オシュン・セイクリッドガーデンの味わうサピエンス⑤
さて、ここで再び、バン・ホーテンの話に戻ろう。
バン・ホーテン親子がカカオマスからカカオバターを分離した話は、すでにした。
とはいえこれはかんたんな話ではなく、べらぼうな圧力を必要とした。
それでどうしたかというと、漫画によく出てくる奴隷がぐるぐる回すバーみたいなものを用いたのだ。
だいの大人が十六人がかりで奴隷棒にかじりつき、絞り出せたカカオバターはごくわずかだったという。
「それで? そのくだらない油が、なんの役に立つっていうんですか?」
「これがチョコレートづくりにはもっとも大事なところなんですよ」
僕は重大な打ち明け話をするみたいに声をひそめた。
ララフ君は心底どうでもよさそうにした。
さて、ぱりっと割れてとろっととろけるチョコレートの性質が、カカオバターに大きく依拠していることはここまで説明してきたとおりだ。
しかしながら、がんらいカカオが抱き込んでいるカカオバターだけでは、おいしいチョコレートになってくれない。
そのため人類は、あれこれくふうしてきた。
追いカカオバターによって油脂の割合を引き上げる技法は、十九世紀中盤に発明されたそうな。
チョコの中のつぶつぶをカカオバターが覆って、舌ざわりが改善される。
「あーこれチョコ作ってんのね? 言われてみればそんな感じすんなー。へえー、すげーじゃん」
なんの説明もしていないのに来てくれてありがとね、ふたりとも。
「この世界にもチョコはあるんですね」
「あるっちゃーあるね。たまーに百貨迷宮から獲れるぐらいだよ。夜会なんか行くとめっちゃ仰々しく出てくることある」
え、食品も流れ着いてるんだ、百貨迷宮。
しかも食べちゃってるんだ、ヘカトンケイル人。
勇敢だ。
「それじゃあ、製法は?」
「そりゃーまあ、お菓子職人の白神ぐらいいたことあっからね、ヘカトンケイルに。商業ラインに乗ったって話は聞かないな」
なるほどなるほど、それぐらいの認知度か。
リーリさんがカカオパルプにめんくらったのも、無理はないな。
「それならちょうどよかった。パトリト君に相談したいことがあったんです」
僕は社命についてパトリト君に話した。
「リーリさんに、どう報告しようかなって。お茶や砂糖といっしょで、いわばソフトドラッグですから」
「あーね。プランテーションとかね」
「ろくなことになりゃしませんよ。なんたってリーリ・スミラキナなんですから」
ララフ君の声は鋭い。
ふるさとタタナシエがモノカルチャーで崩壊したのだから、当然だろう。
しかもそれをやったのが、ほかならぬスミラキナ家だ。
パトリト君はすり鉢を湯せんしながらうーむと考えた。
「お姫ちゃんに相談すべきじゃない?」
「それも考えたんですけどね。なんていうか、ピスフィの荷物を増やしたくないんです」
残酷になりきれない潔癖さは、ピスフィの良いところであり、弱点でもある。
僕がうだうだと道徳的になっている姿を見せたら、カカオパルプ戦略を再考してしまうかもしれない。
「考えすぎかもよ、康太くん。お姫ちゃんも分かってやってるっしょ」
「かもしれませんね」
どうしても判断能力が鈍ってしまうのは、僕が白神だからだろう。
これまでめちゃくちゃやってきて、何を今さらという話ではあるんだけどね。
パトリト君はすり鉢を置き、垂れたうさ耳を指にくるくる巻きつけた。
「ちょっと言葉あれだったらごめんだけど、ヘカトンケイル人もさ、つかこの世界も、そんな捨てたもんじゃないと思うよ」
僕はぶん殴られたような衝撃を受けて、三秒ぐらい、何も言えなくなった。
急激に何もかもが恥ずかしくてちぢこまってしまいたい、中性子星になるまで。
「それは、はい……そうですね。すみません」
いつもいっつも浅はかすぎる。
なんだってこう考えが回らないんだ僕は。
いつもだいたい似たような形式で失敗しているのにどうしてなぞるように繰り返すんだ。
ループものの主人公じゃなくてよかった、同じところで同じことをして永久に抜け出せなくなるところだった。
「違う違う、責めてんじゃないって。落ち込むなー?」
パトリト君が駆け寄って来て、僕の肩に親身な体当たりをくらわせた。
