踏鞴家給地の冒険:オリジンを追え④
脱根を終えたら、製麦はおしまい。次は酵母起こしに取りかかろう。準備するのははちみつと麦芽、それから水だ。
はちみつを水でうすめたところに、砕いた麦芽を散らしてぐるぐるかき混ぜる。こうすることで、はちみつの中の酵母が活動しはじめる。麦芽は、酵母がすくすく育つための栄養を供給してくれる。
かめに入れて一日もすると、しゅわしゅわぷくぷく、音がしはじめる。溶液中の糖分をぱくぱく食べた酵母たちが、アルコールを吐き出しながらもりもり殖えているのだ。この音を聞くと心があたたかくなる。
「あなたのふるまいにはいつも感心させられるよ」
かめにぴったり耳をつけて目を閉じた僕に、ミリシアさんが皮肉を投げつけた。
「良い音なんですよ」
「そうであろうさ」
僕が酵母の生きざまに思いを馳せているあいだ、ミリシアさんと榛美さんは、すりばちで麦芽を砕いてくれている。どちらもビール醸造には欠かせない本当に重要な仕事なので、絶対おろそかにできない。
「しかし、動力というものを持たぬ土地であるな」
すりこぎを置いたミリシアさんが、ひたいの汗をうさ耳でぬぐった。
「こんど領主の水車小屋ができるらしいですけどね。自前のものが欲しいなーとは、まあずっと思ってます」
「あなたが水車のオーナーとなった折は、溜まりに溜まった兄の古着を贈るよ」
「ありがとうございます、製紙業でも始めますよ。そろそろ代わりますね」
みんなでがんばって、だいたいこなごなになってくれた。こいつにたっぷり水を加え、どろどろの粥状にする。加水は、麦芽のだいたい六倍ぐらいが目安だろうか。
土鍋に移して弱火にかけて、ゆっくり温度を上げていく。温度むらができないよう、へらでぐるぐるかき混ぜつづけよう。
湯気とともにむせるような麦のにおいが湧き、どろどろだった粥がだんだんさらさらになっていく。
「康太さん! これ! あの、水あめ!」
榛美さんがいたく興奮した。
「そうそう、あのときといっしょだね」
「おいしいやつ、なんか、甘くて、すごい……甘い!」
身ぶり手ぶりがめちゃくちゃ大きい。
麦のにおいに甘ったるい香りが混ざりはじめた。元気いっぱいの糖化酵素が、でんぷんをどんどんほどいて糖に変えているのだ。
「榛美さん、もうちょっとだけ火を弱めてくれる?」
「んはい!」
糖化酵素ぐらい元気いっぱいだ。
土鍋にふたをして、あとは一日ほど保温しておこう。ここは僕の家なので、糖化が進んでいくさまを想像しながら寄り添い過ごしたってだれも文句は言ってこない。
「榛美、われわれはホップでも摘みに行こうか」
「はい! んふふ、楽しいやつです」
え、そっちもやりたい、絶対に。自家醸造ビールのためにホップを摘むなんて体験、どう考えたって走馬灯に入ってくる規模の良い思い出じゃないか。
「あの、ミリシアさん」
「私は道理を心得ているよ、康太。安心して待っていろ」
「いってきますね、康太さん! いいやつをたくさん摘んできます!」
いじわるなのか本気なのか分からない口調で言い放ったミリシアさんは、榛美さんを連れて出ていってしまった。適材適所だ。
鍋を見守るのに専念していると、板の間の方から、戸を引く音がした。無遠慮な足音は悠太君のものだ。
「いたのかよ。すげえにおいだな……いやすげえ神妙な顔」
のれんをめくった悠太君は、僕を見るなりちょっとした悪口を言った。
「重要なことをしているからね」
悠太君は僕の隣にどかっと腰を下ろした。
「他の連中は?」
「榛美さんとミリシアさんはホップを摘みに行ったよ。で、僕は見守ってる」
「また一晩か?」
「こんなに大事なこともないからね。僕にしかできない仕事なんだと誇りに思っているよ」
「やめろ、言い聞かせるな他人に」
僕たちは笑った。
それからやや、変な間があった。悠太君は鍋に目を向けていたけど、どうやらなにか見ているわけではなさそうだった。
長年の付き合いでだいたい察せられるんだけど、悠太君がむずかしい顔をして黙っている場合、言うべきことをどのように口にするか決めかねていることが多い。
「できそうか?」
悠太君は、とりあえずビールの話をすることに決めたみたいだった。
「どうだろうねえ。夏場の発酵っていうのはそもそもむずかしいから」
「なんつったっけ、下面発酵だったか? それやれたら良かったんだがな。氷室で」
「いつかやってみたいね、酵母を探す冒険」
悠太君は「あー」みたいな声を上げた。やや不同意のニュアンスが含まれていそうな「あー」だった。
「で、楽しいか? って聞くまでもねえか」
