オシュン・セイクリッドガーデンの味わうサピエンス④
チョコレートづくりは、カカオ豆の発酵から始まる。
「あ、来た? あたしの出番」
衛川さん、察しが良い。
いつもありがとうございます。
というわけで、僕たちの前にはカカオポッドがごろごろっと転がっている。
それと困り顔のパヴルーシャさん。
「なぜ私たちの家で?」
「近かったもので。助かりました」
僕はパヴルーシャさんの面の皮を見習ってみた。
まずはカカオポッドを叩き割り、まっしろなパルプに覆われたカカオ豆を取り出す。
やしの葉を敷いた木箱にこいつを詰め、表面もやしの葉で覆ったら、準備は完了。
「お酒づくりのなんかはしないんですか?」
集落唯一の杜氏だった榛美さんから鋭い指摘が入った。
「酵母はヤシの葉っぱにいるんじゃないかな。それにカカオパルプにはクエン酸がたっぷりだからね。悪さする菌は生きづらいんだ」
「くえん、その、それ、なんか、いいやつですね! わたしのお酒にもいたやつです」
「そうそう、踏鞴家給地のお酒には白麹が使われてたものね」
「はい! んふふ、おぼえてますよ!」
こんなところで酒造の復習だ。
またみんなでやりたいねえ、どぶろくづくり。
たまには帰省しちゃう?
「でも、お酒をつくるんじゃないですよね。どうしてするんですか?」
「芽を出させないためと、それから香りをよくするためだね。衛川さん、お願いします。四日分ぐらいかな?」
「よし! チョコレート!」
気合が入っている。
トルラセさんとのおしゃべりで生じた葛藤は、どうやら乗り越えたらしい。
魔述が投射されるなり、かぶせたやしの葉がみるみるへこんでいった。
無数の微生物がカカオパルプに取りつき、すさまじい勢いで食い進んでいるのだ。
あっという間に、室内は熱と臭いに満たされた。
エタノール発酵のアルコール香が喉を締めあげ、ついで乳酸発酵のヨーグルトくささが鼻をぶん殴り、糸状菌の放つ腐った土の異臭が臓腑をえぐった。
最後に全体の雰囲気を支配したのは、床に酢をぶちまけたときのような、酢酸発酵のむせる臭いだ。
「換気が必要みたいですね」
ヴェートチカさんが、苦笑をひとつ、跳ね上げ窓を全開にした。
「これ……うぶぇっ、いやまあいつものことなんだけど、ほんと不安になるわ発酵って」
「一歩間違えたら人が死んじゃうからね」
葉っぱをどけると、黒ずんだ色のカカオ豆が、黄ばんだびしゃびしゃの底に沈んでいる。
僕は興味本位でびしゃびしゃを舐めてみた。
「わー! 何やってんの紺屋さん! 一歩間違えたら人が死ぬ!」
「ごめん衛川さん、でもどうしても気になっちゃって」
辛くて酸っぱくて土っぽくて青くさくてにちゃにちゃして、あまったるいライチの香りがする。
カカオの猿酒だ。
「チガヤ! カカオパルプワインですよ!」
「は? なに? 名前あればいいの? わー! 榛美さんまで!」
「んんん……これは、なんか、いつかおいしくなるやつですね。ちゃんと味ですよ、白茅ちゃん」
「いつもこっち側にだれもいない」
大昔の人が呑んでたカカオ酒ってこんな感じだったのかな。
榛美さんの言うとおり、一くふうで大きく化けてくれそうなポテンシャルを感じる。
「さてさて、次は乾燥だね」
豆に残った水分やすっぱいにおいを、太陽の力でぶっ飛ばしていこう。
庭に帆布を敷いて、カカオ豆を広げる。
からっと晴れて乾いた風が吹いていて、天日干しにはうってつけの日よりだ。
カカオ豆の乾燥においては、種子中の水分を八パーセント程度にまで減らすことが肝要らしい。
水気を残しすぎればかびてしまうし、少なければもろく砕け散ってしまう。
「今度はどのくらい?」
「五日ぐらいいってみようか。衛川さん、お願いします」
たちまちカカオ豆が、ぎゅっとしぼんだ。
赤茶けてでこぼこで、見た目はかちかちにひからびた乾燥梅干しに近い。
「どれどれ」
ひとつ摘まんで、指の腹にぐっと力を込めてみる。