「そっちがそう思うのもすげー分かるから」
「ここに動く実例がありますよ、どうぞご自由にご観覧ください」
ララフ君の手きびしい皮肉にパトリト君は苦笑した。
「あんま気にしないでいーと思うな俺は。そのまま報告しちゃえば」
「はい、はい」
「あーららら。ララフ、酒呑ましちゃおっか」
「いいんじゃないですか? 泥酔されたら作業が止まりますけどね」
「そっかー、んじゃ落ち込ませとこ。俺らやっとくから落ち込んどきな!」
というわけで僕は、榛美さんたちが戻ってくるまでのあいだ、目いっぱい落ち込んだ。
さてさて、チョコレートづくりもいよいよ終わりが近づいてきた。
ララフ君の魔述で絞り出したカカオバターをすり鉢に加え、なじむまで練る。
なじんでからも練る。
「ここらが人力の限界だね」
どこかの時点で、僕はそう宣言した。
ざりざりの泥だったカカオは、今やすっかりつやつやだ。
鉢と棒で出した成果としては十分すぎるだろう。
十九世紀、最初期の板チョコは、熱した花崗岩の板と同じく花崗岩製のローラーから生み出されたという。
とはいえ、ないものはない、あるものはある。
今後の検討課題としておこう。
“放課後のハレム部”にお願いして、水車動力を利用したりとかね。
「おわり……? おわり?」
衛川さんが、なんかやつれきっている。
榛美さんは椅子に座って寝ている。
「テンパリングですね、コータ!」
ラウラさんはずっとパワフルですごい。
活力の秘密はなんだろう、毎朝のアサイーボウルかな。
「そうだね、ここからは僕の仕事だ」
手作りチョコレートに立ちはだかる関門、テンパリング。
なんか温度を上げ下げする……のが意味分かんないしだるすぎるから生クリーム入れちゃえ、の妥協によって、いくつのガナッシュがこの世に生まれたことだろう。
テンパリングとは、カカオバターを良いぐあいに結晶化させるための技術だ。
この、良いぐあいにというのがたいへんむずかしい。
カカオバターの結晶はI型からVI型まであるとされていて、チョコレートに最適なのは融点が33℃前後になるV型。
これがI型だと融点が18℃になっちゃって触っただけでも溶けるし、VI型だと36℃ぐらいで口どけがよろしくない。
「ダイヤと石炭ですよ、チガヤ。結晶型です」
「あなんかそれ聞いたことある。同じなのに違うみたいな話でしょ。チョコにもあるんだ」
この世界には、非接触の赤外線温度計みたいな気の利いた代物が存在しない。
直感でやってみるしかないだろう。
炊事場の隅に立てかけてあった、大理石のなんかパンこね台らしきものを、よいしょと机に置く。
「だいじょうぶ、僕の家にも似たようなものがあったからね」
大理石のパンこね台、テンパリングにも使えるから一つあるといいよ。
むやみに厚くて重くてぴかぴかしてて、異常な存在感が楽しいし。
湯せんにかけ、つやつやになるまでとろかしたチョコレートを、台の上にてーっと流す。
むらが出ないよう、へらとパレットナイフで伸ばしたりまとめたりしながら、温度を下げていく。
ここでの狙いは25℃前後、IV型の結晶を作ることが目的となる。
「おー、なんかぴかぴかしてきたじゃん」
「粘性も出てきましたね」
パレットナイフを持ち上げてみる。
垂れ落ちたチョコが波紋をつくってから溶け広がる。
分かりもしないのに下くちびるに当ててみて、なんとなくよさそうだ。
ボウルにまとめて、湯せんする。
30℃まで持って行くことで、IV型の結晶をV型に転移させる。
このとき、V型結晶の割合が、カカオバター全重量のうち2パーセントぐらいになるのがもっとも良いとされている。
そんなことを言われても困っちゃうよね。
僕はもと居酒屋店主であり、へらに伝わる感覚から温度を判断するようなショコラティエではないし。
唐揚げなら見た目で判断できるけど。
金属型に流し入れ、冷蔵庫――板氷を突っ込んだ木箱が、炊事場に用意されている――に突っ込めば作業はおしまい。
テンパリングで生じた結晶を種に、どんどん結晶化が進んでいってくれるという寸法だ。
さあ、疲れ果てた体で最後の一はたらき、片付けの時間だ。
「よく100円で売ってるわよね、チョコ」