たったいまの「あー」を打ち消すみたいに、悠太君は慌てて笑った。これは、突っつくよりも乗っかるべきかもしれない。
「それは楽しいよ。なにしろ自家醸造は僕の夢だからね」
「オマエいっつもそれ言うよな。養蜂とか釣りとか」
もちろん僕は山奥でマスでも釣りながら養蜂をして過ごしたいし、タップをずらりと並べたブルーパブの店主もやってみたい。おにぐるみの蜜で遊んでからは樹液にも深い関心があり、自家醸造したクラフト樹液ワインを呑み比べてみたいなーという漠然とした思いもある。夢がいっぱいだ。
それから再び、まあまあ長い無言の時間があり、悠太君は立ち上がった。
「まあ……がんばれよな」
「え? うん、それはもちろん」
「んじゃ。また様子見に来るわ」
悠太君はのれんをくぐって土間を出ていった。
どうしてずっと甥っ子扱いなのかは分からないけれど、すぐにでも伝えなくてはならないことがあるなら、悠太君はためらわないだろう。急ぐようなことはなにもない。なにしろ僕は無職なのだ。
◇
人類とホップの出会いは、はたしていつごろだったのか。
紀元前千年ごろのアルメニアでは、ホップ入りのビールが呑まれていたという話もある。
きみょうなかたちできみょうなにおいのこのハーブは、どうしたわけか、はるか昔から人類をひきつけてやまない。
葉っぱでできた松ぼっくりとでも呼ぶべき毬花を、ぱんと叩いてつぶす。かんきつのような、うりのような、草のような、ねずの実のような――きわめて乱暴に言ってしまえば、ビールの香りが立ちのぼる。
「はあああ……」
僕はただただ、うめいた。
「これはもうビールだね。ほぼビールだ」
「ビールなんですねえ」
榛美さんがふところの深いところを見せてくれた。
手の中でつぶれたホップの、花弁を一枚ぺろんとめくってみる。根元のところに、黄色いつぶつぶが密集している。ちょっとあげはちょうの卵に見えなくもない。
これこそがルプリン、ホップをホップたらしめる樹脂成分だ。ルプリンは多くの、かつべらぼうに便利な化学物質のかたまりで、ビールに苦みと香りを与えてくれる。有害な菌の繁殖まで抑えてくれるというのだから、人類にとってずいぶん都合の良い植物だ。
「よし、どんどんやる気が出てきちゃったぞ」
僕は言わなくてもいいようなことを口にして、かなりの大股で土間に向かった。
葛布でこした糖化液に、わしづかみにしたホップをえいやと投じて火にかける。沸くころには、煎り麦の香りとホップの香りが入り混じって、僕はもうおかしくなってしまいそうだった。
「完全に、ビールだ」
僕が半泣きでつぶやくと、
「わああ!」
榛美さんがふところの深いところを見せてくれた。
ルプリンに含まれる、フムロンやコフムロン、アドフムロンといったα酸は、加熱によって異性化し、イソα酸となる。ものすごくざっくり言うと、原子のつながり方が変わり、水に溶けだしやすくなる。これこそ、ビールに苦みと腐りづらさを与えてくれる化合物だ。
クラフトビールを出すお店で、メニュー表を眺めているとき、IBUなる数値を見かけたことがある方はいらっしゃるだろう。International Bitterness Unitsの略称で、そのビールがどれほど苦いかを示しているらしいけど、そんなことを言われても基準点が分からないので困惑するしかないしろものだ。
このIBU、なんでもビールの中に含まれるイソα酸の濃度のことらしい。つまり、ホップを入れて煮れば煮るほど苦いビールになるわけだ。
僕たちは果敢にも真夏の醸造に挑戦しているわけだから、ここはしっかり煮る必要があるだろう。というわけで、僕は一時間ほど、土間に満ちたビールの香りを楽しむことにした。
茶褐色に染まったホップのかけらが、対流でぐるぐる回り、ときおり鍋の表面に浮き上がっては沈んでいく。なんて美しい光景だろう。僕はビールを作っているのだ。
「すごいなあ、もう、とんでもないことだぞ、なにしろビールだ」
「なにしろビールなんですねえ。康太さんは好きだったんですね」
「いろんなビールを呑ませるお店をやっていたぐらいだからね。もう、本当に……とんでもないことだよ」
榛美さんはにこにこして、要領を得ない僕の話に相づちを打ってくれた。だめだもうおかしくなってしまう、いやすでにおかしくなっている。しかし、おかしくなっている自覚があるうちはまだ大丈夫なので事実上おかしくないと言っていいかもしれない。よし、問題なさそうだ。そろそろ火を止めよう。