ぱきっ、と、くしゃ……、の中間みたいな音がして、外皮が割れた。
ふっと息を吹き付ければ、軽い種皮がとんでいき、とうとうカカオ豆本体との遭遇だった。
「おー……カカオっていうカカオだ」
まっくろで、ざらざらで、議論の余地なくカカオ豆だ。
「へー。なんか、あ、いやなんでもない」
衛川さんが何かを言いかけてやめた。
「分かるよ。虫っぽいよね」
「言わなかったのに!」
こういうテクスチャのカミキリムシいるよね、オオクロカミキリとか。
「どれどれ」
かけらを一つ、噛んでみる。
ぬちっと湿気た食感に、強烈なカカオの香り、それから胸を圧す酢のにおい。
フルーツっぽい酸味の奥にあるいやな感じのすっぱさは、酢酸発酵由来かな。
「あと三日分ぐらいお願いできる?」
というわけで三日分ほど時述べの魔述をかけてもらって、ふたたび検分。
ひびの走った豆は、にじんだカカオバターでてらてらと黒光りしていた。
「ねえやっぱこれどう見ても……」
がまんがきかなくなってきちゃってるよ衛川さん。
「オオクロカミキリだね」
僕は言い張り、衛川さんは引き下がった。
味はというと、くしゃくしゃした軽い食感、カカオの香りは更に強くなり、酸の香りも軽くさわやかだ。
「はいどうぞ」
無言で近づいてきた榛美さんの口に、かけらをひょいと投げ込んだ。
「んっむ、んあ、むあ……ん!」
カカオ豆との間でなんらかの合意に至ったらしく、榛美さんはきりっとした顔でこくっとした。
よさそうだ。
「乾燥はおしまいだね。次は焙炒だ」
パヴルーシャさんちのペチカをお借りしよう。
耐火れんがをたっぷり積み上げたぜいたくなもので、オーブンまでついている。
これから始まる新生活に心躍らせていた時期がこの性悪なおじいさんにもあったんだろうな……と思わせて、なんだか物がなしくなっちゃうね。
オーブンをあっためているあいだに、豆をじゃぶじゃぶ水洗い。
外皮にへばりついたパルプをしっかり落とそう。
これをやらないと、お酢のにおいが残ったチョコレートになってしまう。
「さてさて、120℃ぐらいかな」
オーブンに腕を突っ込んでみて、あちち! まではいかないぐらいがいいあんばい。
乾かしたカカオ豆を平皿に広げてオーブンに突っ込み、内側までじっくり火を通していこう。
「ん! なんか良いにおいしてきた!」
オーブンの前でそわそわうろうろしていた衛川さんが、香りに反応した。
「お、あったまってきたね」
「なんか、パン! パンのときのにおいです!」
かすかな酢酸臭とアルコール臭、炒ったナッツや果物みたいな香り。
たしかにパンを焼いているときみたいだ。
アルコール発酵させたものを焼いているわけだから、原理としては近いものがある。
なおもあたためていくと、次第に、チョコレートの香りが立ち上がってくる。
「ふわあ……」
衛川さんと榛美さんがふたりまとめてうっとりした。
あんまりにもチョコレートすぎて、僕もけっこう、このにおいにはやられてしまいそうだ。
発酵によって生じた還元糖、たんぱく質が分解されて生じるペプチドやアミノ酸といった香りのもととなる物質。
エステル類、アルデヒド類といった種々の化合物。
一粒の種子に、数えきれないほどの成分がありえないほど複雑に嵌め込まれた、香りの象嵌だ。
三十分ぐらい炒ったら、オーブンから引き揚げる。
ほこほこ湯気を立てて、お皿には溶けだしたカカオバターがチョコ色の輪じみをつくっていた。
「あち、あちちち」
あちあちいいながらつまみあげ、指で挟んで外皮を割る。
わあっと近づいてきた榛美さんと衛川さんに、一粒ずつ。
「これ……これ、うわなんか、なんか知ってる、えええなんだろこれ」
「なんか、しゃこしゃこで、でもさっきよりもちょもちょです!」
衛川さんは記憶を辿りはじめ、榛美さんはよく分かる擬音で説明してくれた。
カカオバターが溶けた分だけ、食感がやわらかくなったのだろう。
「あ! 分かったこれ! パン! 板チョコ挟んだあのやつ! 山崎パンの!」
