オシュン・セイクリッドガーデンの味わうサピエンス③
「ハレムだったんですね! ガンちゃんといっしょのやつです」
「だあれが側室なんざやりたがるかい、くだらねえ。砂かけて逃げてやったよ。知らねえ土地で草をむしってるほうがましだあね」
「わたしと似ているんです、トルラセは。ね、トルラセ」
「へん!」
いつの間にか、みんな盛り上がりつつある。
ああなるほど、トルラセさんはハレムの成員として召喚されてしまったのか。
で、ただちにうんざりして逐電した、と。
ラウラさんと同じ生き方をしているんだな。
それは気が合うわけだ。
しかし、“放課後のハレム部”のみなさんにお会いしたときも思ったけれど、地球から人材をばかすか引き抜いてハレムでの政争に投じさせるの、本当にやめてほしい。
権力闘争は好きにしてもらったらいいけど、みんながみんな野心に燃えているわけじゃないんだよ。
「じゃあどこで知り合ったの? いつの間に?」
「パヴルーシャですよ」
おっと、ここでパヴェル・フョードロヴィチの名前が出てくるのか。
「トルラセは、ヴェートチカと仲が良かったんです。風吹きが丘に住み始めたお二人の、面倒を見ていました。優しいんですよ、本質的に」
「へん! バカな老人が近所で困り顔をしてたら、気楽な一人暮らしも辛気くさくなるだろうが」
パヴェルさんとスヴェトラーナさんのご夫妻は、原野商法みたいな詐欺に引っかかり、ほとんど文無しで風吹きが丘に越してきたと聞く。
それはまあはてしなく困っていただろうし、トルラセさんの存在はずいぶん救いになったことだろう。
「あのバカ、ある日を境にぱったり顔を出さなくなりやがって。わざわざ出向いてやってもお断りだとよ。バカにしやがって」
トルラセさんはずずっと音を立てて茶をすすった。
「その……それは、ヴェートチカが」
ラウラさんが言葉を濁してうなだれ、トルラセさんはとがったくちびるを引き結んだ。
「分かってるよ。見せたくなかったんだ、自分じゃねえ自分を」
スヴェトラーナさんは、実桜病に冒され、認知症様の症状を見せていたという。
夫妻とトルラセさんの交流が途切れたのは、そのあたりなんだろう。
「でも、ヴェートチカにも最近は良い日が増えてきました! コータのレシピのおかげです!」
僕は何もしていないし、なんなら提案したアモール・ポレンタは即座に棄却された。
スヴェトラーナさんがいうには、『あんなものはリュージグラードの粥すすりが食うもん』らしい。
ちょっと失礼しちゃうよね、小麦に対して。
「だから、交流を再会したんです!」
「なんでも喋るんじゃねえよ」
トルラセさんは深いため息をついた。
「パヴェルさんのところで、お二人は知り合ったわけですね」
「はい! とうもろこしのひげ茶を交わした仲です」
盃みたいに言うねえ。
もしかして日本人向けのジョークかな、気をつかっていただいてどうもすみません。
「となると、そこでパヴェルさんが、魔王領に売り込む代物として……」
「よりにもよってカカオをな」
僕の言葉に、トルラセさんは先回りした。
ここであらためて、状況を整理してみよう。
ピスフィは、王家への足がかりとして魔王領商館への饗宴を仕掛けるつもりだ。
その過程で、詐欺師のパヴェルさんと知り合った。
で、パヴェルさんはカカオパルプを武器に商館への仕掛けを開始した、という理解でよさそう。
よりによって、か。
「トルラセはカカオ農家の生まれなんです」
「あんた本当になんでも喋るんじゃねえよ……」
「だって、聞いてほしそうにしていますから」
「へん!」
これは、相性が良いなあ。
ラウラさんのどこにでも潜りこんでいく力、見習うべきところがおおいにある。
「あの、実はですね――」
そろそろいけそうな感じがあったので、僕は本題に入った。
カカオパルプについて調査するため、リーリさんの命を受けてここまで来たことをお話すると、
「へん」
トルラセさんの回答は、これだった。
予想できていたので驚きはなかった。
「あんなもん、ろくな食いもんじゃねえだろ。チョコなんてのは。売る立場ならなおのことだ。違うか?」
トルラセさんはサングラスをずり下げ、ラウラさんを睨んだ。
視線を向けられたラウラさんは、両手を上げ、僕に目を向けた。
