
数秒たってから、じわじわと理解が榛美さんの表情をはいあがってきた。
岩肌をのぼる登山家みたいに。
「あう……ごめんなさい……」
しぼりだすような、榛美さんのひとこと。
目には涙が浮かんでいる。
もちろん、これが答えようのない質問だってことは、分かって口にしている。
『どうして』もなにもない。
そんなもの最初から頭になかったにきまっている。
榛美さんを追いつめるために、たずねたのだ。
「ごはんを作ってお金をもらうというのは、なかなかたいへんなことだと思うよ。だって具材を切って火にかけるぐらいのことはだれにでもできるからね。
だとすれば、味も、環境も、相手が納得するだけのものを用意しなくちゃいけない。
それはたぶん、最低限のルールだ」
「…………はい」
人が恐縮している姿をみるのは、たのしいものではない。
その人を恐縮させているのが自分であるのならば、なおさらだ。
今日はほんとうに、人生最悪の日だ。
殺された上に異世界にとばされて、うさ耳騎士にしかられて、おまけに初対面のエルフを説教しなくちゃならないなんて。
「ところで、どうしてお金を受け取らなかったの?」
この質問に、榛美さんはどう答えるだろう。
『なんか気分わるかったから』
みたいなざっくりした返事だったら、うさ耳騎士の相手は一人でしよう。
領主館に滞在しているというから、そっちに出向いてもいい。
どこにあるのかしらないけど。
榛美さんはまたもずいぶん長いこと考え込んだあげく、
「……あの方のおっしゃる通り、わたしには志がありませんでした」
ぽつりぽつりと、言葉をつむぎはじめた。
「いつも来る人たちと同じものを、同じように出して、それで満足してもらえるものだと……ううん、そんな風にさえ思っていませんでした。
ただ、いつもやっていることを、何も考えずにしてしまっただけです」
棚田からみた感じ、踏鞴家給地の人口はせいぜい二百戸ほど。
カイフェはおそらく封建制を敷いているから、住民の移動が禁止されている可能性がある。
つまり、来るひとはみんな顔見知りだ。
ここで生まれそだった榛美さんに、
『お客さんをどう扱うか』
という考え方をやしなう余地はなかったということだ。
「お父さ……父がむかし、よく言っていました。
『食べてくれる人に向かい合え』
って。
口下手な人でしたから、それ以上のことは言いませんでしたし、わたしもよく理解しないまま、ここを継いでしまいました。
だけど、康太さんを見ていて、少しだけ父の言葉の意味が分かった気がします。
わたしは、あの人と、向かい合うべきでした。
ですから……お代をいただくわけにはいかないって、思ったんです」
それは、どうにもたどたどしい言葉だった。
実際のところ何度もつっかえていたし、噛んでいたし、最後はなんかもう半べそになっていた。
だけど僕は、榛美さんのことが一発で好きになってしまった。
食べてくれる人に向かい合う。
それは、どんな料理人だって、いつも考えていることだ。
きっと、そんな風に考えている人は、みんな料理人だ。
「よし、わかった。それじゃあ、一緒にうさ耳の人対策を立てよう」
「……ふえ?」
半べそのうるんだ瞳で、榛美さんが不思議そうに僕を見上げた。
いきなり明るい声を出したものだから、
『……急に怒ったり急に笑ったりしているけど、もしかしてこの人サイコパスなのかな?』
みたいな含みのある瞳だった。
「あの、康太さん、怒ってたんじゃ……」
「叱っただけだよ。そしてそれはもうおわり。次は、うさ耳の人をだまらせる算段をつけよう。
あんなふうに言われっぱなしじゃ、榛美さんも悔しいでしょ?」
「で、でも……そんなこと、できるんでしょうか? あの方は“ヘカトンケイル”からいらっしゃったとおっしゃいました。こんな、なんにもない村のもので、ご満足いただけるのでしょうか?」
「あのさ、ちょっと話の腰を折るけど、ヘカトンケイルってなに?」
「えっ」
榛美さんはことばをうしなった。
「しらないん、ですか?」
「知らないんだ」
「あの、康太さん、どこから来たんですか?」
「東林間」
「ひがし……りん、かん……?」
榛美さん、きょとんと口をはんびらき。
神奈川県民と東京都民に限定してみたって、『東林間』なんて駅は普段から小田急線を利用している人以外、わからないだろう。
小田急江ノ島線、東林間駅から徒歩五分、居酒屋『ほのか』、居酒屋『ほのか』を、どうぞよろしくお願いいたします。