ホワイトデニッシュおいしいよね。
ひとつでしっかりカロリーも摂れるし。
発酵と焼けたカカオの香りだったんだな、ホワイトデニッシュのおいしさって。
「うーん、こうなるとチョコレートですね! 興味深いです」
ラウラさんもカカオをぽりぽりした。
僕も一粒食べちゃうか。
「おー、もうけっこうしっかりチョコだなあ」
かさかさで薄味のハイカカオチョコだ。
「えもうこれほぼ完成じゃない? なんかもう見えてるんだけど。良い未来が」
衛川さんがけっこう呑気だった。
「実はここからが本番なんだよ」
人間であれば誰しも、カカオ豆からチョコレートを作ってみたいと一度は志すものだ。
amazonでもカルディでもカカオ豆が買えることをに気づき、それならばといきりたち、やり方を調べ、たいていの場合、やる前から挫折する。
なぜというに、どこでどう調べても、
『数時間すりばちに当てたあと、十数時間すりばちに当てろ』
みたいなことが書いてあるからだ。
「は?」
衛川さんが言葉を失っているすきに、僕はあら熱の取れたカカオを包んだ。
機を読んだ榛美さんとラウラさんが、てきぱきと後片付けをしはじめた。
「そろそろおいとましますね。ありがとうございました」
「いつでもどうぞ、若き我が弟子よ」
「ぜひいらしてくださいね。こけもものクワスとブリヌイを用意しておきますよ」
◇
さてさて。
ところ変わって、ここは鞘豆屋の炊事場。
ぐったりした衛川さん、元気な榛美さんとラウラさんを前に、僕は聞きかじりの講釈を始めた。
チョコレートは、カカオバターという油脂の中に、カカオマスと砂糖というつぶつぶが散らばった食べものだと言える。
このつぶつぶは、おおむね小さければ小さいほど口どけが良くなる。
どうも人間の舌というのは、20マイクロメートルより大きいつぶつぶが含まれていると、ざらつきを感じてしまうらしい。
0.02ミリメートルを感じ取れる人間の舌というのは実に大した器官だけど、その高性能は、チョコづくりにとっておおいなる障壁だ。
「たとえば、ふつうのお砂糖の大きさがひとつぶ0.4ミリぐらいだね」
「ただでさえ小さいのに?」
衛川さんの顔にははやくも敗残兵の憔悴が浮かんでいた。
「そう、ただでさえ小さいのに」
それを、20マイクロメートルまで持っていく必要がある。
当然、この世界にはハンディブレンダーも電動石臼もない。
「カカオめっちゃでかく思えてきた」
「三センチぐらいあるもんね。さあ、やっていこうか」
外皮と胚芽を外したカカオ豆を包丁でざくざく刻み、すり鉢にざららっと流し込む。
ここからはいつものとおり、『ひとりかふたりの人間がくたびれるまで』だ。
もうすっかり慣れちゃったね。
すりこぎでひたすらごりごりする。
ただひたすらに、一意に、無の心で、あるいは頭の中でフィガロの結婚でも流しながら、とにかくただただやっていく。
ばきばきぱちぱち、カカオがつぶれていく。
粉っぽくなったカカオを、すりこぎがしゅりしゅりとかき分けていく。
「あでもなんか、あんこみたいに見えてきたわよこれ。かぴかぴのこしあん。もしかして未来見えてきた?」
「そう? ありがとう。あんこの粒の大きさって、たしか150マイクロメートルぐらいだった気がするな」
「うおお……」
衛川さんは一回かなり深めにめげてから、
「チョコレート!」
自分のほっぺをぺちんと張った。
「替わるから、紺屋さん、替わるからあたし」
「ありがとう、お願いします」
こうして、みんなで代わる代わるすり続けること、一時間ほど。
「なんか……重たくなってきました!」
榛美さんは、鉢にへばりついたカカオを力強く削ぎ潰した。
「粒が細かくなってきた証拠だね。そろそろカカオマスと呼べそうだぞ」
ここらで、別途にすっていた砂糖を加え、更に練っていく。
「あもうだめこれ、へばりついてる。あたしじゃ無理」
「チガヤ! 任せてください! 無理でした!」