「そうですね。トルラセの次……の次ぐらいには、理解があるかもしれませんよ。ねえ、コータ」
僕がずっとどことなくぐったりしていたのも、その理由も、ラウラさんにはお見通しだったらしい。
どうしていつもこんなに分かりやすく顔や態度に出てしまうんだろう。
カカオ農家の過酷さなんていうものは、わざわざ調べなくたって目にするし耳に入る。
そもそもがメソアメリカでの虐殺から始まり、今なお続く貧困、児童労働、環境破壊、低生産性、プランテーション、密輸入……汎人類史的悪夢の類型がぎゅうぎゅう詰めに詰めこまれた、負のおもちゃ箱だ。
「おれぁ別に困っちゃいなかったよ。うちは多数民族だし、大きいサプライチェーンと契約してたし、おかげさまで留学もさせてもらったからね」
「アストン大学は私も留学の候補でした」
「あんたフランスだろ?」
「英語圏で働くつもりだったんです」
「ああそうかい、だったらねえ、アストン大学は良いところだよ。名門も名門、もと宗主国さまの、いと多様性に満ちた、最高の雇用実績を誇るすばらしき大名門さ」
会ってからずっと皮肉しか言ってないなこの人。
「おまけにキャンパスじゃあ2ポンド足らずでマーズバーを買える」
ヌガーの入っためちゃくちゃ重いチョコレートバーだっけ、マーズバー。
衣をはたいて揚げたものがフィッシュアンドチップス屋さんで買えるらしい。
一口で一日分のカロリーが摂れそうなしろものだ。
「十歳にもならない痩せこけたガキが背中を曲げて、重ったい袋を担いで、乾いた暑い道をだ、晴れてりゃ砂埃で前も見えなくて、雨が降ってりゃぬかるむ道をだ、べそかいて歩くんだよ。ようようかき集めたカカオは先物の対象で、値うちを決めてるのは人ですらねえ、どことも知れねえサーバーでだれも知らねえまま走ってるバカなプログラムだ。おかげさまで先進国のグロサリーにゃあ、一口で虫歯になりそうな甘ったるいチョコバーが1.5ポンドで山積みになってやがる」
大きなサングラスでも隠しきれない怒りを顔に浮かべて、トルラセさんは語った。
「バカだよ。エイモスはAndroidも電子マネーも知ってたのに、チョコの味は知らなかったんだ。バカだろう、そんなもんは」
「エイモスの名前ははじめて聞きました」
「うちの農園で働いてたガキだよ。少数民族でね。悪さした父親が私刑で死んじまって、マココから叩き出されて、路頭に迷ってた。たまたまラゴスに出張してたおれの親父が拾ったんだ」
スマホは知っていてもチョコの味は知らない、というのは、あり得ない話じゃない。
なぜというに、これは単純な話で、カカオの産地ではチョコは溶けてしまうのだ。
いわばチョコレートの南北問題とでも呼ぶべき、文明のおおいなる欠陥だろう。
ここですこしばかり、チョコレート史について検討してみたい。
僕がぐったりしている理由に、すこしばかりの共感が得られるかもしれないからね。
コロンブスがうっかり中南米に辿り着いてしまって以降、新大陸は、人類史に消えない傷を残すほどめちゃくちゃな勢いで踏み荒らされた。
カカオは、その過程でヨーロッパに持ち込まれた。
華やかな香りを持ち、テオブロミンやカフェインといった蠱惑的なアルカロイドを含み、しかも新大陸由来の神秘性をまとったカカオは、はじめ十六世紀のスペイン人をとりこにした。
カタルニアのとある修道院には、おどろくべきことに、『チョコレートの間』なる一室が存在するという。
カカオを捧げ持つ修道士の画が飾られていて、画には出エジプト記の一節が引かれている。
どうやら当時のスペイン修道士は、カカオのことを、旧約聖書に登場するマナに見立てていたらしい。
そんなカカオは、十八世紀以降、お茶とコーヒーの台頭によってヨーロッパからほとんど駆逐されていくことになる。
なぜというに、当時のカカオは炒って刻んで擂ってバニラと砂糖を加えた飲みものとして消費されていたわけだけど、この調理過程が相対的に言って途方もなくめんどくさかったからだ。
お茶もコーヒーもやっぱりカフェインを含む飲みもので、なんというか、人類はこんな感じでいっつも刺激物質に振り回されているなあ、なんて気持ちになっちゃうね。