「とにかく、すごく遠くから来たんだ。それで、この辺りのことにはうとくてさ」
「そうなんですね……ううん」
榛美さんはうなった。
三歳児に、『空が青いのなんで?』と聞かれたお母さんみたいな顔で。
まず、このカイフェという国は、大陸から突き出した半島にあるらしい。
で、その半島の付け根、踏鞴家給地からはからずっと西の方に、とても小さい国があるらしい。
そのとても小さい国の正式名称は知らないが、ヘカトンケイルという、大きな市場があるらしい。
「市場?」
「はい、その、市場があって、そこではこの世のものばかりか、異世界のものさえなんでも買えると聞きます」
なんだそれ。
もう神話じゃないか。
さて。
榛美さんから聞いたいろんな話を総合した結果。
・ヘカトンケイルの通貨はどこでも使えるけど、その理由は貴金属との兌換性があるからとかではなく、『ヘカトンケイルで使えるから』らしい。
この世界には、不換かつ基軸通貨があるのか。
これ結構すごいことなんじゃないだろうか。
ヘカトンケイルは事実上、世界経済を支配しているというわけだ。
・中つ国諸国(くわしいことは分からないが、西の方の宗教的に連帯した国家群っぽい)には属していないらしい。
これ多分、独自の、おまけにべらぼうな軍事力を持っているということだよな。
通貨の世界的流通を管理している小国なんて、ふつうは殲滅対象だろう。
・かといって魔王領(北の方にある、宗教的に連帯した以下略)に与するわけでもないらしい。
上に同じく、だ。
・世界中で商売をしているらしい。
それはそうだろう。
そうでなければ、世界中で通貨が信用されるわけないし。
さてさて。
半島の付け根にあるグローバルな貿易国家といえば、すぐさまヴェニスを思い浮かべるけれど、実際のところはどうなんだろう。
話があまりにも大きすぎて、どっかで誇張されているような気がする。
なにしろ榛美さんにとっての世界は、『この村』と『近所の村が二三個』なのだ。
「ごめんなさい……あんまり、やくにたちませんでしたね」
「そんなことないよ。ありがとう」
榛美さんはしゅんとしている。
「やっぱり、あの方を満足させるものなんて、この村では出せないですよね……」
ヘカトンケイルは、榛美さんにとって神話上の世界みたいなものなのだろう。
「この村には、なんにもありませんから」
自嘲の笑みを、榛美さんがうかべた。
ああ、なるほど。
そっか。
榛美さんはこの村で生まれ育った自分に、コンプレックスをいだいているのか。
「なにもない? ちがうよ、榛美さん。
だって、君がいるじゃないか」
「ふええ!?」
榛美さんがいきなり顔を真っ赤にした。
「なっ、な、こ、康太さん、な、なっ……!?」
「榛美さん、君の髪はとてもきれいだし、君の膚は透き通るように美しい。それが、どういうことかわかる?」
「は、はわわわわっ!?」
なんか混乱してる。
落ち着いて聞いてほしいんだけど。
「つまりね、ここには、君の髪や膚をうつくしく保つだけの食材が、ちゃんとあるってことなんだ」
「はわわ……はぇ?」
榛美さんはすごい顔をした。
渋谷で乗ってきたお客さんに、
『幡ヶ谷インターから第一宇宙速度を突破して、まっすぐ金星に向かってくれ』
といわれたときのタクシー運転手みたいな表情だった。
「膚も髪も、からだはごはんでできている。まずしい食事はからだをまずしくするし、ゆたかな食事はからだをゆたかにする。
だから、この村になにもないはずはないんだよ」
榛美さんは、渋谷で乗ってきた金星に行きたいお客さんに、『急ぎでね』とだめおしされた時みたいな顔をした。
あれ。
いい感じのことをいったつもりだったのに、思ったほど効果をあげてないぞ。
気を取り直そう。
「ねえ、料理人ってのはいいものだよ、榛美さん。
だって相手をだまらせるのに、怒鳴りつけたり殴り飛ばしたりしなくても、おいしい料理を出せばいいんだからね。
そして、この村の食材があれば、それができるはずなんだ。僕と榛美さんなら、あのうさ耳の人をだまらせてやれるはずだよ」
榛美さんはしばらく、したくちびるを噛んでうつむいていた。
拳をにぎって、ひらいて、深呼吸して、顔をあげた。
すがるような表情で、僕をみつめた。
「康太さん……わたしを、たすけてくれますか?」
僕はにっこりした。
「ふたりでやるんだよ、榛美さん。一緒にうさ耳の人をだまらせてやろう」
「……はい!」
かくして、はじめての共同作業がはじまった。