鷹嘴家
榛美さんの家への道すがら。
辺境の地から来た旅人という体で、情報収集につとめた。
この辺りの集落と山は、カイフェという国の、踏鞴家給地と呼ばれる一帯らしい。
なんでも、寒村の鍛冶屋だった男が、“中つ国諸国”の“魔王領”への“十字軍遠征”に際して良質の鉄を供給した功績により、この土地に封じられたのだという。
あまりにもファンタジーな響きの単語が次から次にあらわれて、頭がくらくらする。
この世界では、一神教の聖地が魔族側と人間側でかぶっていて、それを奪い合ったりしているのだろうか。
榛美さんは、詳しいことは知らないという。
「わたしはここで生まれて、ここで育ちました。他の場所のことはよく分からなくて……あの、重たくありませんか?」
榛美さんがあまりにもよわよわしかったので、柴を担ぐ役目を引き受けていたのだ。
「これでも力仕事をやってたんだよ。生ビールの樽をかついだりね」
「なま……びーる……?」
昨日まで、生ビールのタップを増設するための融資をうけるため、銀行に提出する書類を必死につくっていた。
それが、エルフと肩をならべ、刈りたての柴をかついで棚田のわきのあぜ道を歩いている。
ああ、空が青い。
ビールのみたい。
一杯目は、なにも考えず、きんきんに冷えたスーパードライを流し込んで。
二杯目は、コエドブルワリーのブラックラガー、『漆黒』なんかをゆっくりと。
あてには牡蠣のアヒージョなんかどうだろう。
オリーブオイルに、にんにくと唐辛子を落として、低温で牡蠣を油煮するのだ。
にんにくの香りと唐辛子の辛みを閉じ込めたオリーブオイルをまとった、ふわふわの牡蠣。
ひとくち噛めば、海の香りと内臓の旨味たっぷりの塩っぽい汁が飛び出して。
それが油と絡み合い、なめらかな貝の身とまざりあって舌の上でおどる。
味の全体をひきしめるのは、オリーブオイルの青っぽい香りと唐辛子の辛さだ。
そこに、ブラックラガーを流し込むと、どうだ。
ホップの、みずみずしい果物みたいな芳香。
唐辛子ですこし痛んだ舌に、さわやかな苦味とわずかな甘味が心地よい。
喉を通り抜けたビールが残していく、焙煎した麦芽の、上等なチョコレートに似たフレーバー。
ほんのり感じる柑橘系の香りと快い炭酸が、口の中の油と痛みを流し去ってくれる。
「貝のアヒージョには栗なんか合うかもなあ。あの甘味とぽくぽくした食感……」
「あのう、康太さん?」
「え? あ、ええと、はい、紺屋康太です。ビール出てきた?」
「びーる……って、なんですか?」
我に返った。
そして少なからぬショックを受けた。
この世界の、少なくとも榛美さんが知っている範囲内にビールは存在しない。
「あの、わたしの家です」
切妻屋根と板割壁の平屋の前に、気づくと立っていた。
木目は、ため池で見た龍骨車と同じで、ひのきかあすなろみたいにまっすぐだ。
樹の外側に近く、タンニンを多く含んで腐敗しにくい部位を贅沢に使っているのがわかる。
近寄ってみると、手斧と槍鉋による表面処理の跡が、くっきり残っていた。
考古学者だったら泣いてよろこび、さっそく放射性炭素年代測定をはじめることだろう。
扉は、引き違いの格子戸だった。
江戸時代の戸と言えばわかるだろうか。
長方形の枠の中に横木を数本渡し、たくさんの木の棒を垂直にはめたもの。
格子は三分の一ぐらい折れたり取れたりしていたけれど、中の様子をうかがい知れないぐらいには密集している。
格子戸を引くと、しゃらしゃら音がなった。
戸の内側に、真鍮のパイプをいくつも並べたドアチャイムが吊るされているのが見えた。
榛美さんが家の中に入っていく。
柴を担いだまま榛美さんについていくと、
「……飲み屋?」
目の前に飲み屋があった。
たぶん。
床几というかローテーブルというか。
とにかく背の低い、四足の机が、板張りの床の上に四つほど。
擦り切れかけたゴザがだらんと敷いてある。
ローテーブルは、格子戸のパーティションで区分けされている。
経営していた居酒屋『ほのか』の二階席が、なんとなくこんな感じだった。
もちろん畳敷きだし、座布団は僕がこまめに綿の打ち直しをしていたから、いつもふかふかだった。
「鷹嘴家は、踏鞴家給地で唯一、お酒づくりを認められているんです」
よほど物珍しげな目をしていたのだろう。
榛美さんが解説してくれた。
「それで、農繁期にも農閑期にも、みんなここで集まってお酒を飲むんです」
「なるほどなあ……」
家族総出の農作業、疲れ切ってごはんをつくる気力もない。
そんなとき、ここに来ればごはんがあるし、お酒も飲める。
ひまを持て余した農閑期、外は寒いしやることもない。
そんなとき、ここに来ればみんながいてあたたかいし、お酒も飲める。
「それはいいね」
想像するだけで、なんとも楽しそうだ。
とてもシンプルで、すごく好ましい。
「…………はい」
けれど、頷いた榛美さんは、わらっていない。
「どこか泊まるあてはありますか?」
なにか言う前に、榛美さんがたずねた。
泊まるあてもなにもない。
この世界にはビジネスホテルとかネットカフェとかなさそうだし。
