オシュン・セイクリッドガーデンの味わうサピエンス⑥
さてさて。
僕は年収20万ドルのコンサルではなく、純利益が年三万円で税理士にめちゃくちゃ怒られた居酒屋店主だ。
そして居酒屋店主にできるのは、お酒にまかせ、微妙な感情を踏み倒すこと。
僕はスコッチをあおり、ひんやりする空気を吸い込んだ。
「あの、どうでもいい話しますね」
「するんじゃねえよ、どうでもいいなら」
僕はにっこりした。
「先日お会いしたとき、ものすごく久しぶりにホモ・サピエンスって単語を聞いて、ひとつ思い出したことがあるんです。サピエンスの語源というか、由来についてなんですけど」
「sapareの現在分詞だろ」
話が早すぎる。
よちよち歩きの英語学習をはじめた数多くの(僕のような)中学生を地獄に叩き落してきたことで悪名高い分詞とは、かんたんに言うと、動詞――動くとか歩くとか――を形容詞みたいに使いたいとき出てくる変化だ。
日本語なら『動く』とか『歩く』が『動いている』とか『歩いている』みたいになり、英語なら-ingをくっつける(そして動名詞とごっちゃになって、中学生をただならぬ混沌にいざなう)。
これが、学名に使われるラテン語だと、-ensになる。
たとえば、とにかく歯茎に突き刺さることでおなじみサクラエビの学名はSergestes lucensというんだけど、このlucensは、輝くとか光るを意味するラテン語の動詞luceoに-ensをくっつけたもの。
ヒトの場合、sapareを現在分詞にするため-ensをくっつければ、僕らのよく知るsapiensという文字の並びができあがり。
「そう、そのsapareについてですね。この場合、一人称単数現在形のsapioの方が正しいのかな? それはともかく、知るとか、理解するっていう意味なんですけど……」
知っている、理解している、知恵のあるヒトこそがホモ・サピエンスというわけだ。
トルラセさんとラウラさんが、はっとした表情を浮かべた。
話が早すぎる。
「味わう……」
ラウラさんがぽつりと呟き、ぱっと顔を上げ、僕と目が合い、急いで手で口を覆った。
気をつかっていただいてどうもすみません。
「ええ、そうです。sapareには、味わうっていう意味があるんですよね。僕は昔から、なんか、いいなあって思っているんです。カール・リンネは、そんなつもりで名付けたわけじゃないんでしょうけど」
むかしむかしのひとびとにとって、知恵があることと味わうことは、よく似ていた。
もしかしたら、今でもそうなのかもしれない。
日本語にもあるよね、吟味する、なんて言い方が。
「そうです、印欧語族の共通語根sep-から派生した単語ですね。sep-の役割は、知る、感じる、味わう……考えたこともありませんでした。コータ、ありがとうございます!」
がまんならなくなったらしいラウラさんが、やたら興奮している。
新規の概念を提供できたようでよかった。
ホモ・サピエンス。
知るヒト。
あるいは、味わうヒト。
「きっと、知ったからには味わわずにいられない生き物なんでしょうね。それがどれだけ愚かなことだとしても、だれかを傷つけてしまうことだとしても」
トルラセさんは沈黙した。
かなり長いこと、風が吹いてキッチンガーデンの草ぐさがざわっと揺れるまでのあいだ。
ゆらゆら揺れるマンゴーとアサイーの梢から視線を外したトルラセさんは、手を伸ばし、チョコを一切れつまんだ。
はしっこをかじって、ほおばって、奥歯で噛みしめた。
グラスを手にしてスコッチをあおった。
カカオバターをまるごと全部、洗い落として体に届けるように。
「食ってみな。あんたらも」
「あえ……」
榛美さんが、『よし!』のフェイントをくらった犬みたいな顔で僕を見た。
「どうぞ、榛美さん」
榛美さんはおっかなびっくりチョコを手に取り、ぴかぴかの表面に映った自分を観測してやや目を見開いた。
「つやつやです。つぶつぶだったのに」
「ずいぶん苦労したものねえ」
「はい! ふわふわがんばりました! みんなでですよ」
あの苦難に満ちた道程はやっぱり『ふわふわがんばる』カウントでよかったんだ。
「いただきますんあえあ」
チョコを食べた榛美さんは、口を半びらきにしたまま停止した。
「へぁ……にゃんか」
にゃんか。
「とっ、ゆっ、ゆりゅ、りゅ」
「そうだねえ、ゆるゆる溶けていくよね」
榛美さんはぱふっと口を閉じ、ふぐみたいにほっぺをふくらませた。
どうやら口内にスペースを作り、舌の上で溶けるにまかせているらしい。
こういう食べ方、小さいころにやったことあるな。
「ぷふ」
榛美さんは息を吐き、溶けたチョコをこくんと飲んだ。
「はぁああああ……」
くたくたになった榛美さんが僕にもたれかかってきた。
「ふぃいいいい……」
余韻がね、あるよね。
「これは、すごい、すごいやつです。康太さん、これはもう……わたし、はじめて食べました。すごいです!」
急にがっと加速したな。
「うぁう……チョコ、やば、えやばこれがちでチョコ、え、え、やば、やば」
加速した榛美さんの向こうで衛川さんが言語を見失っている。
強いなあ、チョコレート。
「わああ!」
榛美さんはベンチから立ち上がった。
よほどだったらしい。
「チョコ、これは、わああ……わああああ!」
僕の肩を掴んで揺さぶってきた。
よほどだねえ。
「もう一つ食べる?」
「はい! んわわわわ!」