カカオが再び人気を取り戻したのは十九世紀前半、名前だけなら誰も知っているあの人物、バン・ホーテンの力があってのことだった。
バン・ホーテン親子は、カカオマスから油脂成分であるカカオバターを分離することに成功した。
この世界的偉業が固形チョコレート誕生のきっかけとなり、現代に生きる僕たちは、きのこがどうしたたけのこがどうしたで平和にけんかできている。
ここでようやく、チョコレートの南北問題に焦点が当たる。
チョコレートがぱりっと固まり、口の中で溶けてくれるのは、カカオバターの力によるものだ。
カカオバターの融点は(品種や環境によるけれど)自然下でだいたいセ氏30℃前後。
体温付近で急激に溶けてくれるこの性質が、チョコレートに、口どけという他にない魅力を与えてくれている。
しかし、カカオバターというのは本来、カカオが芽吹いて育つための栄養源だ。
これが液状であるうちは栄養として使えるけど、かちこちに固まってしまっていては用をなさない。
カカオの産地ではその必然としてカカオバターが溶けるため、固形のチョコレートを作れない。
これは南北問題のうち物理的な側面だ。
もうひとつは収入格差で、これはトルラセさんが怒りを激発したとおり。
一般的なカカオ農家は搾取的な賃金で労働集約型産業に従事しており、ひらたく言えば労働力もカカオもふざけた価格で買い叩かれている。
ごくごわずかな月収の中から、先進国基準になっているチョコレートの購入代をひねり出すのはむずかしいだろう。
それがたとえ1.5ポンドだとしても。
ナイジェリアで育ち、イギリスで暮らしたトルラセさんにとって、1.5ポンドという価格は不当に低く、それと同じぐらい、不当に高く映るのかもしれない。
僕は今でも、たまにチョコレートをぼりぼりむさぼり食いたくなる。
だけど、この世界にチョコが流通するきっかけは作りたくない。
それが世界史にどんなろくでもない影響を与えるか、分かったものじゃないからだ。
カカオパルプを口にしてからこっち、ずっとぐったりしていた理由をつまびらかにすれば、こういうことになるだろう。
トルラセさんが、口をすぼめて長く息を吐いた。
「ま、手に負えないもんでもうっかり発明しちまうような、バカで賢い生物だからね。ホモ・サピエンスって」
くくったなあ。
なんか僕もやや人類史に対して捨て鉢な気持ちで、いっしょになって皮肉を吐きたい気分だ。
「なんでしょうね。議会制民主主義とか? それともクリケット?」
トルラセさんはひじ掛けを叩いて肩を揺らした。
「ああそうだよ、それから、核分裂だのチョコレートだのもだな」
僕たちはかすかすの声で笑った。
「あの……」
榛美さんが、しゅんとした声で僕たちに呼びかけた。
「白茅ちゃんに、その……チョコっておいしいから食べたらおいしいって……」
隣で衛川さんもしゅんとしている。
しまったなあ、やってしまった。
通例に従ってやくたいもない潔癖さを発揮している場合じゃなかった。
社会科見学にしても、やわらかいやり方があるだろう。
「えと、その」
榛美さんはもごもごしてからしばらく黙り、
「おっ」
つんのめったように言葉をなくし、僕を見て、トルラセさんを見た。
「おいしいって、悪いことなんですか?」
トルラセさんは沈黙した。
かなり長いこと、風が吹いてキッチンガーデンの草ぐさがざわっと揺れるまでのあいだ、おとがいを反らしていた。
視線の先ではマンゴーとアサイーの梢がゆらゆら揺れていた。
「……悪かねえよ。でも、ときどき、だれかを傷つけるんだ」
呟くと、僕たちに背を向けた。
「話はもういいな。リーリとやらにどう伝えるかは、あんたの好きにしな」
そうしてトルラセさんは、静まりかえった博物館に一人で向かった。
◇
オシュン・セイクリッドガーデンを後にした僕たちは、ラウラさんの提案で、風吹きが丘に足を運んだ。
「やあ、こんにちは。すると君が康太君だね」
パヴェルさんは、出迎えてくれるなり僕に目を向けた。
「共通の友人から聞いているよ。なんでも、私ほどには詐欺師の才能があるそうじゃないか」
僕はにっこりした。
「食い詰めたときは弟子入りをお願いしに来ますよ」
「歓迎しよう。死人商いの秘奥は、ぜひともこの世に遺すべきわざだからね」
「パヴルーシャ」