宿やら食事やらこれからの生活やら、想像してみる。
じわじわと実感がわいてきて、打ちのめされそうになった。
ここはかなりの確度で、まあ、異世界だろう。
トラックに轢かれるなり、首を出刃包丁で刺されるなりしたら、たいていの場合は異世界に行くものだ。
『ほのか』の経営。
振り込めていない給料。
僕の料理を待っているお客さんたち。
考えることが山積みすぎて、あたまの中で渋滞を起こしている。
その場にうずくまってしまいそうだ。
とはいえ、へたりこんで榛美さんを困らせるのは、あまりたのしくない。
「まあ、なんとかするよ。柴、どこに置いたらいいかな」
つとめて笑顔を浮かべてみせた。
「あっごめんなさい、重たいですよね! こっちです、すぐ案内しますふにゃっ!」
とたんに榛美さんがあたふたし、こっちを見ながら前に進もうとして、パーティションに体をぶつけた。
そんなにテンパらなくても。
格子戸のパーティションふたつで客席(?)と仕切られているのは、
「……台所?」
台所だった。
一段低い床は、土間になっている。
壁際に、石積みのかまど。
なんていうのか正式名称は知らないけど、とにかく炎が出る部分は三つ。
つまるところ、三口コンロだ。
煙突はないけど、跳ね上げ蓋のかかった窓が、かまどの上にある。
床には、だいたい膝の高さぐらいまである陶器の甕が、いくつもならんでいる。
土の中に埋められている甕も、いくつか。
なにかが発酵しているにおいがする。
不快な感じではない。
日本酒のような、華やかな香りだ。
酒を仕込んでいるのだろうか。
台所の格子戸から、外に出る。
家の裏手は、すぐそばまで斜面がせりだす、日影だった。
さっき水辺でも見た、チシマザマっぽい木が斜面にわさわさとしげっている。
しだやどくだみみたいな植物に囲まれ、井戸と差し掛け小屋がある。
「ここに置けばいい?」
「はい、お願いします……あの、ありがとうございます。ごめんなさい、ずうずうしいお願いしちゃって」
「持ちつ持たれつだよ」
お願いされたわけでもないし。
差し掛け小屋に柴木を積む。
凝った肩を回して、むわっとした湿っぽい空気を大きく吸い込んだ。
さて、チュートリアルミッション、
『エルフの家に柴をとどけよう!』
完了だ。
なにかステータスが変動したり、あたらしいスキルを覚えたりはとくにしていないようだ。
じつは一縷の望みをかけて、さっきから頭の中で
『ステータス! ステータス!』
と連呼しているのだけど、べんりなUIが目の前にあらわれたりする気配はまるでない。
それどころか、今後のあてもまるでない。
ファミコンのゲームぐらい不親切だ。
とほうに暮れていると、遠くの方で、しゃらしゃらと音がした。
ドアチャイムだ。
「お客さん? こんな時間に……ごめんなさい、ちょっと見てきます」
榛美さんが家の中に入っていき、一人になった。
よかった、これで思う存分、途方にくれられる。
「ああー……なんなんだよこれ、なんだよこれえ……」
しゃがみこんで顔を両手で覆い、思う存分うめいた。
「ああーもぉーのど乾いためっちゃ喉乾いたぁーどうしていいか分かんないし喉めっちゃ乾いたぁー!」
奇声をあげて井戸に這い寄り、水を汲んで、ごくごく呑んだ。
「…………すごいおいしい」
よく冷えていて、すごく口当たりがいい軟水だ。
この水で日本酒を仕込んだら、華やかですばらしい香りのものができそうだ。
臥龍梅みたいな感じの。
あてには、しょうゆ干しにしたタチウオをあぶったものがいいだろう。
もちろん、駿河湾で釣ったものだ。
ワインでも日本酒でも、同じ土地で採れたものをあわせるのがやっぱりいい。
純米吟醸の臥龍梅は、静岡で作っている誉富士という酒用米で仕込んだものにしよう。
こってりして、独特の匂いがある、タチウオ。
こいつのしょうゆ干しを、網で、端っこが焦げるぐらいまで炙ってやる。
ふわふわの身の間から溢れる、脂。
舌がしびれるようなしょうゆの旨味を、散らしたごまが引き立てる。
そこに、一も二もなく臥龍梅だ。
わずかに感じる心地よい酸味と、主張しすぎない味。
マスカットやメロンのような、華やかな香り。
舌の上にいつまでも居座らず、タチウオの味ごと口を洗い流してくれる銘酒。
それが臥龍梅。
静岡にでかけたときには、いつも、沼津の有名な酒屋さんで買っていた。
「……日本酒呑みたい」
いや、というか、もうお酒だったらなんでも飲みたい。
いまの自分に必要なのはお酒だ。
大人には、お酒をのまなければやっていられないことがたくさんあるのだ。
意味もなく殺されて、脈絡もなく異世界にトリップするとか。
そこで、はたと気づいた。
さっき通り過ぎた厨房から、吟醸香らしきものがしていたことを。
榛美さんに頼んでみよう。
一杯ぐらいおごってくれるかもしれない。
異世界のお酒だ。
わくわくしない居酒屋経営者がいるだろうか。
そう考えると、立ち上がる元気が出てきた。
しかし、台所を通り抜け、飲み屋(?)に出ていくと、
「……うさ耳?」
うさ耳の騎士が、剣の柄に手をかけていた。
なんだかわからないけど、お酒はしばらくおあずけになりそうだった。