ばりぼり噛んでごっくんして、スコッチをぺろっとやった榛美さんは、……待てよ? の顔をした。
「これは、康太さん、これは、その、もしかして、チョコでお酒がおいしくて、お酒でまたチョコがおいしいやつですか?」
「気づいてしまったねえ」
強く辛いお酒で油脂を流す快楽と、さらっさらの口に甘い油脂を叩き込む快楽、ぶつかり合う煙の香りとカカオの香り。
抗いがたくも危険な相互循環だ。
「んふふ! んふふふふふ!」
片手にチョコ、片手にお酒の完全無敵形態となった榛美さんは、足踏みしながらその場で回転し、僕と目が合ってぴたっと止まった。
「康太さん、あのね、わたしは知ってましたよ。康太さんはいつも、わたしの知らないわたしの好きなものをくれるんです」
飾らず照れない好意を、僕も最近は受け止められるようになってきた気がするな。
「ありがとう、榛美さん。すごくうれしいよ」
「いーえ! わたしがありがとうで、わたしがうれしいんです!」
榛美さんは再び自転をはじめた。
「……へん。好きにやってろ。ラウラ、株分け手伝いな」
「はーい! それじゃあどうぞごゆっくり!」
ラウラさんとトルラセさんが、連れだって出ていった。
「やば……」
「んふふ!」
泣いてる衛川さんと回ってる榛美さんをそのままに、僕も、チョコに手を伸ばす。
味わうサピエンスが探求と創意の果てに生み出した、甘くて深い、知恵と悪徳の味がした。
◇
トルラセは、大ぶりのカモミールを引き抜いて根から土を払った。
ラウラは、無造作に放り投げられたカモミールの株を手で割いていった。
「ね、トルラセ。良い人たちだったでしょう?」
「へん。やかましいだけだ」
ラウラは厚かましくもにこにこし、トルラセは酒精に熱い息を吐いた。
「すこし酔ったかね」
「そのようですね」
トルラセは土に移植ごてを突き立てて掘り返した。
小石をつまんで、道に放った。
「……おれぁ、ああいう顔が見たかったんだ」
「それは、エイモスという子の?」
「だけじゃねえよ」
「ええ、そうでしょうね。本当に」
分けた株を手にしたラウラが、トルラセに寄り添った。
トルラセはラウラからカモミールを受け取り、掘り返したくぼみに置き、土をかぶせた。
「また友人を連れて来てもいいですか?」
「好きにしな」
「はい、好きにします。紹介したい人が、まだまだたくさんいますから」
トルラセは呆れたように小さく笑うと、立ち上がり、腰を叩いた。
視線の先には彼女のささやかな木立があった。
オシュンの聖なる木立があった。
◇
「というわけで、最終的にチョコができました」
僕がしゃべっている間、リーリさんは、皿に盛られたチョコレートをじっと睨んでいた。
視線だけで溶けちゃうんじゃないかってぐらいの見つめぶりだった。
「ありがとう、康太。よくやってくれましたわ」
感謝の言葉を口にしながら、目はチョコに釘付けだ。
食べたいのかな。
「そう。ピスフィ・ピーダーが、これをたくらんだのね」
リーリさんがピスフィの名前を口にするのは珍しいことだな。
いつも青麦呼ばわりしているのに。
「ミリシアが知れば喜ぶことでしょうね。思惑を越えてくれたと」
「その、やっぱり、カカオってそういう扱いなんですね、ヘカトンケイルでは」
「本土派であれ潟派であれ、そうそう手を出さないことでしょう。産地での製造が困難な産物は、たやすく不均衡を産みますわ。識って、その上で扱う者は、自らの悟性を疑わぬとんまなうぬぼれ屋。あるいは……」
リーリさんはチョコをかじった。
「あるいは、人類そのものの理性を疑わぬとんまな楽天家ですわ」
あるいはで区切っておいてどっちもひどいことってあるんだ。
こないだのヘアオイル騒動で、ミリシアさんは落花生油に否定的だった。
タタナシエのプランテーション化を促進したからだ。
それが一般的なヘカトンケイル人の反応なのかは分からないけれど、ひとつの標本にはなるだろう。
あのぶっそうなフォルクさんですら、アロイカから収奪してやろうなんてつもりは無かった。
ヘカトンケイル商人というのは、概して比較優位を奉じる慎重なグローバリストだ。
「あれは近々、ファリード・グレゴリーエヴィチに――大商館に挑むことでしょう。康太、そのときはピスフィの力になりなさい」
お、おおお?
そう来たか。
「あれがうぬぼれ屋であるのか、楽天家であるのかを見きわめる機となりましょう。無力なばかものでしかないのでしたら、わたくしがあなたを引き受けます」
「ええと……商館の饗宴に失敗したら、僕は完全移籍ってことですか?」
「その理解でよろしい」
なんてこった、とんでもない付帯条件がくっついてきたぞ。
どのみち次の饗宴で下手を打てば親会社がいよいよ傾いちゃうし、勤め人としては感謝すべき提案なんだろう。
でも、そもそも生きてて勤め人になったことがない。
これは、心がまえがむずかしいな。
「刀剣が、帯びる主を信じられなくて?」
いじわる言いますね。
そんなの、どうにかしたくなっちゃうじゃないか。
「もうすこし長い付き合いになると思っていましたよ、リーリさん」
リーリさんは満足そうに笑った。
「ごちそうさまでした。次はまともに精練したチョコレートを持って来なさい。下がってよろしい」
「失礼します」
身をひるがえした僕は、やけに大股で、のしのし歩きだした。
オシュン・セイクリッドガーデンの味わうサピエンス おしまい!
リュージグラードに霜迷う(仮題)でお会いしましょう