責めるような呆れ声に、パヴェルさんはおどけて一歩引き、僕たちを招き入れた。
とうもろこしとハーブと炭と古着の匂いに満ちた、静かで小さなリビングだった。
ばさばさの白髪をひとつ縛りにした、肩に緑色のショールをかけた痩せこけた女性が、杖にすがって椅子から立ち上がった。
「嘘ですよ。ピスフィは皮肉屋さんだけど、陰口は言わないもの」
女性は微笑みながらゆっくりゆっくり部屋を横切り、僕の前に立った。
「スヴェトラーナ・ワシーリーエヴナです。どうぞ、ヴェートチカとお呼びくださいね」
スヴェトラーナさんは――ヴェートチカさんは、にっこりした。
だしぬけに杖を手放し、細い腕で、僕を抱きしめた。
「ありがとう、康太君」
僕は力いっぱいめんくらった。
「えあっえ、あっ、いや、僕はその、とくには……ほらその、リュージグラードの粥すすりがどうとか」
ヴェートチカさんは腕をほどき、僕の胸をぽんぽん叩いた。
「ふふふ、ごめんなさいね。さあ、お茶を淹れるわ。パヴルーシャ、白樺の蜜をあたためておいて」
「いいとも、ヴェートチカ」
まだちょっとぽかんとしている僕をしり目に、パヴルーシャさんとヴェートチカさんは調理暖炉に向かった。
「んふふ! 康太さん、よかったですね!」
榛美さんが僕の肩のあたりに頭をぶつけてきた。
抱きしめられた腕の細さと冷たさ、あたたかさが、おなかの底からからだ全体に広がっていくようだった。
「そうだねえ。うん、よかったよ。本当に」
お茶が入って、僕たちはテーブルを囲んだ。
とうもろこしのひげ茶、カッテージチーズがたっぷり入ったトヴァロージニー、あめいろの白樺シロップ、若い松ぼっくりの砂糖煮。
魔王領流のお茶会だ。
「いただきます」
スプーンでつぶした松ぼっくりの砂糖煮を、トヴァロージニーに乗っけてほおばる。
雨上がりの涼しい森みたいな香りに、カッテージチーズの酸味、ざくざくほろりの食感。
松ぼっくりの砂糖煮はロシアでは一般的なおやつらしいけど、楽しいなあこれ。
今度自分でもやってみよう。
「もちろん、あのすばらしき隣人はあの奇妙な実にとくべつな想いを抱いていることだろうね」
ここまでのてんまつをラウラさんが語ってみせたところ、パヴルーシャさんはぬけぬけとそんなことを言った。
「わお。分かっていてカカオを選んだんですか?」
さすがのラウラさんもしっかりびっくりしている。
性悪だなあ、パヴルーシャさん。
「長い付き合いなんだよ、彼女とは。それぐらいは分かるとも」
「こういう人なのよ、昔から。だれにでも好かれて、だれにでも嫌われるんです」
「この性分で、損をしたと感じたことは少ないね」
ヴェートチカさんの言にもけろりとしている。
見習うべき面の皮だ。
「いやなに、気に食わないなら火でも付けてしまえばいい。そもそもが、魔大陸からわざわざ運び込んだんだよ。どうしてだろうね? この地表に、チョコレートなる悪徳を一つ付け足すためだとでも?」
まったくそのとおりだった。
見て見ぬふりをすればそれでよかったし、なんなら白神の力を振りかざして、この実は毒だとでも言い張れた。
いずれどこかの誰かがカカオを発見し、カカオバターの分離に成功したとして、関わらずにはいられたはずだ。
「あるいはその知を、死蔵できなかったもかもしれないね。おそらくは君もそういう手合いだろう、康太君」
なんの反論もできなかったので僕は愛想わらいを浮かべた。
パヴルーシャさんは、自分の言葉が僕に与えた効果を確かめるように、たっぷり時間をかけてお茶をすすった。
すごい、めちゃくちゃいやな人だ。
「それで、どうするね? どうも、君の仕事は終わったように思えるけれど」
「あー……まあ、そう、そうですよねえ」
カカオの出所は分かった。
あとはリーリさんに報告するだけ。
だけ、なんだけど。
カカオティーのゆたかな深い香りが、からだの内に残っているのを僕は感じる。
「なるほど。たしかに君には、詐欺師の才能がありそうだ」
僕をしげしげと観察していたパヴルーシャさんは、おだやかに笑った。
「詐欺というのは、人の身上に寄り添うところから始めるものだからね」
僕もうっかり、笑ってしまった。
「やっぱり向いてますかね?」
さてさて。
やってみようか、チョコレート。