テーブルを拭きながら、衛川さんは噛みしめるように呟いた。
「2000円はいただきたいよね、しょうみの話」
「こんな手間のかかるものを常に食べていたんですか、白神さんの世界では。端的に言ってばかげていますね」
いやまったく、そのとおりだ。
それくらい人類にとって魅力的であるのが、チョコレートの怖いところだね。
「トルラセはどう思うでしょう。怒るかもしれませんね」
ラウラさんはチョコづくりの是非を問わず、ここまでにこにこ付き合ってくれた。
ありがたい話だ。
スーパーで売ってるチョコの内容量が減ったの減らないのでいちいち大はしゃぎする能天気な日本人でしかない僕らに、思うところあるだろうに。
「お尻を蹴られて追い出されたら、私たちでパーティしましょう! チョコレートオールナイト! ね、チガヤ!」
「え? なに? ごめんもう疲れてて、明日でいい?」
「体幹が原因ですよ! 私とクリパルヨガをやりましょう」
「元気」
榛美さんを起こして、そろそろ僕らも帰ろうか。
「パトリト君、ララフ君、ありがとうございました」
「いーよいーよ、康太くんだーって感じで楽しかったよ」
「またくだらないものを作る予定があればお声掛けください。断る理屈を見つけておきますから」
◇
して翌日、オシュン・セイクリッドガーデン。
庭の手入れをしていたトルラセさんは、僕たちの姿を見るなりしかめ面をした。
「今日はカモミールの株分けをする日なんだよ」
あいさつがわりの悪態だ。
「後で手伝いますよ。ね、コータ。今日はトルラセにチョコレートを作ってきたんです」
ラウラさん、ずばっといくなあ。
達人の踏み込みだ。
僕たちはけっこう緊張感を持ってラウラさんとトルラセさんを注視した。
トルラセさんは移植ごてを地面に突き刺し、立ち上がって腰を叩いた。
「茶を淹れる。呑んだら帰れ」
「いえ、今日は私たちがやります。トルラセはゲストですよ」
「……へん」
これは拒絶か容認か、どっちなのだろう。
ラウラさんはすこしも動じずにこにこしていて底知れない。
ともかく僕たちはウッドデッキに向かい、用意してきたものをテーブルに広げた。
加糖して煮たカカオパルプをゼラチンで寄せたカカオゼリー、はちみつと刻んだカカオニブを散らしたオーツミルクのブランマンジェ。
裏ごししたカカオパルプを紅茶で割ったカカオパルプティー、ルミア-ヤシム蒸留所のスコッチ。
そして何より、ひとかけ800円ぐらいはちょうだいしたい、苦心の果ての板チョコだ。
「お酒を呑まれるって、パヴェル・フョードロヴィチからうかがいまして」
生のスコッチをグラスに注ぎ、お出しする。
受け取ったトルラセさんは空気ごとしゅるりと口に含んで、目をきつく閉じ、くちびるを真横に広げてうつむいた。
「口が焼けちまうみてえだよ。スコッチだな。うん、スコッチだ。ラフロイグのできそこないじゃああるが」
どこにいっても評価が一定だ。
「泥炭が良いですからね。西岸のものですよ」
「話にゃ聞いてる。あのクソババアが気に入ったんだろう?」
どのクソババアだろう。
もしかして母后陛下かな。
次いでトルラセさんはブランマンジェをすぼっといっぺんにすすった。
「あんたが作ったのか」
「いかがでしょうか」
「……悪かねえ」
経験上、こういう人の『悪くない』は最上級の賛辞と受け取って良い。
うれしくなっちゃうねえ。
「食わねえのか、あんたらは」
トルラセさんはサングラスをずり下げ、榛美さんと衛川さんに目をくれた。
ふたりとも、なんか背筋を反れるだけ反っている。
緊張感あるよね、つくったものを食べてもらう瞬間って。
「やっ、あのっ、お先にっ」
衛川さんが打って出た。
榛美さんはよくよく観察してみれば視線がチョコにフォーカスしっぱなしだった。
トルラセさんは鼻から息を吐き、間を持たせるようにスコッチをちびりちびりとなめた。
これは、気まずいぞ。
押し通ってくれそうなラウラさんは、こんなときばかり笑顔で見守りモードだ。
機微を分かりすぎていて怖い。
コンサルタントを目指していたそうだけど、これぐらい押し引きできないとやっていけない仕事なんだろうなあ。