「テンポ良」
「湯せんしてみようか」
鉢をお湯につけると、さらしあんみたいになっていたカカオがてろてろに溶けた。
ご家庭ではドライヤーを使うと楽だよ。
温度が上がりすぎないあんばいで引き揚げよう。
「すごいこれ、なんかもうココアじゃない?」
「なめてみる?」
水飲み鳥の間引き映像みたくなっちゃった衛川さんに、スプーンを手渡す。
ちょっとすくってぺろっとした衛川さんは、顔をしかめた。
「泥だったわ。チョコっぽい泥。転んだときの味」
「どれどれ……なるほど、泥水だね。でもほら、泥の粒子は100マイクロメートルぐらいらしいから」
衛川さんはけっこう強めにめげた。
「白茅ちゃん! チョコレート!」
榛美さんが力強い。
ゴールを知っている僕たちでさえしょげているのに、何も分からないまま甘いだけの泥と向き合っている榛美さんの、この精神力たるや、だね。
あきらめてはいけない。
いつだって僕たちは、この世界で口当たりがなめらかなものを作り出すため、ふわふわがんばってきたのだ。
裏ごししては練り、練っては裏ごし、湯せんにかけては裏ごしして練り、もはや見た目の変化もあんまりなくなってきた。
日も傾き、全体的にうすら寒くなってきて、むなしさが心をしがむ時間帯だった。
チョコレートづくりはまだまだ中盤戦、ここで折れるわけにはいかない。
倦怠感を吹き飛ばすため、新鮮な風を入れる必要があるだろう。
「というわけで連れてきました」
「おいっすー。なんか良いにおいすんねここ」
「今度はどんなくだらないものを産み落としているんですか?」
パトリト君とララフ君をここで投入だ。
「んじゃー三人ごはんいっといで。俺らで進めとくから」
「えいや、気まずいわよそれ」
「いーからいーから。俺の悪口言っていいよ」
「言わないし。あたしそういう陰口コミュニケーションが昔から怖いのよ。嫌いじゃなくて怖いの。勘違いしないでほしいんだけどいい子だからとかじゃなくてどっかから本人に伝わって嫌われるんじゃないかって不安になっちゃってお風呂とか寝る前とかに――」
「チガヤ! 行きましょう!」
いきいきと早口になった衛川さんの腕を、ラウラさんがむんずとつかんだ。
「ありがとうございます、ララフ君、パトリト君! 行ってきますね、康太さん!」
ばいばいと手を振って、三人が出ていった。
さてさて、パトリト君にはすり鉢を、ララフ君には、別の仕事を担当してもらおう。
「見てください、ララフ君! これを!」
僕は秘密兵器を机上にごとっと置いた。
「あまり良い予感はしませんね」
「搾油器ですよ。すごいでしょう。高圧をかけられるように、ピストンとヘッドが太くなっているんです。鉄じいさんと“放課後のハレム部”の共同制作で、ストレステストも兼ねているんで、もう全力でやっちゃってください」
「ぼくの予感はよく当たるんですよ。ま、気に留めていただいたことはありゃしませんがね」
僕はシリンダーに、炒って刻んで摺ったカカオニブをさららっと流し入れた。
「さ、どうぞ!」
ララフ君は頭を斜めにかたむけ、ぺっちゃんこになっちゃうんじゃないかってぐらい長い長いため息をつき、傷だらけの角をなでた。
「なるほどね。いつもこうして、愚にもつかないものをつくるための愚にもつかない仕事が回ってくるわけですか」
「またまたー。頼られて嬉しいんじゃん?」
パトリト君がまっすぐ急所を狙い、ララフ君は皮肉っぽい表情を保とうとやっきになった。
「環よ、環――」
ララフ君がごまかすように魔述を謡うと、ピストンがひとりでに動き出し、下がったヘッドがニブをぐいぐい圧迫した。
「おおお……わー……」
何度見てもあほみたいな声が漏れてしまう。
さびがも丸で、石臼から小麦粉がこぼれ出たときのあの感動は今なおまったく薄れない。
「で? 今度はどんながらくたを地上に呼び起こすつもりなんですか?」
「カカオバターですよ」
ララフ君は口を半びらきにした。