お次は濾過だ。やがてビールになってくれる世界一美しい液体を、布をかぶせた平樽めがけ、どっと注ぐ。完璧な金色の滝がビールの香りを振りまきながらとうとうと注ぎ、飛沫が宝石のようにきらめいて、僕はビールの河を空想した。大陸を横断するしゅわしゅわ大河の周辺には悠久の文明が興り、嘘も争いも寄せつけぬ幸福な知的生命体がジョッキ片手にはべることだろう。
「すごくいいときの康太さんです。これは、今までよりすごくいいときですね」
榛美さんが僕の精神状態を冷静に論評した。
濾過を終えたら酒母を注ぎ、布を新しいものにかけなおし、いよいよ発酵だ。といっても、できることはない。うまいことビールになってくれるよう、ただただ祈るだけ。
「榛美さん、僕はここに住むよ」
僕は平樽のかたわらに正座してはっきりと告げた。
「でも住んでますよ」
「たしかにそうだね。でも、ここに住むんだ」
榛美さんはやや考えてからにっこりした。
「たくさん住んでくださいね!」
こうして許可を得た僕は、平樽に寄り添い生きることになった。
しばらくすると、くぷくぷこぽこぽ、音がしはじめた。僕の心臓はシュバルツシルト半径ぐらい収縮したあと、八光年ぐらい拡大した。
始まったのだ。発酵が。
酵母はたちどころに勢いを増し、夜半には沸騰みたいな音を立てはじめた。麦と糖と青草の香りにエタノールのにおいが混ざりはじめ、いよいよもってビールに限りなく接近していた。
一度ならず、僕は樽にかぶせていた布をそっと外し、様子を観察した。もこもこと湧きあがるあぶくは、ホップの樹脂や濾しきれなかった細かなくずなんかをまとい、みじめな泥水色だった。
さしもの僕とて、心が揺らぐときもあった。恐怖に負けて味見したくなる瞬間もあった。だけど僕にできるのは信じることだけだった。信じて願い、祈ることだけだった。
あっという間に三日が経った。糖分はあらかた食い荒らされてアルコールに変わり、液体はほぼビールとなっていた。
樽の中身を素焼きのかめに注ぎ変え、ふたをして、樹脂で密閉する。このとき、いくつかのかめには、からからに干したホップを葛布に包んで入れてやろう。ドライホッピングという技法で、ビールの香りをより強くすることができる。
「事実上、醸造はここから始まると言ってもいいですね」
僕が熱弁すると、ミリシアさんは平熱でうなずいた。ビールの様子を見に来たところ、だれでもいいから語りまくりたい僕につかまってしまったかたちだ。
「貯酒の時間を取るわけであるな」
「ええ、後発酵とも言いますね」
密閉されたかめの中でも発酵は進み、閉じ込められた二酸化炭素は水と反応して炭酸になる。また、アルコールから水が取れて有機酸とくっつき、果物のような香りの有機化合物を作り出す。こうした化学反応はエステル化と呼ばれ、とくに上面発酵のビールでよく見られる。
ビールの中で巻き起こる大嵐のような化学反応が落ち着き、風味が調和するのに、一か月か二か月を要するのだという。
「あの、ミリシアさん、ヘカトンケイルに戻らなくていいんですか?」
僕が当然の疑問を口にすると、ミリシアさんは心外だとでも言いたげな顔をした。
「私がなんのためにここにいると思っているのだ」
「ええと、ビールのためですよね」
「分かっているではないか」
ときどきミリシアさん、質問に対して適切な答えを返してくれないんだよね。たぶんふざけてるんだろうけど。
「実はな、大評議会に元首交代の動きがあるのだ」
「ふむ」
「元首はピーダー閥の持ち回りなのであるが、どうも、私を推挙する流れが生じている」
なおのことヘカトンケイルを離れるべきじゃないと思うんだけど。
「ゆえに遁走してきたのだ。大評議会でえらぶる役がらを、長兄フェーデに押し付けるために。来春までは世話になるつもりだぞ」
「ははあ、それはなんというか」
やってやったような顔で言っていいことなのかな、それ。
「冒険こそ我が伴侶にして商いこそ我が子なり、と言ってな。ヘカトンケイルではたびたび口にされるひとつの寸言だよ。もっとも、家庭を持たぬ商人を揶揄するばかものに言って聞かせる、倫理的反駁とされることがもっぱらではあるが」
「なるほどぉ」
僕はがんばって説得されたときの顔をこしらえ、ミリシアさんは満足してくれた。なんというか、家庭を持たぬ商人を揶揄するばかものが非倫理的であることについては、議論の余地がないよね。
「紺屋ブルワリーの第一号を、私はいくらでも待てるということさ」
屋号を与えられてしまった。でもちょっといいな紺屋ブルワリー。なんか、ずうずうしくて。
「新たなる食中酒が生まれ落ちる瞬間を、心待ちにしているぞ」
ミリシアさんは拳で僕の肩をこつんとノックした。




